「ニーベルンゲンの歌」は岩波の相良訳で読んだ。
叙事詩というもので読んでいて、心が高揚し、わくわくしたのはこれだけ。

ワーグナーみたいなえらく長いモノローグや対話なんてのはなく、形式的に整っていて語りに節度があり、古典として優れた文学である。語りに節度を保ちつつ、その節度は王族たちの誇りを表している。しかし度を超えた運命に英雄と女傑が絡め取られていく。

それに比べたらワーグナーのは、神話の名を借りつつ細部を肥大させた近代的な心理劇である。

先程、「度を超えた運命に英雄と女傑が絡め取られていく」と書いた。が、その運命を作っていくのは、ここではあくまでも人間の意力なのである。どうにもならない人間の意力が運命を作っていく。

近代人は劇ならむしろそれが当たり前と思うかもしれない。しかしギリシア悲劇にあってはそうではない。あらかじめ神託により人間の運命は決定されている。そこでは人間の意力は問題にならない。人間がいかなる意力を持とうとも人間は定められた悲劇から逃れられない。これがギリシア悲劇である。

「ニーベルンゲンの歌」では、人間の強い意力がどうしようも無く悲劇を生み出していく。
それがまさにゲルマン的である。

ワグネリアンが「指環」を一クールだけ聴くのをやめて「歌」を読むのなら一生残るような読書体験ができると約束できる。おそらく。