ドイツ人のビジネスマンと結婚して、通訳として活躍している毒舌の日本人女性は言った。
「フィルハーモニーでよく見る日本人の男がいるよね。いつもおどおどして、周囲を見渡して、一張羅のジャケットの中に大きな録音装置を隠してる。ほかにも、決まった場所にいつも一人きりで出没する日本人が何人もいるけど、全員オワッテルよね。」
わたしもその男には幾度も会った。フィルハーモニーでいつも擦り切れた背広を着てメガネをかけた日本人。彼はマイクを隠し持ち、座席から演奏を録音するのが習慣だった。近くに座る誰もが彼が隠し録音しているのに気付いていただろうが、SNSもまだ存在せず個人主義のベルリンでは、誰もが見て見ぬふりをしていたのだろう。毎回の録音を彼は自分の部屋の中でもう一度聴き直して恍惚としていたのだろうか。

サトミセキ『ベルリン、記憶の卵たち』(左右社 2021)