経済学者「価格は需要と供給のバランスで決まる」俺「原材料費とか人件費とかで決まるんだが? [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
例えばオーダースーツの値段はどうやって決めるのか? オーダーが入ってから作る
需要と供給は常に同じだ さあ値段はどうする? このスレを立てた「俺」って大したもんだ。良く考えているし、実態も知っている。
学校で習っただけで、考えたこともない馬鹿な院生(あるいは経済学者?)たちはロクに
反論もできない。
:経済の実態も知らない。学史の素養もない。均衡とか需要供給の法則とかが、どの時代に
登場し、どういう議論がされてきたかも知らないのだろう。 >>10
あほな大企業だと、割とよくあるあるあるある。 >>6 「供給関数導する際にやる」
供給関数は、製品価格を与えれば企業の供給量が求まるという前提に立っている。
ところが、大部分の企業は、収穫逓増(直接原価では収穫一定、固定費を考えれば
収穫逓増)で生産しているから、製品価格(および他の価格、賃金)を決めても、利潤
最大化を与える生産数量は出てこない。
つまり供給関数というもの自体、存在しない。
横スレの【現代古典派】塩沢由典【複雑系経済学】 >>195 を見ろ。 >>10 需要を考えない企業
どの企業も、製品開発に当たっては、どの位の価格でどんな製品なら、どの位売れるか、
需要予測を立てる。予定価格が高すぎ、予想需要が望ましい水準に届きそうもないなら、
原価企画という手法用いて設計原価を削減し、それにマークアップして販売価格を決める。
問題は、ここからだ。経常的生産段階に入れば、企業は設定価格によって売れるだけ
しか生産しない。需要は考えているが、需要と供給が一致するよう価格を変えている
のではなく、設定価格の下で需要と一致するよう、供給を調節している。マーシャルや
ワルラスの考えたような価格調整市場は、株式や荷受市場のような特殊な市場でしか
存在しない。 >>15 「この社会は完全競争だから」
これは新古典派経済学の仮定。仮定と現実の区別も付いていない。こういう仮定では経済を
良く理解できないから、別の経済学(異端派経済学)が唱えられている。 >>18 「基本的なことにいちゃもんつけられるあたり」
経済学は大きな転換を必要としている。それはLakatosのいうprotective belt (防御帯)
には止まらず、経済学の基本概念や理論体系自体(theoretical core)の組み換えを必
要としている。
そういうことをちゃんと考えている経済学者も居るんだ。 >>27 近所のスーパー
スパーで170円のレモネードは、220円で売れるか。
こういう問題を考えるときには、駅前のカフェでコーヒー一杯250円、ちょっと離れた個人店
で350円〜400円で双方経営が成り立っていることをきちんと考えて。
教科書で読んだことを振り回すばかりでなく、自分の頭と経験ですこしは考えろ。 統一経済理論によると価格の決定は「当事者同士の合意による」と
経済学では具体的な価格は示せられないんだよ
経済学というのは常に第三者の立場だから 需要炉供給で価格を決めるのでは、物品の勝ちを無視しているだろう。
消費者が欲しいものを欲しい値段で買えないということだ。
消費者側が価格設定に関与しない経済はおかしいといえるだろう。
また、黒字計上して
借金を返す、給料をもらう経済体制では、本当の価格に届かない。 >>215 統一教会ではあるまいし、統一経済理論なんてあるか。経済学は、主流の経済学
(新古典派経済学)以外にも多数の異端派経済学(heterodox economics) に分かれている。
すこしは経済学の現在を勉強しろ。
売手と買手の合意により売買契約は成立するが、だからといって、任意の価格で売買が
成立するわけではない。経済学は、多数現象として、ある商品ならどのくらいの価格で
取引されるかを考察する。
現代経済では、多くの場合、売手が販売価格を提示し、買手がそれに合意すれば、売買が
成立する。売手と買手の交渉により、価格が決まるような場面は、東京では日常生活では
1%もないだろう。大阪なら、それが3%に上がるかもしれないといったところ。大勢は、売手
価格を決めている。
それでは競争がないと思う人は、新古典派に毒されている証拠。一定の価格でどのくらい
売れるか。沢山売れれば企業の利潤は増大し、期待ほど売れなければ(あるいは損益分
岐点)以下なら、損失が生まれる。一定の設定価格でも企業はより沢山売るよう努力して
いる。
ところが新古典派の供給関数の考えでは、一定の価格にはどれだけ売りたいかという
数量があり、それ以上は売らないことになっている。そんな企業がどこに見つかるか。
見つけたら、このスレに報告してくれ。 >>180 限界企業
限界企業なんて、供給関数を考えるときに考え出された虚構のひとつ。
「限界企業」と思っている企業は多いが、そういう企業はふつう利潤を出している。
原価で売り続ける企業などありえない。
この一事だけをとっても、新古典派経済学がいかに馬鹿げた学問かが分かる。
だからといって経済学の全部がそのような馬鹿げている訳ではない。経済学
にもいろいろいあるから、まじめに考えたいやつはまず自分で探せ。どうしても
見つからないというなら、いくらでも教えてやる。 人件費はその場所(市場)のニーズで決まるんだが?
