李雲迪は、「何と純粋無垢なショパンの響き」と絶賛された。まさに当時は、キムタクとそっくりの顔をしていて、長髪を振り乱して華麗にショパンを弾くエキゾチックな青年に、ヨーロッパの社交界は騒然となったのだ。
その後、李雲迪はドイツのハノーバー音楽学院に留学した。同時期に留学していた知人の音大生は、こう語っていた。
彼はもう一度、古典音楽を学び直したかったようだ。だが周囲がチヤホヤして、夜ごとどこかへ呼ばれるので、勉強どころではなかった。ドイツ語はむろん、英語もほとんど話せず、キャンパスでは中国人留学生としか話さなかった。
卒業時の演奏会を聴きに行ったが、『18歳の時のほうがよかった』という評価だった。本人もそれは自覚していたようで、卒業後は中国に帰国した」
高度経済成長時代に突入していた中国は、李雲迪の優勝を機に、空前のピアノブームが起こった。親たちは自分の一人っ子を「第二の李雲迪」にしようと必死になり、ヤマハはインドネシア工場から、中国へ向けて怒涛のようにピアノを売った。