ウェーベルン^点描主義
こんばんわ、この板初めてみつけて今まで色々見てたんですが
ウェーベルンのスレッドが無いので作ってみました。
やはり実質ウェーベルンが現代音楽の父なんじゃないでしょうか。
ということで色々お話しできたらなと思います。 >>1
隗より始めよということで、とりあえず君から語ってくれないか どうせなら新ウィーン楽派で立てりゃ良かったのに。
つかクラ板のスレは落ちてたんだな。 一口にウェーベルンって言っても、
初期の表現主義、中期の歌曲、後期の非表現主義といろいろ違うよね。
まあ、人気のあるのは初期かな。
シュトックハウゼンもポストウェーベルニアンって言われてる割には、
初期の表現主義の影響がでかい。 トータルセリーにつながってるからえらい人なだけで
それも廃れた今ではウェーベルンと現代音楽をむすびつけるものはなにもないような 無調を推進して「心臓をナイフで抉る音楽」とか批評されて,
自殺まで考えたシェーンベルクのほうが偉いと思う。
別に大衆ウケするもの作ってればよかったものを。
弟子を引き連れてそれはそれは心労も多かったろう。
そんななかで,厳格な12音技法をねじまげたベルクもエライ。
ところがウェーベルンはマジメすぎて面白くないのだ。
点描も技法的には有益だが大したアイディアではない。
その後のトータルセリーだって歴史的必然として通る道だったかもしれないが,
それは単なる通過点にすぎなかったし。 >>7
つttp://yuukiremix.s33.xrea.com/chirashi/ >>7
そんなことはないよ。
ウェーベルンだって、ドイツロマンの感性を極めて正統的にに受け継いでる。
あれはロマン派音楽なのだ。 >>9
確かに初期の表現主義的傾向はロマン派的だね。
後期は本人も言ってるように、バロックへの回帰かな。
現代音楽の父とか言われて、真面目君ぶったイメージがあるけど、
戦後のセリエリズムが無かったら、
音楽史の中ではかなりの異端児扱いを受けそう。
シェーンベルクにしてもベルクにしても、
その当時の「音楽」っていう概念から、
そんなに外れた事してた訳じゃないからね。 >>10
>後期は本人も言ってるように、バロックへの回帰かな。
私はバロックに回帰しましたってどこで言ってるんだ? いい加減に言ってみるが、オーケストラの掛け合いが合奏協奏曲風とか。
まさか6声のリチェルカーレのことじゃあるまいな。 >>11
シェーンベルク宛の手紙の中で、
最後の弦カルに言及してそう言ってる。
ロマン派的な表現主義に対して、
純音楽をなんたらかんたらと。 >>13
>ロマン派的な表現主義に対して、純音楽をなんたらかんたら
バロックへの回帰と全然違うじゃん >>14
いや、だから純音楽をなんたらかんたらというところで、
バロックへの回帰ということを言っていた。
言葉足りなくてゴメン。
詳しい文章は忘れたから、
興味があったら書簡集を読んでくれい。 ラサールQの新ヴィーン楽派集の付録資料には載ってないみたいだな。
持ってたはずのモルデンハウアー本も行方不明。orz >>7
シェーンベルクが自殺を考えたってのは奥さんとのトラブルの絡みだろ。
彼が批評の悪口でめげるなんて考えられない。
それと未だに新ヴィーン楽派を「歴史的意義」だけで云々するのは少々痛いな。 なんつうか、澄んでて好き。ピアノの変奏曲とか凄いよ。 誰か点描主義に関して熱く論じて見ろ。
その時代の絵画と音楽とのコジツケ関連性でもなんでもいいぞ あ、それおれ変だと思ってた。
絵画でいう「点描主義(pointerisme)」って
偏執的に空間を点で埋めるやり方だよね。
一方音楽でそう呼ばれるのは音を「点」在させるやり方で
むしろ「間」に着目した言葉として使われてる。
1890年代のスーラの「点描主義」とウェーベルンは
だから、意味的にも歴史的にもこじつけようがない。
ウェーベルンに近いニュアンスの絵画として思い浮かぶのは
1950年代(つまりウェーベルンの評価が上がった時期)のタシスムの方だし、
ウェーベルンの音楽を「点描主義」と誰がどのような文脈で言い出したのかが気になるところ。
俺はヴェーベルンから一番連想するのはモンドリアンと後期の
カンディンスキーだな。
ヴェーベルンの音楽を初めて知った人がびっくりして「点描」と
言ったのは分からんでもないが、ヴェーベルンがあの書法で
強調してるのは「点」じゃなくて「動機」「音型」だと思う。
今となってはヴェーベルンを「点描主義」というのはミスリーディング
ではなかろうか。 シェーンベルク − カンディンスキー
ウェーベルン − クレー
なんてどうか 俺的にはカンディンスキーというと、ウェーベルンにかぎらず上で言うように、音型/動機/発展等と言う点で、
ある意味音列音楽全般との-絵画と音楽-視覚と聴覚での類似性、共感覚的なもの、関連性-を持っていると。(そういえばシェーンベルク、バッハ、カンディンスキーの洒落たサイトがどこかにあったな)
点描って言葉は発音法に関してのイメージを持っていたのだが。
音列主義の持つ一つの矛盾を音を短く切ることによって克服しようとする表現方法の一つだという感覚を勝手に持っていた。
例えば初期的な音列理論をミクロに推し進めていくと、倍音なんかが邪魔に思えたり、純音に近い音で、等という(スペクトラムのスレもあるが)発想がひとつ出てくると思うが、
それを時間軸でリリースをカットすると言うような。理屈を書くと長くなるが。
だから美術の点描とは、結果的に時期的にも近く、良く似たイメージで同じ言葉が重なった、というような感じ。
まあしかしあの時期アートに限らず、いろんな分野のアイデアが-共感覚-シンクロニシティー等というような言葉で語られ始めた時期でもあると思うが。 カンディンスキーの好きなところは、個別の要素をちりばめて配置してる様だ。
無機質の並列がカンディンスキーで、有機質の並列がダリだと思う。勝手に。
シュニトケの多様式と似ているかもしれない。なんだこの駄文は。
サントリーでVn協聴いてきた。
お腹鳴らしまくってごめんなさい。 セリエストだけでなく
ケージやラモンテヤングへの影響も忘れてもらっては困る そういや塩見さんも楽理科のとき
ウェーベルンやったって言ってたな >>21
同感です。美術の用語を安易に音楽に使いすぎではないかと
感じます。
音楽史と言われているものが、かえって安っぽい感じがする。
しかし、近頃の作品と比べると、ほんとに落ち着いて聞こえる。 点描もさることながら、「音色旋律」ってのも決まり文句になってる割には
よくわかんないなぁ。(バッハのリチェルカーレの編曲ではなるほどと思うが) >>31
たしかに音楽史の本で20世紀に来ると「〜派」のレッテル貼りにやけに熱心
なんだよねー。まぁ他に書きようがないのかもしれないが。
>>34
やっぱり短い音型の呼び交わしみたいに聞こえるなぁ。 保守しとこう。
誰か新ヴィーン楽派スレ立て直さないか? スーラを思い浮かべた。
>>36
現代音楽板って1945年からでは? 朝日新聞川柳 2005-9-1掲載
「カトリーナに 指令出したとアルカイダ」 東京都 日月 雅昭
選者 大友閑人選 選者評「直撃」
これを選んで掲載したってマジですか? >ほんとに落ち着いて聞こえる。
「必然性」の有無にあるのではないかと漠然と思っています。 絵画と音楽とは違うから、絵画の点描主義の意味合いをそのまま音楽に当てはめても、ちぐはぐになってしまうはず。
音楽における点描主義とは、機能を厳選して集約化させることと同義。
つまり不必要なものを削ぎ落として、極力単純化させることですね。
大作主義が推し進められたことへのアンチテーゼでもあるでしょう。
音楽で何かを描写することに腐心していた当時の感覚では、彼の、機能を核に音楽を構築する方法は画期的だったのです。
が、これはバッハ以前から培われてきた原典でもあるわけで。つづく >>40
>音楽における点描主義とは、機能を厳選して集約化させることと同義。
そんな定義ねーずら。初耳
>音楽で何かを描写することに腐心していた当時の
かなりずれてる気がするけど、念のため質問:何年ごろの話?
>>42
>機能集約云々
群作法やトータルセリエリズムに向かう流れから考えるとその通りだろう。 いや点描主義って言葉はあくまで絵画との類推(それもかなり粗雑な)
から来ているので、集約云々をその定義のように言うのはちと違うかと。
TAMA21交響楽団 第12回定期演奏会
指揮:松沼俊彦
日時:2005年10月2日(日) 14:00開演(予定)
会場:アミューたちかわ 大ホール
ウェーベルン「夏風のなかで」
マーラー交響曲第6番 イ短調「悲劇的」 点描主義って、要はパレットで色を混ぜるのではなくて、スクリーン上で
分割して配置することによって鑑賞者の網膜で、色を混ぜさせる技法のこと
だけども、その定義をそのまま音楽にあてはめなくても良いんでは?
ヴェーベルンのそれを音楽における点描主義と表現するのには変でもないと
思うのですがどうでしょう? >>40を最初読んだときは「点描主義」の定義が「機能厳選云々」と言っている
ように読めたので、ちょっとひっかかったが、定義じゃなくて「結局同じこと」
という意味なら、それでもいいような気がしてきた (^^)
亀レススマソ