人件費と原価の話をするなら、
日本のAmazonで売っている商品がなんで中国で売ってる価格の二倍なん?
人件費と原価と販売価格(市場のニーズと、商品価値)ってなんだろうか… >>221
賃金率は、国が違えば大きく異なる。中国の(都市部の標準的な)賃金は、かつては日本
の20分の1だった。今は、もっと近づいて2分の1というところもある。平均的には、5分の
1というところだろう。
国が違えば、なぜ賃金率が異なるのか。これを解明するのが国際貿易論(国際ミクロ経
済学の伝統的な名前)だが、新古典派の貿易論は、この点を全く明らかにしていない。
そればかりか、要素価格均等化定理は、(労働も要素なので)賃金率が等しくなることを
主張している。もちろん、一定の条件付だが、これがHOS理論の中核的な定理の一つ
であることから分かるように、(南北関係を考える際には)各国の賃金率が等しいような
全く馬鹿げた状況に光を当てている。
これに対して、塩沢由典は、新しい国際価値論で、各国の賃金率がいかに決まるかに
ついて明確な理論を提供している。国際貿易論では、塩沢理論はすでに新古典派理
論を超えている。 主流の経済学の常識を「当たり前」と思っている >>75 へ
(3年も前のレスだが、代表的な意見として反論しておく。)
なぜ価格だけが需要や供給を左右する変数と考えるんだ。
多くの企業は自分が設定した価格で、可能ならば顧客が
望むだけ供給する。分かりやすい話が、カフェ。
コーヒー1杯350円というカフェで席が空いていれば、お客
が入れるだけ入れる。お客が少なければ、席が空き、売上げ
るコーヒーの杯数が少なくなる。価格は変らないのに、顧客
の数と一時間に売れるコーヒーの杯数は変化する。
これをわざわざ需要曲線や供給曲線で説明する必要は全くない。
需要曲線・供給曲線は、主流の経済学の説明のための理論装置
だが、現実の経済を説明するための装置ではない。
このスレの主張は「需要供給曲線って何なのか? ...という基
本的なことがわかってない」からではなく、そういう「常識」
がいかに現実の経済から遠いものかを指摘している。
異端派の経済学では、需要曲線・供給曲線なんて必要ない。そう
いう経済学もあることを >>75 は知ってね。あまりにも知識が狭
すぎ。 主流派の「常識」では、価格設定するのは、独占企業か寡占企業ということになっているが、
町でフツウに見るように、零細商店だって価格設定している。
需要供給のメガネを通してしか見ないから、フツウのことが目に入らない。 >>204 >>206
こういうのは加算理論といって、古くはカンティヨンやスミスにある。マルクスは、古典派の
加算理論を批判したんだ。 >>77 古典派って言われる人達がやったよ
マルクスとかリカードとか
それで頭打ちになって需要と供給から考える新古典派が出てきた
需要・供給の法則は、スミスの時代からある。新古典派の出できた
理由の説明になっていない。 このスレの議論を呼んでいると、昔、サミュエルソンが「オウムにも経済学を語らせ
ることがてきる。需要と供給ということばを教えればよい」と言ったとか、書いたとか。
いずれにしても、需要と供給の2語の使い方を覚えれば、経済学が分かった気に
なることがてきる。こうした簡便さがうけて、需要・供給の理論、ひいては新古典派
経済学が受け入れられたのだが、その説明を深く考えれば考えるほど、色々な問
題点が浮かんでくる。つまり、新古典派経済学は、根本の間違った理論なのだ。 経済学には近代経済学とマルクス経済学しかないと思っている
古い常識に侵されている諸君、世界の経済学を見たまえ。
今の経済学は、主流派(mainstream) と異端派 (heterodox) の対
立だ。マルクス派は、いまや異端派の弱小勢力にすぎない。 経済が分かっててないのに経済学が
分かっているつもりの人間がなんと
多いことか。 45度線のように、学生受けするが、実態としてなにも言っていない理論が流布してしまい、
ケインズ理論の基礎を真に掘り下げようという機運が薄れたため、1970年代に入って、
合理的期待形成仮説が登場・流行すると、ケインズ理論は(すくなくともアメリカでは)急速
に権威を失墜し、現在のいわゆるNew Classical 派のマクロ経済学が生まれた。
