ロシア革命には、鎮圧された第一革命と、第二・第三とがあるが、
レーニンが関与したのは第三だけ。
そのとき以外レーニンはロシアにいなかった。
トロツキーとはちがってどちらかというと蚊帳の外にいた人だ。
日露戦争に負けたロシア帝国は弱体化していていつ革命が起こっても
おかしくなかった。てか、19世紀の西欧全体がそうだった。
そういう時代気風のなかで共産党マニフェストは書かれている。

ミンシュヴィキはロシアの最初期のマルクス主義者で、
ロシア革命をブルジョワ革命になるだろうと展望していた。
つまりロシア革命で政権をとるのはマルクス主義者でもナロードニキでもない、
ブルジョワジーを代表する立憲民主党であると。
彼らはロシアでもイギリスと同じ経路での資本主義化は避けられないとしていた。

農民による革命を模索していたナロードニキの質問に答えたマルクスは
この見解を批判し、『資本論』はイギリスをモデルにしてつくられた理論であって、
西欧では多かれ少なかれイギリスと同じような資本主義化の道をたどるだろうが、
それ以外の地域、たとえばロシアは例外的だとした。
ロシアはイギリスとは異なる経路で資本主義と同じような成功を手にできる
可能性があると柔軟な見解を示した。
これがのちのトロツキーの永続革命論に繋がる。