「一斎点は、いわば直読一歩手前の訓読であった。このような
訓読方式の出現は、奈良時代以来の漢文学習の長い歴史の結果、
漢文が公的な権威をもった最後の段階である江戸後期になって、
ようやく翻訳術としての訓読を借りずに漢文をじかに理解できる
レベルに多くの人が到達したことを意味する。」
金文京『漢文と東アジア』

そもそも近代以前なんて文章をきちんと読める人自体少数派だからね。
それも中国でも演説の言葉ですらなかった古典語解読の話。
そのなかで漢文で文章をかいていた層を「漢文を読んだことにはなっていない」
なんて極端すぎる。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/870285
一方このタイプの本では漢語プラス補読のシステムが生かされている。
これがいわゆる「変則」。漢文程度の構造であれば、これで
読解できるのはたしか。リアル英文では対応が煩雑なだけ。

なににしろ、世間の話言葉とは違う漢語や、そこから派生した
特殊な人工的な文体の習得が権威に結びつく時代が長く続いた事実を、
欧米語を消化する際のリテラシーや姿、つまり文化的素地として
評価するのはおかしなことではない。