浅田彰としての音楽
ぼくはなにが専門というわけではないけれど、批評とはなにかについてだけは、
ここ15年ほどえらく真剣に考えてきたという自負があります。
そんなぼくにとって、批評という行為については、もはやなにを論じているか、そ
の対象やメッセージはどうでもよくなってしまう傾向があります。言いかえれば、
ぼくは批評をメタ作品というよりも、ベタにひとつの作品として読んでしまうところ
がある。したがって、その社会的な影響力や「正確さ」なんてものは、究極的に
はどうでもいい。むろん、多くのひとが批評を逆にそういう点でだけ読んでいるの
は知っていますし、その受容は尊重しますが。
それは、シネフィルにとっての映画、アニオタにとってのアニメと同じだと考えれ
ばいいかもしれません。いかにひどい物語を語っていても、いい映画、いいアニ
メはありうる。ぼくはそれと同じように批評を読みます。ぼくにとって批評の魅力
は、たとえば、文章の構成、問題設定の妙、展開のリズムなどに、またそれに付
け加えれば、批評家が「自分が批評を書いていること」に対してどれほど自覚的
であるのか、その意識の深さにあるのであり、そういうものがない文章は、ぼく
は批評として評価できない。逆に、その基準さえ満たしていれば、対象がなんで
あろうとぼくには批評的強度に満ちたものに見える。この点ではぼくはいまだ
に、批評空間+表象文化論派というか、柄谷行人と蓮實重彦の直系です(彼ら
の弟子たちは厭がると思うけど)。どの場所に強度を見いだすのか、その場所が
異なるだけで。
ぼくはよく「批評は売れなければいけない」と言います。そのせいで誤解されてし
まうのだけど、批評なんて当然売れるわけがない。そんなことはぼくも知ってい
るし、そもそもぼくはぜんぜん本を売ろうとしていない著者です。しかし、同じ売
れないにしても、1万部売れればぎりぎり批評という行為は再生産されるけど、
2000部しか売れないと批評というジャンルそのものが消滅してしまう。そんな環
境のなかで、ぼくが言いたいのは、もし批評というジャンルを愛しているのであ
れば、批評というジャンルを生き残らせるために最低限の売れる努力をしていこ
うよ、これからは文芸誌も大学も助けてくれないのだからさ、というだけのことで
す。
批評を嫌いなひとは、よく「批評なんて社会にとって必要じゃないんだから、消え
たってかまわない」と言います。それはまったくそのとおりで、批評は社会にとっ
て必要なものではありません。しかし、そんなことを言ったら、映画もアニメも、い
やあらゆる文化が必要なものではありません(だってつい100年前には映画もア
ニメもなくても社会は回っていたのですから)。ぼくはその前提のうえで、個人的
な愛の問題として、日本の文芸批評の伝統は生き残らせたいと感じる。それだ
けのことです。 ただそのときぼくが、文学とか芸術とかハイカルチャー系のひとたちとちょっとだ
け違うのは、彼らはよく、「○○が消えつつあるのは××のせいで、これは悪い
ことだからみなで対策を立てるべきだ、具体的には公的な支援が必要だし出版
社も良書の出版に務めるべきだ」と言うのだけど、ぼくはもうそういう支援は貰え
ないので言っても仕方ないと思っているということです。批評を生き残らせたい
のだったら、自分たちで地味にがんばるしかない。だから思想地図もゼロアカも
行っている。これからも似た企画は続けるでしょう。むろん、それは批評を愛して
いないひとには関係のない話で、そういうひとにはぼくの仕事すべてが滑稽なも
のに見えるでしょう。実際、ぼくに向けられている批判には、そういった滑稽さを
指摘するものが多い。でも、それも、あらゆる職種、あらゆるジャンルに言えるこ
とじゃないかと思います。なにかを愛しているひとの行為は、それを愛していな
いひとには滑稽に見えるものです。
ぼくは一般には、一方に現代思想系のアカデミシャン、他方に非モテ系のオタク
