>>162の続き

私からすれば、それは、アルメニア人のディアスポラ(離散)に関する問題です。

もちろん、公式にはアルメニア政府は「虐殺」の承認を求めています。

しかし、この政府の財政は、フランス、スイス、アメリカ、はたまたアルゼンチンに住むディアスポラ
協会がまかなっているのです。

私がアンカラに住んでいたとき、アンカラのクルトゥルシュ地区で出会ったアルメニア人たちが
いました。

彼らはこの出来事を完全に異なる方法で見ています。

彼らはこのことを、「虐殺」としてではなく、双方が互いに残酷な行為をした、歴史の汚点として
見なしていました。

イスタンブールのアルメニア教会副主教・アラム・アテシヤン氏も同様のことを言っています。

アテシヤン氏は、エルドアン大統領に宛てた手紙で、草案は誤った観点からのものであると
述べています。

同様の考えに私も至りました。

それにより、トルコでトルコ人とともに暮らすアルメニア人の方が、この出来事に対し、世界の
あちこちに暮らす人々と比べてずっと真実味のあるアプローチをしているのを見ました。


質問:この出来事を明るみに出す名目で、その時代に何が起こったのか、説明していただけ
ますか?

この件を調べるために、出発点を明らかにする必要があります。

一般的には1915年にアルメニアで起こった出来事はピンセットでつまむようにごく細部から
選択されたものです。

私からすれば、この出来事を、最初のアルメニア改革委員会が設立された、

19世紀末以降を調べる必要があります。

1829年にギリシアは、オスマン帝国の意に反して、独立運動に向かいました。

その同じ時期に、オスマン帝国に住む少数派に、独立運動のための支援が行われました。

ヨーロッパの列強はこの状況から利益を得ようともくろみ、それぞれ自らの明確なグループを
標的に選びました。

これらの国々の目的は、オスマン国家を弱体化させることでした。

例えばフランスとロシアはアルメニア人に関心を示し、フランスとイギリスはクルド人に強い
関心を示したのです。

ロシアは同時にヴラハ人に、セルビアはルーマニア人に関心を示していました。

どの時代のどの地域にも、少数派を独立運動に鼓舞するステップが踏まれていました。

19世紀末にアルメニア改革委員会は、特にオスマン帝国に対して攻撃を始めました。

先ず、自らのアルメニア教会の関係者に攻撃を行いました。