山田耕筰スレッド
日本における西洋音楽の普及に努めた偉大な先人、山田耕筰(1886-1965)
オペラや管弦楽曲の作曲家や、指揮者としても活動した彼は、
日本人なら誰でも知っている、美しい愛唱歌(歌曲や童謡)を多数作曲しています。
そんな山田耕筰の、日本の心ともいえる歌を語りましょう。
Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E8%80%95%E7%AD%B0 >>35
確かに。
でもヘ長調で歌われることが多くない? >>36
ドファファーソラ>ドファレド レ<ファファーソーラー ってこと?
俺はあんまり聞いたことないなあ。でも、黒鍵が多くて弾きづらいから
移調するのかもね。
山田 耕筰 (待ちぼうけ)
画数:山[3] 田[5] 耕[10] 筰[13]
天画(家柄) 8画 中吉 強靭な精神力が持ち味
地画(個性)23画 大吉 弁舌さわやか、頭角を現す
人画(才能)15画 大吉 思慮深く謙虚な性格
外画(対人)16画 大吉 凶も吉にしてしまう希有な強運
総画(総合)31画 大吉 誠実で温厚、家庭も仕事も安定
評価 : 98.4点
モバイル姓名判断(http://n1.mogtan.jp/?s13632) うちの高校(都立)の校歌山田耕作がつくったらしいけど…バカ校だからイマイチ信じられん… 校歌って似たような曲が多いね
作詞もなんかズレてる
うちの中学は谷間にあって遠くの山なんか見えなかったのに
「○○山(市内で一番高い山)を仰ぎ・・」ってな歌詞だった 最近は学校も個性を打ち出そうとして、変な校歌が増えてるよ。 うちの学校には校歌の他に応援歌とイメージソングふうの歌、三種あったな 團伊玖麿氏は、師匠の山田耕筰にこれからの男は体力だとばかりに喧嘩指南をされたそうだ。
パンチは手を痛めぬように拇指を拳に折り込んで入った瞬間少しひねりを入れる、二階で喧嘩が始まったらまず下に突き落とすこと、
だそうでw。そしていつもサンドバッグをぶん殴っていたそうだ。 >>41
山田耕筰さんかどうか調べてないけど、
訓読みの山の名前が音読みで歌詞になっている。 ここの人なら知ってるかもしれんが、
この人、日本初と思われる占星術の本書いてるよ。図書館で見た >>47
ってwikiに出てるじゃん。ばーか(*゚д゚) 、ペッ >>48
他サイトで慨出のネタを話題にしてもいいじゃないか。
でないと、過去の人のことなんてなんにも話がないw 「赤とんぼ」の3番(十五で姐やは〜嫁に行き〜)って
歌詞に問題があるとかで、今は学校ではそこだけ歌われなくなったらしいね。 どこが問題なのかわからないね。
当時を偲ぶには、とてもリアルでわかりやすい情景描写だと思うよ。 >>49
多分気づいてないだろうが、>>47と>>48は同一人物による書き込み。
IDを見よ。 赤とんぼ習う年齢の子供は当時をしのんだりしなさそうじゃん
15歳で結婚できるとか勘違いしそう 別に「むかしはそうだったんだよ」と言えばいいじゃない。
私も母に母のいとこが15歳でお嫁に行ったと聞いた。
ついで昔の15歳は今と違いもっと大人だったんだよと言われた。
昔は、数え年。
だから、13歳。
嫁に行ったのではない。
丁稚奉公だと、いう説が。
今風に歌詞を変えると
「ウチに勤めてた住み込みのメイドさんは 中学卒業と同時にここを辞めて
いい人と結婚し、どうやらうまくいってるらしく、連絡さっぱりくれなくなった」
ってことなんだけどね。
そんなに問題か? と思うけど。 歌詞が問題だから歌われなくなったのか確証がないわけで 理解するのが難しい部分は切り捨てようとするのが今のやりかた。
問題があるとかではなく、
「ガキには理解できまい」と思い上がったやつらが
教科書を作っているだけと思うよ。 平安時代なんかは元服(成人)が12才だったよね。それで姫をもらうんじゃなかった? 昭和初期でも15才ならかなりしっかりしてたんだろうね。 山田耕筰作曲の明治大学の校歌は数ある日本の校歌の中でも
最も名曲である云々と講談社文庫「日本の唱歌(中巻)」
に出ていましたが、私も同感です。
私は明治大出ではありませんが、なぜか「白雲なびく駿河台、眉秀でたる
若人が・・・」という歌は聞き覚えがあります。
ちなみに最も有名なのは早稲田大学の「都の西北」ですって。 「赤トンボ」は盗作です。
今日、NHKのFMでやっていたシューマンの「序奏と協奏的アレグロ」と
いう曲のメロディーをそっくり、盗んでいます。
ちょっと驚きました。
あの耕作がと。でも他の曲にもいくつかあるようです。
シューマンも地味な曲だから、誰も聴かないと思っていたのかもしれません。 >>62
マルチ?