現代マクロ経済学は、2008-9年の金融危機のあと、多くの経済学者に批判されるように
なった。例えば、クルーグマンは、この30年の経済学は無害でなかったとしたら有害だった
と言ったし、吉川洋はこの40年間の経済学は間違いだったといっている。結局、合理的
期待革命以後のマクロ経済学全体に疑問符が付いているのだが、クルーグマンは新古
典派左派、あるいはネオケインズ派でしかないから、マクロ経済学・ミクロ経済学の基礎
から経済学を立て直そうという気持ちがない。このスレの議論は、深いものとはいえない
が、現在の主流経済学がいかに薄弱な根拠しか持たず、教えられただけの言い訳に
よって支えられているものかを明らかにしている。その意味で、このスレのこれまでの
議論は、貴重なサンプルだ。 45度線のように、学生受けするが、実態としてなにも言っていない理論が流布してしまい、
ケインズ理論の基礎を真に掘り下げようという機運が薄れたため、1970年代に入って、
合理的期待形成仮説が登場・流行すると、ケインズ理論は(すくなくともアメリカでは)急速
に権威を失墜し、現在のいわゆるNew Classical 派のマクロ経済学が生まれた。
現代マクロ経済学は、2008-9年の金融危機のあと、多くの経済学者に批判されるように
なった。例えば、クルーグマンは、この30年の経済学は無害でなかったとしたら有害だった
と言ったし、吉川洋はこの40年間の経済学は間違いだったといっている。結局、合理的
期待革命以後のマクロ経済学全体に疑問符が付いているのだが、クルーグマンは新古
典派左派、あるいはネオケインズ派でしかないから、マクロ経済学・ミクロ経済学の基礎
から経済学を立て直そうという気持ちがない。このスレの議論は、深いものとはいえない
が、現在の主流経済学がいかに薄弱な根拠しか持たず、教えられただけの言い訳に
よって支えられているものかを明らかにしている。その意味で、このスレのこれまでの
議論は、貴重なサンプルだ。 昼過ぎでネットの反応が遅く、二重投稿してしまった。お許しを。 ケインズは政治家が利用しやすいからね 国が金をばらまけば景気が良くなるという理屈は
政治家にとって打ち出の小槌だからね 景気対策と銘打てば国家予算垂れ流しが堂々とできるようになる
リフレ派も政治家は大好きだね ケインズもリフレ派も経済学というより政治家の需要によって生み出された疑似経済学だね 今の新古典派ミクロは、ワネラス型一般均衡論に戻っていまっているが、根岸隆先生が
Jacques H.DrèzeやJean-Michel Grandmont, Jean-Pascal Benassyと非ワルラス型一般
均衡理論を競っていた時代(主に1960-1970代)、需要関数は認識された需要関数
(perceived demand function)と真正の需要関数とは区別されるのが普通だった。この区
別をすると、経済には真正の需要関数など存在しないということが明らかになるが、今は
こいういう区別も忘れられてしまった。
需要関数・供給関数について厳密な議論なく、なんとなく漠然と正しいと思って自己満足し
ている。都合の悪いことはすべて忘れて、良いことだけを覚えているとは、今の主流派経
済学者は、王政復帰後のフランス貴族と大差ない。 需要関数・供給関数という概念は、マーシャルの時代から。つまり古典派経済学にはなかった
概念だ。そういう新しい概念であることも忘れられていて、古典派経済学者たちも需要関数・
供給関数で考えたていたかのように解釈している。 供給曲線はワルラスの幻想
実際の供給関数は価格だけでなく需要にも依存する 価格だけでなく需要にも関係するような「供給関数」って意味ないでしょう。
そういう概念を解消するしかない。 リフレもMMTも、ただで経済を良くする政策があると考えているところで、
すでに同じ。魔法の小槌をほしがっている。 主流派マクロ経済学は、既得権益で学会や雑誌の主要ポストを独占しているが、
Paul M. Romer (2018 ノーベル経済学賞)のような人からまで批判される
ようになっている。 地位が確立してから批判的になるというのが良いことかどうか。
StiglitzやKrugmanも同じだ。 マーシャルの始めた需要曲線・供給曲線の交差図から解放されないと、経済学は変らない。 経営学はどんどん変わっているのに、経済学は変らない。