たちを読者にする分裂した書き手だと思われています。しかし、ぼくはじつは、学
者もオタクも主要な読者だと考えたことがない。ぼくがぼくの本を読んでもらいた
いのは、なによりも批評を愛するひとたちです。そしてぼくが批評を書くことで行
いたいのは、批評を愛する読者を増やすことです。
ぼくは最近、自分がアカデミズムや大組織の空気に馴染めない変わり者である
ことがわかってきたので、もうこれからは文章を書いて孤独に生きていくしかな
いと覚悟を決めました。のたれ死ぬかもしれませんが、そのようにしか生きられ
ないのだからしかたがない(ルソーに惹かれているのはなによりもそういう人生
の点でです)。小説を書きだしたのもそのためです。ほかにもなにかやるかもし
れない。ただ、これからどのような人生を送ったとしても、ぼくの批評へのこの愛
は変わることがないと思います。
とくになにがあったというわけではないけれど、新年度も近くなったことですし、
書きたくなったので書いておきます。 猫ほど無意味な生き物はないし、猫について語ることほど無意味なこともない。
しかし結局のところ残るものは、あれやこれやの意味ではなく、無意味なものだけだ。 つまり勝つということが何を意味してるのかみたいな話? つまり、まだまだいっぱい隠しているところがあるんだよ(笑)。 /∴∵∴∵丶
/∴∵∴∵丶
/ # ∵ 丶
丿 ∴ |
| ̄\ /# ∵|
|マ● / ィ∀フ ⌒)
(  ̄/ 丶 ̄ ) 9|
| | # _ノ
| >―′ #| 歌舞伎が駄目なら・・・お〜い!たけし軍団
\  ̄ ̄ ̄ /ヘ
/丶 ⌒ ノ~ / \
/丶  ̄ ̄ / ち○こ入れても
精子は出すなっ!!
よく練られていない"気"を"精"という
"精"を出さず体の中でよく練ると"気"になる
"気"を出さずに練れば練るほど"気"のパワーは大きくなる
わしはこの"気"を自由自在にコントロールできるのじゃ 浅田彰としての音楽…
戦後、大衆はアメリカ、インテリ層はソ連に洗脳されたわけだが、当時、浅田彰はどんな音楽聴いてたの? 魔術や錬金術こそ
今 科学とよばれているモノを
生み落とした母体であって
近代科学なるものは 矮小化された
その息子にすぎない
かのニュートン卿も随分と錬金術に
入れ揚げていた人間だった 浅田彰のモーツァルトやベートーベンの解釈って滅茶苦茶だろ。
こいつ交えて対談番組とか何考えてんだろ教授も >>135
スレチだが、社会学や心理学なんか典型。
実存の社会的投射という疑惑は、実は心理学にも社会学にも共通する。双方と
も百年プラスα程度の歴史しかなく、メスマーの「動物磁気学」やコントの「
人類教」を見れば思い半ばに過ぎる通り、呪術や宗教と混淆した部分があって、
出自も共通していかがわしい。
今頃
関西新政府の文部科学大臣になる第一手を考えているかな 細川俊夫ちゃんに対抗して「松風」オペラモドキ上演してたな。 強迫行為が重症化すると、そのもとになった強迫思考はどこかに引っこんでしまい、
行為自体が目的化してしまうことがある。自分のイメージどおりに行為をなし終えないと、
はじめに戻って何度も繰り返す。 一人称の主語を獲得することですね。一人称の述語は暴走しません。当たり前ですね。自分ですから。
これが複数になったとき述語が暴走します。戦争はこうしてはじまるし、虐殺もこうして生まれます。
でも、一人称ではないから感覚も希薄です。すべてが終わってしまってから、みんなで顔を見合わせて
「誰がやったのか」とか「誰が責任を取るのか」と言い合っている。歴史はそんなことの繰り返しです。 ふつうの演奏家であれば、音の強弱や長短に自分なりの装飾と特徴をつけ
て、何とか聴衆を自分の演奏に情緒的に惹きつけようと試みるものだろう。
ところがここでのグールドはそうした誘惑とはきっぱり手を切ろうとしている。
彼はまるで音楽の情緒性を理解しない子供が機械的にバイエルを反復練習
しているときのように、全ての音に情緒を込めないで抽象的な音のシステム
としてこの曲を現出させようとしているからだ。 ゴダールp70-2
「著作権法があればその恩恵を受けますが、そう、しかしそんな法律はなくても私たちはそれを要求したりしません。」 >>115
ひきこもれ(吉本)→無理(世間)
承認抜きで自分を肯定せよ(斎藤)→無理(世間) 坂本の番組に出てしょうもない話してんじゃねえよ
っていうかほとんど黙ってるだけじゃん. 彰を8回折り畳んだら、付けていたワイヤ入りブラに落雷した 誰かが通った道を行くのは賢い人間だ
ゆえに 人類を進歩させたのは愚か者である
ハングリーであれ、愚か者であれ by スティーブ・ジョブズ ____
/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\ <by スティーブ・ジョブズ
/ ⌒(__人__)⌒ \
| |r┬-| |
\ `ー’´ /
ノ \
/´ ヽ
| l \
ヽ -一””””~~``’ー?、 -一”””’ー-、.
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
____
/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ <だっておwww
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ / / //
| :::::::::::(⌒) | | | / ゝ :::::::::::/
| ノ | | | \ / ) /
ヽ / `ー’´ ヽ / /
| | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l バンバン
ヽ -一””””~~``’ー?、 -一”””’ー-、
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒)) サバクトビバッタはおそらく
世界で最も危険な害虫です ■なぜ精神科医になったんですか? と、ときどき聞かれる。そのつどいろんな答え方を
してきたけど、本当のところは僕にもよくわからない。
■まあでも、大事な決定なんて、たいがいそんなものだ。そう、
「欲望は他人の欲望」といわれるようにね。
■でも、僕は精神科医になれてラッキーだったと思っている。「わかってないこと」がこれ
ほど多い分野も珍しいから。
■この本に出てくる病気のうち、「本当の原因」がわかっているものはひとつもない。
治療にしたって、はっきりいえば「結果オーライ」みたいなところがある。 浅田が司会していたシンポジウムで藤幡の言っていた“アートの本来の意味は技芸、
つまり技術(建築家的なもの)と芸の合わさったものとしてあった。それが、いつの間
にか芸だけになり、アートと呼ばれている”って話が印象に残っている。 少年犯罪が取り沙汰されたとき、宮台や大澤がメディアで遭おってたけど、
社会が変われば、犯罪の性質が変わるのが普通。
車社会になれば、交通事故が増えるように。
その点、浅田は冷静だったなぁ。。。 占いにハマる女、批評にハマる男
端から見れば同じ穴のムジナ お疲れさん この対談だって、なれ合いだったら、読者をばかにしたことになるでしょ。 ヒステリーの語源はギリシャ語の【hystera】で子宮という意味
ヒステリーは、1920年代に女性が開放的になり、絶滅に近い状況になった。 ホックシールドによると、フライト・アテンダント(客室乗務員)は顔の表情をスマイ
ルに操作をするだけではなく、怒りそのものを感じないように「感情操作」を行う。 録画していたスコラを今頃見てるんだけど、
この人の話が特に音楽に詳しいように感じられず、
そもそも浅田彰って音楽が専門じゃないよな〜?