っていうか、あっちが誤爆なのか。
ちっ、誤爆にレスしちまった。
ああ、あほらしい。 『父の肖像ー芸術・文学に生きた「父」たちの素顔』
父と子はどうあるべきか
現代社会において父と子はどうあるべきかを考える上で、文士を中心とした文化人の場合、
どうあったのだろうか。
そのことに関心がある人は本書が参考になろう。
ここに載せられた32人のうち数名を取り出してみたい。
日本画家伊藤深水の長女朝丘雪路(宝塚に入った時、小林一三先生が深水の作品をヒントに
名付けた)は「たとえ露天に並んでいる絵でも君が立ち止まって心を動かされるなら、君に
とってはそれが最高の作品なんだ」と教えられたという。
また、自分を〈宝物〉だと言ってくれたように今も父を心の〈宝物〉としているという。
作家石川達三の長女竹内希衣子は子供の頃「朝寝坊は自堕落の始まり」と寝ている布団を引
きはがされるなど生活の乱れを非常に嫌った。
その後、社会的な逆風が吹きつけようと、何も言わず、泰然としている父親であったことに
崇敬の念を抱いている。
作家中上健次の長女中上紀は「高校からアメリカに行け。もう決まったことだから」と強引
に渡米させられたが、結果的にはそれが自分のためになっている。
平凡で〈普通〉の生き方ではない〈字を書く仕事〉に血のつながりを感じる。
作曲家山田耕筰の長男耕嗣は出征するとき「死ぬなよ!」と絞り出すような、
しかし、バリトンが聞こえた。父の顔に血の気が指したように感じたと言う。
懐かしい父の思い出中心に綴られており、誰しも興味の持てる文集となっている。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/masazumi_kenmochi/11731264.html ____
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み区化し乗り起訴のこれりはくのはきれりくのしろはのくきはしろくし
29 名前:名無し草[sageコードギアス] 投稿日:2008/05/11(日) 23:21:59
ttp://www.douch.net/src/douch3942.rar.html
ttp://toku.xdisc.net/1/download/1210515388.rar
ttp://snowup.net/up01/src/snow150_5917.rar.html
ttp://alkn.net/upload.php?up=31715 >>62
同意
>シューマンの「序奏と協奏的アレグロ」
「序奏とアレグロカプリツィオーソ」とか、別の表記もあるので、探される方は
ご注意を
ウチの学校の校歌の作曲者だ…
歌詞は北原白秋作詞
ちなみに歌詞一番〜四番
二番は女子用(女子校のみ使用)、三番は男子用(共学化により一、四のみ歌われる)
1番 木群には 光射しかひ 空高し
清き此の土 四天王寺 四天王寺
幽けきは いにしへの雲
聖徳の皇子の聖訓
讃めまつれ崇めまつれよ
讃めまつれ崇めまつれよ マイナーだけど、「樹立(こだち)」が好き。
今年の全日本学生音楽コンクールで、声楽の大学生の部の課題曲になった。
短いけど綺麗で、どこか物悲しい曲。
木の梢よ そこには鳥が啼く
昨日も今日も
私の胸に 曇る樹立
樹立 樹立 そこには鳥が啼く 集計乙です
∩___∩
| ノ ヽ
/ ● ● | http://wakuwaku.docomo.han-be.com
| ( _●_) ミ
彡┌─┐|∪| 、`\
/ _,{ .茶 } ヽノ /´> )
(___)ニノ ./ (_/
盗作、消髪率、愛人!!!
