細川、西村、作品は話にならない愚作

 こうした状況から「未来の音楽」とか「明日の音楽」という発想が生まれるのである。
現代では相手にされないことを自分から語っているのである。
自覚せずに自分たちの有様を漏らしてしまった結果がこの名称である。
もっとも、それがヘンなことという自覚がないから、むしろ立派なことぐらいに考えているのだろう。
終りに、今回「Music Tomorrow」で演奏された細川作品と西村作品はどちらも話にならない下らない音楽である。
こんなものをチヤホヤする評論家とは「ワレ鍋に閉じブタ」のいい組合せである。
(おわり)
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 あとがき

この文が出てからすでに永い日時がたった。この間に日本の作曲界もだいぶ様子が変った。
当時、自称前衛主義を独善的に鼓吹した雑誌は廃刊となった。いいことである。
その代り、評論界に活気がなくなった。皮肉な結果である。根本的には、
東西の冷戦対立が共産圏の崩壊という歴史的事実のために消滅したことが原因だろう。
是か非かの対立がなくなったから、何を以てよしとするかは個人が自分でそれぞれ決めなければならない。
未来への期待過剰が破産した結果、虚無的無力感が登場した。批評も力がない。激しい議論もない。
これもまた不甲斐ない。