どうしたのかな…と思って、このスレにたどりつきました 余計な名前のついてくる経済学者は大半がペテン師だから。 ・収入保障保険は分割で支払われるのが特徴。しかし、定期的に入ってくる収入については、所得税や住民税がかかってくる。
しかも、国民健康保険や介護保険料も高くなる。つまり、月々の収入に保険金がプラスされた形で、種々の税金、社会保険
料が計算されることになる。
・保険は契約時の約款に基づいて履行される。契約時の約款に記されていない手術は、給付金の対象外になってしまう。保険
の契約は、たいてい長期にわたるものであり、その間には新しい手術法や治療法が開発されていく。
・保険会社とのトラブルは個人で対応しても埒が明かない。素早く国民生活センターに相談すべし。
・医療費適正化計画とは病気ごと、あるいは治療法ごとの、治療費を一定額に定めたもの。病院としては、入院が1週間であ
ろうが1ヵ月に及ぼうが、入ってくる収入は変わらないことになる。そこで、新しい患者を呼び込んだほうが儲かると、患
者を早期に退院させる傾向が強くなる。
【高額療養費】高額の医療費がかかった場合、公的な医療保険から自己負担分のうちのかなりの部分が払い戻されるシステム。
民間の割高な保険料を払い続けるより、その分を貯金でもしておいたほうが得かもしれない。 教育とは個人の利益を主な目的とするものではなく、社会がその存続のための諸条件を更新する手段である マスゲームよりも、ミニカーを並べるほうが、どれほど安心でき、対象をコントロールできる感覚を得られるだろう。 ttp://web.archive.org/web/20070827122613/
ttp://blog.moura.jp/geetstate/ ttp://web.archive.org/web/20070815001256/
ttp://blog.moura.jp/geetstate/content.html 徹底した市場化とグローバル化、つまり、国家の希薄化 フランス人って昔からハリウッドの作ったクリシェとガジェットをアートにしちゃうのがお家芸
ヌーヴェル・ヴァーグも元はハリウッドのB級映画の模倣 渡辺守弘もいたのか。
いっそ春秋座で松平の「源氏物語」に「宇治十帳」でも上演させたらどうだ。 昔東京室内歌劇場で上演した平安ポッペアをOAKと共同で再演してくれ・・・・そうもないな。浅田だし。 「サブリミナル」(潜在意識)による「パーセプション」(知覚)。
<我々が意識的に感知しうる感覚的情報は、全情報量の1%以下であるといわれている。
それ以外の情報は、すべて見逃されるか「サブリミナル」の貯蔵庫に蓄積されることになる>。
この発見は、これまで「無意識」として漠然と了解されていた領域の解明に、大きな一歩を踏み出した。
ウィルソン・ブライアンキイ「メディア・セックス」はこの領域を扱っている。 >> 70年代から80年代にかけての歴史の宙吊り状態のなかで消費社会を彩った記号論的な差
異化のプロセスは、すでにほぼ飽和した。人々はもう引用のコラージュやパロディといった
表層的な記号のゲームに飽き果て、圧倒的な深みをもったイメージを求めているのだ。
飽きたのは浅田さんだけ・・・。
ソフトとハードでも、コンテンツとアーキテクチャでも、どちらでもいいけど、ソフトが世界を変える
なんて事態は健全とはいえないし、ハードウェアさえしっかりしていれば、中身は記号のゲームでいい。 「社会システム理論によれば……」と言うのは、
「一般相対性理論によれば……」と言うのとは違って、
「……」の内容を強く限定・規定するものではない。 「ポストモダニズムは、現実社会を改変してゆく新しい明確な展望を打ち出すことができない」というのは、
全共闘世代の知識人のポストモダン批判の決まり文句である。だが、「哲学」というものが、「思考の原理」
であるとするならば、「最終的な答えのない状態を耐えて生きていくしかない」というポストモダン的な態