三馬鹿王に輝いてる山田馬鹿筰の歌は音楽の教科書から
消すべき!!!
岡田外務大臣キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku2ch/1256630318/1
早く記念カキコしないと埋まっちゃうwww
あと5年で没後50年。
50年で、著作権って切れるんだよね。
色々な変奏曲やテーマにした曲を出してもらいたい。 こいつはハゲだから毛が欲しかった。
だから名前の「作」って字にケを二つ書き加えたらしい。 | ∧∧
|(´・ω・`) 旦
|o ヾ 旦旦
|―u' 旦旦旦
4年以上経ってもスレを使い切れないが
明治生れの作曲家ならこんなものか 戸井(101)番GET。
オトコはやっぱ、せんずり。 りん〜ごりん〜ご
(フワッフワッ)
夢のりんご
____
/ ) ) )/ \ /\
{ ⊂)(⌒) (⌒) \
| / ///(__人__)/// \ フワッフワッ
! ! `Y⌒y'´ |
| l ゙ー ′ ,/
| ヽ ー‐ ィ
| / |
| 〆ヽ/
| ヾ_ノ
>>35
「赤とんぼ」がシューマンのパクリなのは有名ですね。 そんな人物でも才能は才能だから、からたちの花、ペチカ、は歌われている。 山田耕筰は、日大、東洋、駒沢、芝浦工業、東京農業、大正、一橋、関西、同志社、関西学院等の校歌を作曲しているけど、超名作なのは明治だけだね。特に関西の大学の校歌は、聞くに耐えないね。 山田耕筰は、野口雨情などとは対照的で、とにかく幼い頃から、勝気で向こう気の強い子だったという。音楽学校では、クリスチャンであるが、外国人教師の教え方がきついのに腹を立てて、教員室に押しかけチェロの弦をへし折ったという有名な話もある。
目上の者も、師も何のその・・、このことが後で、いろいろ災いする・・ほとんが1年以上長続きしないのだ。
実際、彼にはこうした「点」の活動をそのまま延長してつないでしまうようなところがあって、
いいとこ取りになってしっている点は否めないだろう。
協会活動は別として、肝心の楽団の活動など、なかなか1年と続かない。大正11(1922)年9月、北原白秋と「詩と音楽」(アルス)という雑誌をおこしたが、これも大正12(1923)年9月、関東大震災を機にちょうど1年でおしまい。 しかし、1941年に、大日本音楽文化協会(徳川義親会長)副会長にまつりあげられた。自ら「音楽戦士」と名乗り,終戦まで「音楽挺身隊」隊長として、自作の軍服に軍刀、
「音楽大元帥」気取りで闊歩したのは有名。・・「音楽大元帥」は、少なくとも童謡を作った者には,あまり相応しくないのではと思うのだが。
大学時代は、あまりよい生活をしていなく、成績もよくなかったが、宣教師や牧師に支えられて学びを進め、卒業後は、ひょんなきっかけで、ドイツに三年半ほど留学することになった。
帰国後1914年、耕筰は、作曲しても演奏する楽団がなかったので、今の東京フィルハーモニ交響楽団につながる音楽鑑賞団体、
東京フィルハーモニー会の中に「管弦楽部」というオーケストラを作った。しかしそれが1年でうまくいかなくなるや、今度はアメリカへ行った。31歳のときだった。
耕筰は、運良く翌年にはカーネギー・ホールで指揮をして成功を収めた。
1920(大正9)年4月には、浅草オペラ下火を見て、日本における本格的なオペラの上演を目指し、また、東京フィルハーモニー会のときに一旦は挫折したオーケストラの夢をかけて、
