(・・割り込んだら勿体無さそうだが)

>>129
>ケージは普通に作品を書いて、普通に出品していただけだと思うな
>>130
>ケージがやっていたのはあくまでも「音楽」、そしてしつこいけど、
「音楽を拡大しようとする試み」だと思う。「試み」ね。
どういう整理なんだ?僕は前に[メタ音楽/音楽]と書いたけれど、上の言葉でいえば
「試み/音楽」という分け方になるだろ。
メタ音楽であっても、それは聴かれた途端「音楽」に引き摺り下ろされる。
そもそもケージの詐術というのはそれだったんじゃないの?

・・まあ、重要だと思って言ってみるけど、飛ばしてもらっていいです。
>>129のは笑えるからな。美術というかコントに見えるがな。

>>126・・長ーよw
一方僕は完全に「アンチ」です。
「大文字音楽=イデオロギー」をキープしつつ、反権力を唄いながら「音楽に素人もプロもないよね」と優しい声色で
製作・過程に目を向けさせる。パティシエが客をキッチンに連れてくようなもんだ。
マッピングというけど、それは地図の裏っ側で根茎的に行われるべき。で、その端末たる地上の花は美しくあるべき。
関係することでしか生きられない有機体。イデオロギーないし建築は宿命なんだ。
花は苦渋に絶えても、花であることを振舞っている訳。
それは「社会」でもそうなのだから、アイロニカルな態度には厭らしさしか感じない。
現代音楽は根っこが根っこを咲かせてるみたい。

音楽は関係の芸術、横に見れば民族的時間的フレーズ、縦に見れば建築だ。
僕は依然「ちょろっと逸脱」をキープするが、いきなりブツッと関係を切ってしまうというイメージが現代音楽にはある。
論理的にいえば、文脈が切れすぎなんだよ。
花を咲かせる意思のなさ、というのを感じる。あるいは、関係しようとする意思が薄弱。
概念に住み着いてスピードがない。「よーい」があって「ドン」がない。

と思うんだが・・それは作品としての評価です。
抽象論しか持ってないから、突き詰めるためには色々聴くしかない。
それにしても、アンチ文献学に寄せられた、聴いたり弾かないと分からない、てのは実際どうなんだろうか。
ピアノはそこそこ弾けるけどな。そりゃ、大変だな。

ほぼ独り言になったがな。
・・上の整理では僕の方では支障があるんでな。
またメタがオブジェクトに化けてくるのか、と思うとぞっとする。
けどまあ、この人たちの情報は参考になるな。
30分に5回しか音が鳴らないよりは、パフォーマンスの方がよいな。