度を選択することも、一つの哲学的な「展望」ではないだろうか。――なぜ「話」は通じないのか――
鳴り物が派手であったわりに、あっという間に消滅してしまった集団なので、「かけ声倒れ!」の一言で片づ
けてしまってもいいような気がする。とはいえ、この柄谷ファン・クラブは一応、「国家」の権力装置にたよ
らないで、グローバル化しつつある「資本」を廃絶に追い込むことを目標にかかげていたことを忘れてはなら
ない。権力奪取して、プロレタリアート独裁のような体制を築いたうえで、資本主義の計画的な廃止を目指そ
うとすれば、結局、ソ連のようになってしまうだけだから、それは止めておこうということだ。――デリダの遺言―― 20世紀精神分析は、「私」は「私」自身の真の主人ではなく、「私」の「内なる他者」ともいうべき
「無意識」によって、操られている可能性を示唆した。「私」の思考パターンは、不可視(無意識)の
「構造」によってあらかじめ規定されており、「構造」の枠内でしか私≠ニいう存在があらわれ、活
動することはできないかもしれない、ということを構造主義は示唆した。――思想の死相――
私の場合は、恋愛問題とかで悩んでいた覚えは一切ない。ひょっとすると、精神分析的には「何かある」
ことになるのかもしれないが、精神分析による原因探求なぞ、元信者の自己申告以上に当てにならない。
――<宗教化>する現代思想―― http://42zajn.info/2/
自分と相性バッチリの芸能人が
わかっちゃいます。
友達とやって大受けだった
芸能人との無料相性チェック。
無料だし、イチオシです。 <マーケティング系映画>の作り方。
ランダムに集めた観客にテスト試写を観せて、アンケートとって、その集計結果どおりに編集し直す。
マーケティングで映画を作るとなると、単純ハッピーエンド映画になる傾向が強い。 映画産業は、大衆向けに娯楽映画、インテリ層に価値転倒映画を食べさせて儲けております。
発達障害で求刑超す判決 大阪地裁「社会秩序のため」
ttp://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201207310067.html 浅田はメジューエワに飯を喰わすためにCD解説書くくらい落ちぶれている。メジューエワのCDがレコ芸で特選ばかりなのに裏があるのは知られた話。 ヒトは何を食べてきたか?
人工生命作成までの5年間の記録 >>201
子どもの頃、『ツァラトゥストラはこう言った』でニーチェが侮蔑を込めて描いている「最後の人間(末人)」の像に触れて、
「これはまさに自分のことだ」と思ったのを覚えている。もはや想像と破壊の ドラマは終わり、すべてが平準化された中
にあって、「最後の人間」たちは退屈な幸福を生きるだろう。
あらゆる情報を記録したテープがリミックスを加えて反復されるのを瞬きして眺めながら、(後の章に出てくる「小人」のように)
「およそすべては円環をなして回帰する」などと小賢しく呟いてみせもするだろう・・・。
『早稲田文学』11月号に出た鎌田哲哉の私に宛てた公開書簡は、そのような「最後の人間」であることに居直る私に対し、「安
直なニヒリズムを捨て、人間としてまともに生きよ」と呼びかけるものである と言ってよい。
その書簡は石川啄木の日記にならってローマ字で綴られている。 「僕は啄木のようにまともに生きる、あなたもまともに生きる
べきだ」ということだろう。
その純粋な熱意は(ありがた迷惑とはいえ)ありがたいと思うし、そこに書かれた私への批判も(いくつかの点で異論があるとは
いえ)おおむね受け入れる。
だが、残念ながら、私はその呼びかけに動かされることがなかった。
ひとつだけ、私の言葉に対する誤解と思われる部分に触れておこう。鎌田哲哉が部分的に引用している通り、西部すすむに「浅
田さんがほとんど 書かなくなったのは世界や人類を馬鹿にしてのことですか」と問われて、私は「いや単純に怠惰ゆえにです。