日本楽劇協会を設立し、ドビュッシーの『放蕩息子』などを初演。 ところが半年もたたない大正15年(1926)、近衛が山田と対立、日本交響楽協会を脱退してしまう。 山田耕筰にとっては、東京フィルハーモニー会の悪夢の再燃と言うべき状態だったに違いない。
多額の負債を背負った耕筰は、協会(日本楽劇協会)の中に、出版部を作り、『童謡百曲集』を作って出版することになる。
山田耕筰の作曲の内、数曲を除く殆どの『童謡』は、この中に入る。 山田は、「日本学劇協会」と、「日本交響楽協会」を作ったが、「日本交響楽協会」が近衛脱退により経営的に破綻。
多額の負債をかかえることになったのだ。
大正15年(1926)年10月5日に分裂破綻したのだが、早くも一月後には、東海道線の車中に野口雨情などの詩集を持ち込み、その余白に楽譜を書いてゆく。
11月7日に『すかんぽの花咲く頃』他7曲を、以後ノルマをこなすかのように一日数曲を作曲。
12月30日まで、年明けは6日より始まっている。もう書斎出などと言うものではない。これが耕筰の童謡作曲の実態だった。
ひとえに経営破たんにより、「負債」を出版によりうずめようとするものだった。
童詩のイメージがどう浮かんだか知らないが、その努力?の甲斐あってか、『ちんちん千鳥』を最後に、翌昭和2年(1927)年3月24日(2曲)までに大方作曲。
でも、童謡の崇高な目的と言うのは感じ取れない。童謡を利用したのだ・・
山田の童謡は中山晋平とか本居長世とかと重なる。
同じ頃、本居長世は娘さんと、過酷な蒸気機関車の旅を重ね、「全国行脚」をしており、真っ黒になりながら「汽車ぽっぽ」を東海道線の社内で作曲していた。
そして殆ど歌われていないのはこのため。 本居長世が、全国行脚の途中、東海道線の車中で,「汽車ポッポ」を作曲したのがこの頃である。
そして、1927年6月〜11月にかけて「童謡百曲集」第1、2,3集刊行。
続いて、1928年2月第4集刊行l、1929年4月第5集刊行(残り)。
これが交響楽と指揮を中心とする洋楽に精力を傾けていた山田耕筰さんと、
童謡との大方の接点と考えてよいだろう。
このうち歌われているのはごく限られているといってよいだろう。 主なものは、・・酸模[すかんぽ]の咲くころ(北原白秋) 、「砂山」(北原白秋)、「捨てた葱」(野口雨情)、「俵はごろごろ」(野口雨情) 「兎のダンス」(野口雨情) 、
「河原鶸」(野口雨情)、「カッコ鳥」(野口雨情)「箱根の山」(野口雨情)「よいよい横町」(野口雨情)、「あわて床屋」(北原白秋)、「雲雀」(三木露風)、「赤とんぼ」(三木露風) 、
「青い小鳥」(川路柳虹)、「この道」(北原白秋)、「お山の大将」(西條八十)、「ちんちん千鳥」(北原白秋)・・・・・
このうち、歌われているのは「赤とんぼ」(三木露風) と、「この道」(北原白秋)くらい。
中には後で盗作疑惑(*)を持たれたりしているのもある。
一日に15曲も書いたる異常なときもあるほどだから。
*海外で「赤とんぼ」そっくり?を耳にした三島由紀夫が、後でシューマンの曲(「序奏とアレグロ」)と知って驚く。盗作とする三島に、山田耕筰は抗議文を送った。 「日本交響楽協会」が商標を登録されたのは、1924年(大正13年)4月であり、山田耕筰の個人経営だった。
同年5月にはドイツに留学し作曲法や指揮法を学んでいた近衛秀麿が帰国し、日本交響楽協会に参加する。
日本のプロとしての本格的なオーケストラ活動は、山田耕筰と近衛秀麿によってもたらされたとされているのだ。
近衛秀麿の「日本交響楽協会」脱退分裂は、個人経営の破綻・倒産を意味する深刻な出来事だったろう。
これが、交響楽の耕筰と「童謡」の接点『童謡百曲集』がでてくる背景と言えよう。 詩人(詩)としては、だいたい野口雨情(30)、北原白秋(29)、三木露風(17)、川路柳紅(13)、西條八十(10)などである。競作状態のもたくさんある。
・・「山田耕筰は、児童雑誌「赤い鳥」の童謡運動に参加、多くの名曲を発表。」・・とNHK「そのとき歴史は動いた・かなりや」でも言っていた。
しかし、「赤い鳥」の童謡運動に参加というより、そのほとんどは、「赤い鳥」の童謡運動もすでに終わっていた大正末から昭和にかけてのたかだか4ケ月半・・
たとえば、本居長世が「全国行脚」に10年費やしたのに対し、あまりに短い・・の間をメインに、今日は誰、明日は誰と、詩が載ってる本をかき集めて、
列車に乗って・・一日数曲(最高一日に15曲)の「作曲“作業”」をしたというのが実態だろう。
このうち今日歌われてるのは1割に満たなく、特に作曲したのは野口雨情のが一番多いのに、ほとんど顧みられていないようだ。
こうしたことを知らずに、「山田耕筰は、児童雑誌「赤い鳥」の童謡運動に参加、多くの名曲を発表。」など言うのは大いなる間違い!・・ あの中山晋平でさえ、かって最初に「金の船」の斉藤佐治郎に雨情の詩に作曲を依頼されたとき、「さすらいの唄」とか、「カチューシャの唄」とかしか作っていなかったので、
野口雨情の日本的な詩に自分は相応しくないとして、師である本居長世を推挙。
ここに本居長世の童謡が始まるのだが、彼は、雨情の詩などに、おかまいなしに日に何曲も作曲していったようだ。
一般に山田耕筰は北原白秋とコンビで、たくさん作ったといわれるが、童謡では、むしろ弘田龍太郎のほうが圧倒的に多い。
歌われる童謡で一番数が多いとされる中山晋平は、大正時代がメインであるが、昭和にはいってからも、平井英子を始め、多くの優れた童謡歌手を発掘し育て童謡普及に貢献している。 山田耕筰作曲のもので、北原白秋作詞のものは、白秋の詩は相当早く「赤い鳥」などに載ってるためか、作詞の年で書かれることが多い、このため相当早い出来のように錯覚してしまうし、本にもそう書かれてるのが多い。
しかし、実際はほとんどが、この『童謡百曲集』が作られた1927年から1928年にかけての昭和の初め、昭和2,3年、またはその他一部については、そのちょっと前位・・大正末・なのだ。 『山田耕作童謠百曲集』について
<発行> 東京 日本交響樂協會出版部
<出版> 昭和2年(1927年)6月15日から昭和4年(1929年)4月15日までに出版された。 大正15年(1926年=昭和元年)夏の「日本交響楽協会」の内紛後、東京市麻布区新綱町から神奈川県高座郡茅ヶ崎に住居を移す。
耕筰は、「日本交響楽団」(N響の前身)が分裂し、失意のどん底にいました。
オーケストラ再生のために、茅ヶ崎の家から毎日東京に通っていました。その汽車の中で、たとえば露風から贈られた『小鳥の友』の中の「赤とんぼ」などに目を留め
作曲したといわれています。
『山田耕作童謠百曲集』のすべての作品は、茅ヶ崎と東京を往復する汽車の中で作曲するしかないという、相当追い込まれた苦境にあったのでしょう。
全100曲のうち99曲の歌唱旋律が、1926年11月8日から1927年3月24日までの約5ヶ月間に作られた(第83曲「漣(さざなみ)は」だけは1927年5月4日作曲)。 大正十五年十一月から昭和二年三月まで山田耕作は、夫人の母堂の住む神奈川県茅ヶ崎に居を移した。
