アンパンマンパッド
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しかし第一の「徳川家康篇」だけは幸ひにも未成品に畢つてゐない。 いや僕の信ずる所によれば、寧ろ前人を曠うした、戞々たる独造底の完成品である。 一部の「徳川家康篇」は年少の家康を論じた「徳川家康」、中年の家康を論じた「鬼作左」、老年の家康を論じた「本多佐渡守」の三篇の論文から成り立つてゐる。 (尤も湖州はかう云ふ順序に是等の論文を書いた訳ではない。 「徳川家康」は明治三十一年、「鬼作左」は明治三十年、「本多佐渡守」は明治二十九年、―― 即ち作品の順序とは全然反対に筆を執つたのである。)是等の論文は必しも金玉の名文と云ふ訳ではない。 同時に又格別新しい史料に立脚してゐると云ふ次第でもない。 しかし是等の論文の中から我々の目の前に浮んで来る征夷大将軍徳川家康は所謂歴史上の家康よりも数等に家康らしい家康である。 たとへば「徳川家康」の中に女人に対する家康を論じた下の一節を読んで見るがよい。 「家康の子、男女合はせて十六人、之れを生みし腹は十人、夫人の産みし二子を除きては、余は皆側妾の所出なり。 (中略)其の最後にお勝が腹に末女を挙げさせしは、既に将軍職を伜に渡して、駿府に隠居せし身にて、老いても壮なる六十六歳の時なりとぞ識られける。 其の他この豪傑が戯に手折られながら、子を結ばで空しく散りにし花は亦一二に止まらざるべし。 秀吉は北条征伐の陣中より淀君が許に一書を寄せて、『二十日ごろに、かならず参候て、わかぎみ(鶴松)だき可申候。 天真爛漫といはばいへ、又痴情めきたる嫌なからずやは。 家康には表面さる事見えざりしかど、所詮言ふと言はぬとの相違にて、実は両雄とも多情の男なりけん。 「さはれ流石に思慮深き家康は、秀吉の如く閨門の裡に一家滅亡の種を蒔かず、其が第一の禁物たる奢は女中にも厳に仮さで、奥向にも倹素の風行はれしは、彼の本多佐渡守が秀忠将軍の乳母なる大婆に一言咎められて、返す詞も無かりし一場の話に徴して知るべし。 駿府にて女房等が大根の漬物の塩辛きに困じて、家康に歎きけるを、厨の事をば沙汰しける松下常慶を召して今少し塩加減よくすべしと諭ししかば、此の老人主が側に進み寄りて、何事をかささやきしに、主は言葉なくして唯笑ひけるを、彼れ其の儘退きしと云ふ。 「老人ささやきしは、『今の如く塩辛く漬けさせ候てさへ、朝夕の用夥しきものを女房達の好みの如く、塩加減いたし候はば、何ほどの費用に及ぶべきも計りがたし。 女房達の申す詞など聞し召さぬ様にて、わたらせ給ふこそ然るべけれ』とは曰ひしなりけり。 常慶も塩辛き男なれば、家康が笑ひし腹加減も大に塩辛かりけり。 「『近年日課を六万遍唱へ候事、老人いらぬ過役にて候。 成程遍数をへらし候へば、楽に成り候得共、幼少より戦国に生れ、多くの人を殺し候得ば、せめて罪ほろぼしにもなり候半。 且年若より一日も隙に暮したる事なき身故、何ぞの業を致度候得ども、それもいらぬ事故、念仏を日々の稽古事の様に致し候ゆへ、毎日朝起いたし、夜もはやくは休不申、おこたらぬやうにこころ懸候事。 夫故食事の中りもなく健にて、念仏の影と存候。』と言へるを看ても、裏面の行跡に大に放縦の振舞なかりしは察すべし。 但し彼の秀吉すら「女に心不レ可レ免」と戒めたれば、家康が清浄潔白の念仏談も、曾て一時に数人の侍妾を設け置きし覚えある男の言と識るべし。 人を殺しし罪ほろぼしの外に言ひ難き懺悔の珠数をば繰らざりしにや。 徒士の者奥の女中に文を送りしとて、徒士頭松平若狭守改易の罪に処せられきと伝ふれば、奥向の規律の厳正なりしを窺ふべし。 亦窮屈なる規則の内にても、主人には之を潜りて融通の道ありしを忘るべからず。 「おのれ常に老臣共の衆評を聴きて、一人に権を占めさせじと努めし跡は、歴々として史上にも残りけるが、表の政治に用ゐし此筆法は、奥の女中を制御するにも応用して、一人の女に寵を専にさせじと抑えしは疑あらず。 十六人の子を挙げし十人の妻妾、二人より多くを産みし者なかりしは、深き仔細ありぬるにや。 強ち偶然の事のみにあらざるべし。」(胡麻点は原文のを保存したのである。) この徳川家康は女色を愛する老爺たるばかりか、産児制限をも行ふ政治家である。 これは明かに三百年来、我我の見慣れた家康ではない。 我我の見慣れた家康よりもはるかに人間らしい家康である。 諸君は或は僕の言葉の平凡過ぎるのに微笑するであらう。 「人間らしい」と云ふ言葉は勿論非凡でも何でもない。 