しいていえば、矮小な範囲で物事が明晰に見えてしまう小利口かつ小器用な人間なので、おおいなる盲目をもてず、したがって
どうしても書きたいという欲望ももてない。要するに、本当の才能がないということですね。書くことに選ばれる人間と、選ばれない
人間がいるんで、僕は選ばれなかっただけですよ。と、今言ったことすべてが逃げ口上にすぎないということも、明晰に
認識していますけど」と答えている (『批評空間』U-16)。
これは、私が本格的なものを書く力がないということ(私の「弱さ」)を、私が明晰に意識しているという意味ではない。書こうとする
努力もせずに自分には書けないのだと前もって居直ってしまうことが逃げ口上にすぎないということを、明晰に意識しているという
意味だ。
その意味で、私の立場に論理的な問題はないと思う。
では、倫理的な問題としてはどうか。 そのような早すぎる断念は卑怯な逃避として否定されるべきか。
むろん、私は、自分自身がそうできないだけにいっそう、断念を拒否してなんとか努力しようとする人(鎌田哲哉を含めて)
を眩しく見上げ、可能なら助力しようとしてきたが、断念したい人に対して断念するなと言う気はさらさなないし、自分に
対してそう言われたくもない。
努力したい人は努力し、断念したい人は断念する。
それでいいではないか。
ここで飛躍を厭わずフランシス・フクヤマが『人間の終り』で論じるバイオテクノロジーの問題ともからめて言えば、
20世紀が限りない延命を目指した世紀だったのに対し、21世紀の課題はそれへの反省であり、具体的にいって、たとえば
安楽死施設、さらには自殺(幇助)施設の合法化であると思う。
生きたい人は生き、死にたい人は死ぬ。それでいいではないか。
ニーチェは「最後の人間」について「少量の毒をときどき飲む。それで気持ちのいい夢が見られる。そして最後には
多くの毒を。それによって気持ちよく死んでいく」と書いている。
かれの侮蔑にもかかわらず、私はそれも悪くない選択肢だと思わずにはいられないのだ。
もちろん、私はいますぐ死にたいというのではない。大江健三郎の『憂い顔の童子』で「母親が生きている間は自殺
できない」という主人公の強迫観念が主題化されていたが、これはすでに父を喪った私にも大変よくわかる。
幸い、私はきわめて凡庸な常識人なので、倫理と言うより礼節の問題として。母より先に自殺するつもりはない。
そうやって生き延びている間は、「最後の人間」を気取って暇つぶしをしながら「i-modeかなにかでくだらないお喋りを
続けること」があってもいいのではないか。
また生きて努力しようとする人々にささやかながら助力することがあってもいいのではないか。
だが、鎌田哲哉が、そのようなおせっかいは生の意思を死の病毒で汚染するだけだというのなら、私はそれを断念し、
彼の後姿にむけて静かに幸運を祈るばかりである。 >>「マンガにしろ本にしろ、楽しむために読むっていうのは、わたしは、さんざん商売にしてきながら変なこと言うかもしれないけど、何か間違ってないかと思っているところがあるの。」
>>「道中楽しいのはそりゃあ勝手だけれど、でも目的は、馬鹿を治してりこうになるため。りこうになって人生に失敗しないようにするため。小説だろうが何だろうがハウツーものとして読む。」
>>「でも読んだ人は、アングルだとかそういうところで驚いたとか、道中楽しかったからという評価になるわけで、まあ、いいんだけれど。」>>「気持ちのこもらない絵が描きたいな。」
>>204
昔、福田和也と大塚英志が云ってたけど、「鎌田哲哉や東浩紀なんかはピュア、本気でピュア、だから困る。」「どんな批評も描かれていることと現実
の間には当然ズレがあるけど、彼らはそのズレを感じていない。」「浅田彰に云わせれば、彼らは人生を知らないってことになるんじゃないか。」
大塚は香山リカとの対談でも、「(世の中、引っ掛ける人間と、引っ掛けられる人間がいて、)東くんは引っ掛けられる側」みたいなこと云ってたね。
