>>949に関連して、以下、熊野純彦『マルクス 資本論の思考』架空資本の項699〜701頁より:

《 たんなる将来の収益請求権を示すにすぎない紙片が「二倍になるように見え、また
場合によっては三倍になるように見える」(s.488)。株式という擬制資本が、かくて
架空資本へと肥大化し、価値蓄積過程そのものがおなじ病理に感染する。いまや信用
制度の中核を担っている銀行資本のかなりの部分は、しかもこうした各種証券、いわ
ゆる「利子付証券」からなっている。銀行資本はかくしてこの意味でも、その相当部分
が「純粋に架空的なもの」にほかならない(s.487)。銀行に集積された貨幣資本の
大きな部分が、たんなる価値請求権という「価値記号」となっているからである
(s.524.f)。かくしてまた、「この信用制度のもとでは、すべてが二倍にも三倍にも
なって、ただの幻想(bloβes Hirngespinst)に転化する」のだ(s.490)。》

《…帰結するところは、およそ「最大規模での収奪」である。
株式制度そのものが示すものは、一箇の「社会的所有」でしかありえない。ところが、
とマルクスは書いている。

 この収奪は、ところが資本制的システムそのものの内部では、反対のすがたをとり、
少数者による社会的所有の取得としてあらわれる。さらに信用は、これらの少数者に
対してますます純粋な山師の性格を与えるのだ。所有はここでは株式のかたちで存在
するのだから、その運動や移転は、よりいっそうひとり取引所投機の結果となるので
あって、そこでは小魚は鮫に飲みこまれ、羊は取引所狼に呑みこまれてしまう。(s.456)》
(『資本論の哲学』>>935 では238頁)

熊野はマルクスの二重性、資本の二重性を現象学的に解きほぐそうとしている。