>>105
>日本の音楽界ではなく、この発言者は相当腐ってると思っていいでしょうね。
どこがどのように腐っているのか? もし僕の発言が不適当なら、芸大なりで
現代音楽(作曲でも演奏でも)やってるやつら(教授も学生もふくめて)が
現代の社会とどのようなスタンスをとった活動をしているのか、現代美術の
活動と比較しながら批判してくれないか。他のジャンルでもよい。もちろん、
比較ではなく、音楽だけの話でもよい。

>>106
>50、60年代のケージもラジカルな側面を持つし
>晩年のケージのナンバーピースは大変素晴らしく前衛的な作品もあるし
>これがなければヴァンデルヴァイザー楽派は存在しない。
たしかにそうだけど、いずれにしても過去の話。晩年の作品は評価が
かなり分かれるというか、「まだあんなことやってるの?」って
感じだったけどね。その意味で、いつまでもいつまでも、作曲をすることに
こだわり続けたあの姿勢は、ケージ信奉者へのアイロニーだったと
いえるかもしれない。アイロニー、アイロニーってうるさいかもしれないけれどさw
それに、たとえ60年代にまでケージの全盛期を拡大したとしても、
40年以上前の話だ。そんな時代の音楽を「現代の音楽」として
聞いているなら、ちょっと能天気にすぎないか? たしかに学ぶべき
ところはあるだろうけど、あくまでも過去のものだ。
価値はある、しかし、現在の問題じゃないんだ。現代の視点から
ケージ解釈をするって言うなら別だけどね。

>釣り師のレヴェルが低いね。
そういうつっこみこそ、君のレベルの低さを露呈していると思うな。
釣り師とか、そういう話じゃない。

さて、「逸脱」と「拡大」についてだが、「逸脱」というのは「逸れられる
ライン」というものがあることを前提としている。それがいわゆる、
「建築」なり「イデオロギー」なんだろうけど、僕はそもそも、
「本来の音楽があるべきあり方」なんてないと思っているから、
「音楽から逸脱した音楽」なんていうのはありえないという立場だ。
ケージの場合は「チャンス・オペレーション」そのほかの「新しい」
(前衛的な)イディオムを開発した、つまり、作曲なり演奏なり、聴取なりの
新しいイディオムを作ったわけだから、それは音楽の思考の領域を
拡大した、といえる。歴史的にね。

さて?