まず陶芸家は銘を入れない事から始めないと話にならない。
箱書きもお笑いの世界で、陶芸家という呼び名も鼻に付く。
無名の陶工に成りきらなくては無作為な物は作れない。
李朝や奥高麗や古信楽などは無作為であるがゆえに飽きない奥深さがある。
名誉欲に塗れた現代陶芸家が作る物は汚れたガラクタにすぎない。



以前に俺はアラモノ厨に

「アラモノのどこがいいの? 古陶磁の方が良いに決まってるだろ?
比べるのも汚らわしいくらいだぞ。」

と聞いたら、

「いや、俺は目が利かないから贋物がある古陶磁は怖くて手を出せないんだよ。
共箱付きの作家物だと安心だから。俺は自分の目に自信がないんだ。」

と答えた。

要するにアラモノ厨は、眼が利かなくて感性の鈍い臆病者だということだね。



匿名で作られた奥高麗は飽きない奥深さと風格があるが
薄っぺらな作家物は見るのも触るのも嫌だね。
例えば本皮革と合成皮革や絹とナイロンくらいの違いがある。