君、長いなーw

拡大か逸脱か。ここが君の標的になる訳がわかった。
で、既に言ったことの変奏だけど、
前衛という文字が、僕にはどうしても「前提」に見えてしまう。
(目が悪い、とか言う奴いる?w)
例えば、「プリペイド・ピアノ」と「ベートーヴェンの難聴は重症だ」は
僕の中で大して差がない。
或いはこんな例。そのヴァンデルヴァイザー楽派関連者の日本人はセミナーを開き、
「客にあるタイミングで箸を割らせる」音楽を行った・・・
或いはこんな例。「30分に5回しか音の鳴らない曲」・・・
絶句。
こういうエピソード的なイメージが取り敢えず強い。
僕がなんだこれ、と言いそうな作品は花火だ、ということでいいのだろうか??

で、そうじゃない、イディオム的評価に値するもの・・は、
僕たちのiPodにエンコードされてあるもの。楽曲として、手馴れたイデオロギーの元で
聞かれるもの。でもって、退屈しない様に「ちょろっと逸脱」を含んでいるもの。
>…半分被ってないかい?
といったけど、さっき携帯からざっと見てこう思ったのは、つまるところお互いのiPodのあり方だった。
僕が「四季」を気に入ったとしても、矛盾しないということは言うまでもない。(大していいとは思わんが。)
なお感性的所与(例えば「痛ーなコラ」)は真理だけど、極めて貧しい真理であると言ったのも、カントですね。
ここからは議論は発生しない。

・・それはそうと、
その僕のiPodの中身は、アメリカ実験音楽というビッグバンがあってのことなのか?
だとしたら、軽はずみに否定はできなくなる??確かに、僕は自分のレベルが低いと思ったよw
でもね、そのビッグバンを作品と見做すかどうか、は今もって問題な訳です。

次。アイロニーについて。
僕は、アイロニーは、それ自体は本質的でないと思っている。
>>98では強調されていることだが・・
と思えば、長い文中、さりげなく「ケージ信奉者へのアイロニー」と入れてるところが・・油断できんなw

取り敢えず最後。
モートン・フェルドマンは図形楽譜の発案者にして、演奏家に失意を抱いて楽譜の破棄を余儀なくされるのだった。
マルクスの如く、ケージと「ケージ主義」に大きな隔たりがあるとしたら?
マルクスは退廃した資本主義から、その彼方に共産主義を見出した。
しかしマルキストは誤り、ファシズムに傾倒したんでした。僕はこれを論じられるスキルはないけど、面白いかもね。
あとは、後期ケージの賛否議論、か。えへ、どっちも一緒だと思うなー。