>>41
鳳凰アスカ様
仰るとおり私の質問が枝葉末節でした。失礼しました。

私の疑問の本質は、現在の「キリスト教」のあり方やキリスト教史への疑問にあります。
聖書を読むと感動いたしますし、先人が命を懸けて残してきた本質的な智恵というようなものが確かにあると感じます。
しかし、現在のキリスト教者、特にアメリカ原理主義者の身勝手な選民意識、過去の魔女狩りや十字軍などの
排他主義・欲望の正当化にはまったく同感できません。
また、欧州二千年の歴史を教会史として聖書の続きのように盲目的に受け入れる態度に疑問を感じます。
(教会が会議で決めた正典・偽典の別、正統・異端の別など)

私の聖書感としては現在の教会の読み方よりも、クレメンス、オリゲネス・ペラギウスらの考え方に近いのです。
しかし、ご存知のように彼等は現在につながる教会からは異端認定されています。
彼等のような信仰を持つ場合、現キリスト教者からは異端者として排斥の対象となるのでしょうか。

私の質問はキリスト教徒らを排他的・盲目的であると非難することが目的ではなく、どういった読み方をする者
であっても批評はしても非難することのない方たちであって欲しいという願いからのものであります。

長く続く宗教ではその歴史の中で間違いが起こるのは仕方のないことかもしれません。
特に欧州のように宗教と政治が一体となっていた場合は尚更です。しかし、自らの歴史上の過ちを悔いたり、
かつて排斥した対象を再評価したりする柔軟性というものは「キリスト教」におありなのでしょうか。

もしそうでない場合、私の信仰生活というのは異端者の研究論文などと一人、向かい合うしかないのでしょうか。
キリスト教者と議論をしたり、共に祈るということは諦めなければならないのでしょうか。

ご回答願います。