現実の経済から切り離されて、統計数字を見ているだけで
経済の本質が分かると錯覚している。 まず価格をP、需要関数をD(P)とする。(価格PのときD(P)単位売れる)
ここで供給関数をS(P)とすると
D(P)=S(P) …(1)
となる交点で価格が決定される、というのが一般的なミクロ経済学である
ここでは逆に需要関数から価格を求めてみよう
売り手の利益Nは、販売量をS、費用をCとしてN=SP-Cと表される
ここで、販売量および生産量は需要に一致する(売れ残りが出ない最大量を生産する)ことからS=D(P)であり、費用Cは生産量に比例するとすると単位費用をcとしてC=cD(P)とおける。
したがって
N=D(P)P-cD(P)
=(P-c)D(P)
これを微分すると
N‘(P)=D(P)+(P-c)D’(P) …(2)
企業は利益Nを最大にするような価格Pで販売するから、N(P)が最大値をとるPmが求める価格である。
N(P)は一般に微分可能であり、P=0は最大値でないからN(Pm)は極大であり、N’(Pm)=0
よって(2)式より、
N‘(Pm)=D(Pm)+(Pm-c)D’(Pm)=0
変形して Pm=-D(Pm)/D’(Pm)+c …(3)
ここでf(P)=-D(P)/D’(P)とすると、
取引価格Pmはy=P-cとy=f(P)の交点である。
さて、(3)式は需要D(P)だけでなくPについての微分D‘(P)にも依存することから、D(P)との交点から価格を定めるような供給曲線S(P)を定めることはできない
したがって(1)式のような「需要曲線と供給曲線の交点で価格が決まる」というモデルは一般には成り立たないことがわかる 机上の空論を止めて、Frederic S. Lee (1998) Post Keynesian Price Theory を読んでみたら。
Paperback版も出ている。 >>250
これは価格=限界費用ではなく、限界収入=限界費用を主張するのと同じことではないの。
1930年代にJoan Robinsonが指摘したことだと思う。不完全競争の理論とか独占競争の
理論とか呼ばれている。しかし、ここのスレ主が主張していることは、それとは違うと思う。 独占競争というか、独占の最適化の出来損ないだからもともと相手しなくてよいよ
しかもマルチポストのコピペっぼいし 需要と供給で価格を決めてみんな同じような給料をもらうのが庶民経済学だよ。 おまいらの年収を上げるにはどうしたらよいかを考えては?
コストが先か、需要供給が先なのか。 一度値上げしたら絶対に値段が下がらないカップラーメンとかを何とかしていただきたい
(´・ω・`) 世界の政経が悪いのはやはり魚が釣れない現代の日本の経済水域の広さを
活用していない俺たちに原因があると思う。そこで、皆(不特定多数[
何人でも参加]可能)で釣りに行きませんか?可能な方は宮崎(九州スレ)にスレを立てとくので参加表明してください。(名前は隠さないでね) 幼少の頃より私学にばかり通い、塾や習い事にも精を出し、大学受験のために予備校等に多額の出費をし、大学の学費・寄付金その他も膨大だったとしよう。
その額を3000万円だと仮定する。
さて、ろくな教育を受けずに高卒で就職し、学費として使わずに済んだ3000万を祝金として受け取った者がいるとしよう。
高卒で65歳定年ならば47年間働くことになる。
その生涯年収は2億円程度だろう。
だが、その間3000万を年利7%で運用したら、
元利合計=30000000×1.07^47
つまり、元利合計は7億2千万を超える。
控えめに年利5%にしても2億9千7百万円を超えてしまう。
さらに控えめに大学卒業まで2000万円の費用だったと考えても、年利7%で4億8千万円超、年利5%ではやや減るものの、生涯年収の差を埋めるに十分な1億9千8百万円超。
大金を注ぎ込み、過大な労力を使い、時には精神を病みながら高等教育を受けたとしても、就職のための投資として考えれば無駄金である。
口座の残高眺めてニヤついている株主・地主やパチパチ算盤弾いて利息計算してる商人よりも程度の低い人間にしかなれないのだ。
一般的に、労働者が必死で産み出した価値よりも、労働力の対価たる賃金のほうが少なくなるのは当然のことだ。