耕筰の個人商店、日本交響楽団(N響の前身)が分裂倒産、失意のどん底にいた耕筰が、オーケストラ再生のために、茅ヶ崎の家から毎日東京に通った東海道線の車内でこの五ヶ月間は童謡百曲を作曲した。
これが耕筰と童謡の殆どの接点。
第1集(1927年6月10日刊) 第1曲〜 第10曲 北原白秋の詩による
第11曲〜第20曲 野口雨情の詩による
第2集(1927年7月10日刊) 第21曲〜第30曲 三木露風の詩による
第31曲〜第40曲 川路柳虹の詩による
第3集(1927年11月15日刊) 第41曲〜第50曲 北原白秋の詩による
第51曲〜第60曲 野口雨情の詩による
第4集(1928年2月15日刊) 第61曲〜第70曲 三木露風の詩による
第71曲〜第80曲 西條八十の詩による
第5集(1929年4月15日刊) 第81曲〜第92曲 北原白秋の詩による
第93曲〜第100曲 野口雨情の詩による 藍川由美は言う・・童謡運動の全盛期に、オペラやオーケストラに夢中だった耕筰が、借金を抱えた途端、「童謡百曲集」を出版するとは現金なものだ。
確かに耕筰の作曲技術をもってすれば、童謡を100曲作るくらい簡単だったかもしれない。
しかし、偶然耳にした歌が自分のものかわからないような作曲家と、常に自作を口踊し、原稿用紙の升目にそこだけが盛り上がるほど紙を貼り付けて推敲していた詩人とでは、作品にかける情熱と芸術家としての資質が違いすぎる。
それ故私は、日に数曲書いたこともあるという耕筰が、雨情の詩に作曲した歌がヒットしなかったことに安堵している。結果的に、耕筰の真意がどこにあったのかわからない。
そして、他の作曲家との競作が多いことも、数を揃えるために止むを得なかったのか、それとも自分の力量を試そうとしたのか本当のところはわからない。
はっきりしているのは、雨情の「俵はごろごろ」と、八十の「お山の大将」は本居長世の作曲、雨情の「兎のダンス」は中山晋平の作曲、白秋の「ちんちん千鳥」は近衛秀麿の作曲の方がよく歌われたということだ。
耕筰がかろうじて面目を保てたのは、三木露風の「赤とんぼ」と、白秋の「あわて床屋」「「この道」が好評を得たためである。・・と。 外国に行くときは、いつも『丘を越えて』のレコードを持って、日本の代表的な歌として紹介していたという。 どちらの出身でもない、が著名度では明治のが上だが、日大の校歌もすばらしいと思う。
甲子園で日大桜丘が選抜で優勝した大会、未だ同校独自の校歌がなく日大校歌が演奏された。
初めて聴くその旋律とその歌詞、大学日本、という歌詞も当時小学生だった自分には
突き刺さってきたなあ。
甲子園の大会行進曲(雲は湧き〜、ではなく各校行進のときの定番曲)も70年以上たっても
未だにまったく古臭くない、これが山田耕作のモダンなのだと思う。 >>129
そうそう、なるほどね。キミの言いたいことはわかった。よく頑張ってるやないか!
…ということはね…
神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em
キミの今後に期待してるよ。その調子でね。 映画「ここに泉あり」を久々につべで見た
あの頃の山田耕作はまだ元気だったな ようやく山田耕筰もパブリックドメインになったか
これで赤とんぼやこの道を歌ってJASRACから請求が来ることがなくなった。
(とはいえ一部の歌曲は、作詩者が死後50年たっていないためにまだ著作権が残っているが)