ttp://okwave.jp/qa/q7591074.html
ttp://www.nnaymp.net/28.html
ttp://toro.2ch.net/test/read.cgi/utu/1329735828/ (社会が表現に対して影響を与えるのは内容ではなくて形式だ・・・)
内容は作者が意識して作る。だからむしろ社会反映論では説明できない。けれども
形式は無意識で作られる。つまり、作者のおかれた条件が、作者の意識を経由しな
いで反映している。したがってそこでは社会反映論が機能する。批評は作者の無意
識まで降りていき、そこで社会に出会う。要は、批評は、作者がなにを考えて作品を
作ったかとか、作者がなにを描きたかったかなんて、最初から相手にしていない。
精神分析でも記号論でも二十世紀以降の作品研究は基本的にそういう立場なはず
ですが、実際にはこのレベルまで行くと高度な話になるようで普及していない。そこで
一般的には、この作品はニートの主人公が出てくるから格差社会の現実を描いてい
るよね、という通俗的、というか「それってそのまんまじゃん」的な読解が批評だと見
なされ続けている。
表現論対反映論というのは、つまり、記号の内的な構造に注目するか記号とその外
部(現実)との関係に注目するかという対立です。いわゆるポストモダン派は、ひとこ
とで言えば、記号と現実の関係はきわめて疑わしいのでまず記号の構造を見ろ、と
言った。というわけで、『批評空間』派は加藤典洋や浅羽通明も宮台真司もみな一緒
くたに評価しなかった。しかし、九〇年代後半にポストモダン派のヘゲモニーが崩れて、
今度は反映論的なパラダイムばかりになった。批評は現実を掴むものという理解が
拡がり、それがいまでも続いている。 徳永(恂) ぼくは音楽はわからないんで、ちょっと伺いたいんですが、彼のジャズ論というの
は…(以下略)
浅田(彰) 率直に言って、偏見だと思いますね。もちろん、シンコペーションのような要素は
秩序を破壊するどころか逆に強化する予定された逸脱にすぎないとか、ジャズは黒人の音
楽ではなく白人か黒人の音楽と称して売り出した商品だとか、いろいろと鋭いことは言っ
ている。それに、そもそも戦前はビッグ・バンドのスウィング・ジャズくらいしかなかっ
た。しかし、戦後、ビーバップからフリーまで、チャーリー・パーカーやバド・パウエル
からオーネット・コールマンやセシル・テイラーまでのジャズの歴史というのは、モダン
・ジャズという名前の通り、否定に否定を重ねて先鋭化していくというモダニズムの運動
を、もっとも典型的に、しかも、きわめて急速に反復してみせたようなものですよ。それ
でも、アドルノは最後になるまでジャズをまったく認めないわけでしょう。それは、べー
トーヴェンからシェーンベルクに至る音楽をもって絶対の規準とするという姿勢から来る
バイアスです。しかし、その意味では、ジャズは大衆音楽だからいけないというのではな
くて、ストラヴィンスキーも同罪なんですよ。
(「批評空間」第12号、1997年1月、31頁) 浅田彰、笑。
哲学者ってことごとく評論家になり、さらにことごとくテレビコメント屋になるな。
哲学は科学に負けてとっくに終ってるのに、いつまでも何やってるの。
もっと本格的な人文学をやりなさいよ浅田君。
おすすめの研究課題は、アフリカか南米の危機原語とか、
音楽がいいならアフリカか南米の秘境の音楽調査。
でもそれを格好つけに利用するなら百害あって一利なし。泥だらけになってやれ。 てかテレビには昔っから出演してるしな
中沢新一のほうがよく出てた気はするけど https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%88%A5%E7%94%A8%E8%AA%9E
>1989年には浅田彰が『文学界』2月号で昭和天皇の病気治癒を願って
皇居で記帳している日本国民を「土人」と読んだ
浅田さんそんなこと言ってたんだ…知らなかった…