>>102
>あえてカントでいえば「批判=クリネイン=分離する」を
>どこに照準を合わせて行うか。ケージがそれを問題にしているのは認めよう。
ふむふむ。

まず、「なぜいまさらにケージなのか?」っていう問題がある。君のいうように、
たしかにケージは前衛であったし、あろうとしていた。それはよく知っています。
しかし、ジョン・ケージを「現代音楽/現代の音楽」のカテゴリーに入れるのは
適当だとは思えない。すでにノスタルジーだよ。だからトリビアに入るし、
現在においてはケージを語ることはせいぜいがアイロニーどまりになるとしか
思えない。
ケージがもっとも前衛的、つまりラディカルな作品を発表していたのは
1940年代の終わり。今から60年以上前の話だ。それを「現代音楽/現代の
音楽」っていうのにはかなり無理がある。
彼の音楽行為を現在の問題としてとりあげることに価値があると
思えない。もちろん、「ある!」って意見があるなら聞いてみたいけどね。

もちろん、僕もipodにHPSCDはいれない。
「プリペアド・ピアノの為のソナタとインターリュード」だったらいいけど。
でもその「いいけど」っていうのはケージがあの曲で本来意図した前衛さに
準じて聞いているわけではない。むしろ、ふつーのポップ・ミュージックの
範疇に入れて聞いている。きれいだからね、あの曲。

僕が反応したのは、

>音楽じゃないね。やっぱり音楽はイデオロギーで、建築なんだ。
>がっしりした建築があって初めて、ちょろっと逸脱できたらいい
>という感じ。

というくだり。ケージは明らかに「音楽」(その結果を好むか好まざるかに
かかわらず)だし、音楽は「イデオロギーで建築」であるべきという考えにはいまいち納得で
きないから。

ただ、ケージの行為や結果が現在のわれわれにとってアクチュアルかというとまた別。
そもそも録音物でケージの音楽を聞くっていう時点で、「それ違う」
ってことになるし。当時からレコードは出ていたけど、それは当時の彼は前衛であった
からわざわざレコードにすることに意味があったわけであって、今、ケージを
ipodで聞くっていう行為はオレンジレンジを聞くのとまるで変わらない。あとは
嗜好のオハナシに回収されると思われる。

さて?