もし思春期を過ぎてもなおこの事実に気がつかないならば愚かにも程がある。
率直に言って、救われる気が無い者は決して救えない。
救われるためには悪しき事実を直視し、ただその仕組みに従わないようにしさえすれば良い。
力で敵を打倒しようとする必要すらないのだ。
その程度の気概すらなく自発的に隷従し続ける者は地に這いつくばるゴミにすぎない。 >>250の書いてることは、次のようなことになるんだと思う。
完全競争の時には
cより高くpをつけると需要がゼロになるから、収入、利潤はゼロ。
cより低くpをつけるとマイナスの利潤になるから、cより低く
pをつけることはない。だからpをcにする。この時利潤はゼロになる。
同じゼロなのだから、cより高くpを付けてもcに等しくp
をつけてもいいでは無いか、ということだが、少なくとも幾らかの企業は
pをcに等しくすると考えないと、産業全体の生産がゼロとなり、p=c
の時の需要に応えられないので、そう考える。
ところが独占の場合は、cより高くpをつけても競争に敗れて、需要がゼロとなることはない。
pをcより低くつけるとマイナス利潤になるので、そうしない。
pをcにするとゼロ利潤。だからcより高くpを付ける。
この時、供給量は、需要曲線上で決まる。
完全競争の時には、p=cのときの需要曲線上で供給量が決まっていた。
p=cの直線を供給曲線と呼ぶと、需要曲線と供給曲線で供給量が決まる。
他方で独占の時には、cよりいくらか高いpの時の需要曲線上で供給量が決まる。
そのpの直線を供給曲線と呼ぶと、需要曲線と供給曲線とで供給量は決まる。
さて価格の決定だが、独占の場合はcの値だけではなく需要曲線の形状にも依存する。
だから需要から独立して価格が決まるわけではない。
これは完全競争の場合に、cの値のみに依存して決まったのと対照的だ。
これってそれぞれのpの時の独占者が供給したい量えお表す曲線を引いて、
それと、価格に対してどれだけ売れるかという需要曲線
という二つの曲線の交点を求めればいいんじゃないの? 価格はその時の気分で決まる
ような気がしないでもない リカードは,市場価格は同様に需給関係で定まる現実の価格であるが,自然価格は彼の投下労働価値論に立脚したものであり,地代を価値の原因から排除したので,彼のいう自然価格は賃金と利潤とに等しくなる。
リカード「自然価格→賃金+利潤」
価格生産費説じゃなくね? 『マンキュー入門経済学』の需要と供給の法則についての説明が気に入りません。
市場価格が均衡価格を上回っているときに、売り手は価格を引き下げることで超過供給状態を解消しようとすると書いてあります。
そして、「こうした変化は、需要・供給曲線に沿った動きであり、曲線のシフトではない。価格は市場が均衡に到達するまで下落し続ける。」と書いてあります。
普通は、価格を下げるのではなく供給量を減らすと思います。つまり、供給曲線が左にシフトすると思います。
マンキューは、その少し前のページに以下のように書いています:
「期待(予想) メーカーが現在供給するアイスクリームの量が、将来に対するメーカーの予想に依存することもある。たとえば、将来アイスクリームの
価格が上昇するとメーカーが予想すれば、生産したものの一部を保存しておくことにして、現在の市場への供給を減らすだろう。」
つまり、マンキューは供給曲線が右にシフトすることがあると言っています。もちろん、左にシフトすることもあるわけです。
あまりにも恣意的な説明ではないでしょうか? 「原材料費とか人件費とかで決まる」は一応正しい。
原材料費とか人件費とかは需要と供給の影響を受ける。 「原材料費とか人件費とかで決まる」なら
原材料費とか人件費とかも「原材料費とか人件費とかで決まる」だろ笑 「原材料費とか人件費とかで決まる」んだが、
その人件費は、外国人労働者の導入で変動する。
供給が増えるから。
その原材料費は、外国の紛争などで供給が滞れば変動する。
供給が減るから。
「『原材料費とか人件費とかで決まる』なら原材料費とか人件費とかも
『原材料費とか人件費とかで決まる』」は論理としては正しいが、
経済学的な意味はないね。
「バカボンのパパだからパパなのだ」と同じ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています