私が1970年初期に、マルクス経済学を学ぶ目的で法政大学の門をくぐった頃は、経済学部のゼミは、はっきりと、宇野系、労農派(社会党系)、
講座派(日共系)に分かれていたと記憶する。もち論、ゼミの名称に○○系などと管板が掛かっているわけではないが、教授の名前などから、およそ
推察がついた。法政大学は元総長が大内兵衛であった事からも分かる様に、当時は労農派が主流であったと思われるが、
宇野理論を取り入れる学者もいて、次第に宇野経済学派の存在感が大きくなる時代の端緒だったと思う。
もっとも私は、大学に入った途端に運動の方が忙しく、内ゲバにも巻き込まれ、ほとんど授業にも出席していなかったから(→そのまま大学は退めた)、
「学問的世界」でそれらの理論がどんな風に【アウフヘーベンされた】のかさっぱり知らない。
降旗節夫とか、鎌倉孝夫とか、大内秀明等のいわば「宇野学派」名前を聞くようになるのは、その後だったような気がする。