福澤諭吉は朝鮮併合には反対していた。
ただ、この件に関しては、当時の福澤諭吉の政府への影響力は、最近の
ネット情報なのでは過大に見られている。
明治政府と福澤の関係は、明治は始めの頃は良好で、福澤の明治政府への
影響力も少なからずあったと思える。
しかし、明治14年の政変で大隈重信と慶應義塾出身者が明治政府から追放
されて以来、福澤と明治政府との関係は悪化、彼の影響力も低下した。

その後、1882年(明治15年)3月福澤が創刊した日刊新聞『時事新報』で、
1885年(明治18年)3月16日号に掲載された社説が『脱亜論』。
この『脱亜論』が発表された1885年には、福澤の明治政府への影響力は
小さくなっていた。