今日は誰もいないのか。

ふう。易の音楽をTudorで聴いた。iPodには入れていないが、一番だけはエンコードした。
その他、ryoanji、VariationsII、VariationsIV。苛々しながら、最後の1秒まで聴いた。
どれも二度と聴かないだろう。
音響的には綺麗な面もあった。(VariationsIVは最悪。この手のものだと事前に分かるものは今後一切聴かない。
ryoanjiは比較的ナラティヴな音列ともいえるが、それだけだった。)
それでも最後まで苛々したのは、それが遂に「作品」の境地に達していなかったから。
音で成された論文。論文は詩でも文学でもない。

少なくとも、彼は音楽的にアナーキーだ。
しかし政治となると、最低限スピーチが出来なければ話にならない。
彼の対談『小鳥たちのために』を読み飛ばした限りでは、
とてもではないが彼にその何がしかの能力があるとは思えない。余りに杜撰な理論。
彼に何を言わせてもよい様な環境を、誰が整えたのか。
差し当たり特に象徴的な発言を挙げれば、「音楽とあなたがいうようにそれは言葉でしかない」
というシャルルへの応答。言うまでもなくそれはアナーキストにありがちな疎外論的諦観だ。
音楽という言葉、言葉が引くパラダイムの領域に、音が従属「させられている」という誤謬。
「要素が全体に先立つ」という考え方。そんなものはモダニズムですらない。

彼の時代はシュルレアリスムがダダを乗り越え、
モダンでいえば、グッドデザインがキッチュを疎外する、というような現象に取り巻かれていた。
別の所では、バウハウスはナチスに閉鎖される。
そんなことばかり起こっていた。表も裏も奇怪な世界。人間の姿をしているのは兵隊くらいか。
(それはそうと、ネオダダなどただの露悪趣味以外の何だ、ケージと何が被るってんだ?!)
従って、本来彼は大して特別なことを行っていない。
しかし、音楽でそれを行ったことが彼を異端にした。それだけに、音楽はプラトニックだったのだろう。
もちろん、図形楽譜ならフェルドマンが先行しており、偶然性は古くからモーツァルトも使用している。
(偶然性について言えば、ある意味偶然の介入は芸術にとって必然なのだ。だからこそ、簡単には咲かないんである。
偶然性は必然かに見えてその実無根拠な音の中に、作家の実存的な審美のプロセスに見出されるべき。)
しかしながら音楽史上のスキャンダルはやはり彼の名に収斂する。
・・・・・・それは今後も変わらないだろう。

誰に何を言いたいというレスにはなっていないがな。
誰もいないのか。上の方にはちらっと僕以外のアンチがいたようだがな。進行の緩急があるのかな。

とりあえず最後。
混沌の20世紀、その60年代。ダダを倒したのは遠い星からやってきたウルトラマンだった。
チャックが背中から出ているのは、みんなには内緒だ。