あらゆる新刊の小説や戯曲は必ずその広告の中に「人間らしい苦しみ」とか「人間らしい生活」とか、人間らしい万事を売りものにしてゐる。 が、それらの小説や戯曲は果してどの位広告通り、人間らしい何ものかを捉へてゐるのであらうか? 殊に英雄の伝記の作者は無邪気なる英雄崇拝者でなければ、古色蒼然たるモオラリストである。 成程彼等の或者は人間らしさを説いてゐるかも知れない。 しかし彼等の人間らしさも実際彼等の吹聴するやうに人間らしいかどうかは疑問である。 が、神には生れない以上、やはり凡人たる半面をも具へてゐたことは確かである。 すると我我の目の前に何の某と云ふ人物を立たせ、その何の某の英雄たることを認めさせる為には、凡人たらざる半面を指摘すると同時に凡人たる半面をも指摘してなければならぬ。 在来の伝記の英雄に人間らしさの欠けてゐるのはかう云ふ用意の足りぬ為である。……」 けれどもこれだけの用意さへすれば、果して彼等の云ふやうに、人間らしい英雄を示し得るであらうか? たとへば諸君の軽蔑する「漢楚軍談」を披いて見るが好い。 「漢楚軍談」の漢の高祖は秦の始皇の夢に入つたり、白帝の子たる大蛇を斬つたり、凡人ならざる半面を大いに示してゐるかと思へば、女楽を好んだり、士に傲つたり、凡人に劣らぬ半面をもやはり大いに示してゐる。 しかし「漢楚軍談」の漢の高祖に王者の真面目を発見するものは三尺の童子ばかりと云はなければならぬ。 もう一つ次手に例を挙げれば、諸君の「漢楚軍談」よりも常に一層信用せぬ歴史、―― 新聞の記事の大臣も民意を体したり、憲政を擁護したり、凡人たらざる半面を大いに示してゐるかと思へば、をついたり、金を盗んだり、大凡下たる半面さへやはり大に示してゐる。 が、新聞の記事の大臣に英雄の真面目は少時問はず、凡人の真面目さへ発見するものは三尺の童子―― ではないにもしろ、六尺の童子ばかりと云はなければならぬ。 すると彼等の云ふやうに、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘することは少しも英雄の英雄たる所以を明らかにしない道理である。 彼等はこの道理にも頓着せず、神経衰弱に罹つたエホバのやうに彼等の所謂人間らしい英雄なるものを創造した。 山積する彼等の伝記の中から我我の目の前に浮んで来るものは丁度両頭の蛇のやうに凡人たらざる半面と凡人たる半面とを左右へ出した、滑稽なる精神的怪物である。 モオラリストの英雄も余りに善玉でないとすれば、余りに悪玉であるかも知れない。 しかし彼等の英雄は或統一を保つてゐる限り、人間らしいとは云ひ難いにもしろ、人形らしい可愛らしさを示してゐる。 けれども一部の伝記の作者の所謂人間らしい英雄はかう云ふ可愛らしささへ示してゐない。 就中彼等の創造した征夷大将軍徳川家康は最も不快なる怪物である。 聖アントニウスを誘惑した、如何なる地獄の眷属よりも一層不快なる怪物である。 湖州の徳川家康は是等の怪物に比べずとも、おのづから人間らしい英雄である。 湖州は家康を論ずるのに、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘したのではない。 唯凡人たる半面と凡人たらざる半面との融合する一点を指摘した、―― と云ふよりも寧ろ英雄の中に黙々と生を営んでゐる人間全体を指摘したのである。 これは言葉の穿鑿だけすれば、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘するのと毫釐の相違に過ぎないかも知れない。 が、事実は千里の山河を隔絶したにもひとしい相違である。 凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘するのは凡庸なる作者にも成し得るであらう。 しかし神采奕々たる人間全体を指摘するのは一代の才人を待たなければならぬ。 湖州の前人を凌駕する所以はこの人間全体を指摘した烱眼に存してゐる。 湖州自身も史上の人物に人間全体を発見することは絶えず工夫を凝らしたものらしい。 たとへば明治二十七八年頃の「随感録」と題する随筆は次の一節を録してゐる。 「書を読て、心緒忽然として古人に触れ、静夜月を仰ぎて、感慨湧然として古人に及ぶ。 更に略々同時代に成つた「伝記私言数則」は悉このことに及んでゐる。 「事実に依りて心術を悟り、心術を悟りて更に事実を解す。 人は外界の事情に制せられて、己れの意志を枉げて心ならざる事を行ふ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています