抽象絵画を鑑賞するスレ
解釈、感じ方が人によって大きく異る抽象絵画
感想を勝手に書き込んでってください マイナ−で古いかもしらんが私ゃ
ボリアコフなんか好きですな。
後、さらに古いところでフランツ・マルクとその周辺とか。
マ−レビッチもかなり ベタだけどモンドリアン好きだわ
黒の線と色の組み合わせによるバランスのスッキリ感がたまらない そうなのかな?
フランスでしばらく行き詰まってて、疎開先のNYですこし方向性を変えたようなきもする >>6
最後は変節だよな。
ジャッドみたいに貫いてほしかった。 わかってねえ
だからいいんじゃねえか
ジャッドは甘え 変るならもう少し早くしてくれないと
作品が少な過ぎて変節なのか、発展なのか分からない モンドリアンの晩年の作品は発展という感じでは無さそう
行くとこまで行って、戻ってきた感じなのかな 解釈、感じ方が人によって大きく異るのは別に具象絵画でもかわらんけどな。 抽象絵画の見方が分らんと思ってたら具象でも分らん
分かるってなんなのかが分らん
こういう戸惑いも抽象絵画のおかげ ネトウヨとは・・・
人格に問題があるため社会に適応できない人種
そのため周囲に対して自分の存在を誇示するためのステータスが一切ない
唯一の拠り所が「自分は日本人」ということのみである為
ネット上で在日韓国人・朝鮮人を叩いてわずかな優越感を得ることでアイデンティティを保っている
また昨今では嫌韓流思考が顕著であり、またネトウヨ自身が社会と接する機会が少ないこともあり、
「韓流ブームは全て嘘」と本気で信じている。
その思考が右翼にも似ている為、ネトウヨと呼称される
@社会的地位:下層
A経済力:低収入、または無収入。
高い収入を得る人間に対しては、例え在日以外にも異様なまでの敵対心を持つ。例:公務員叩き。東電叩き。ステマ叩き。障害者叩き。
B対人関係:不得意。
匿名の掲示板以外では何も話すことは出来ない。その分ネットには莫大なエネルギーと時間を費やす。 難波田はなぁ、、、戦前の美術はコンセプトとか全然理解してない猿の物まねみたいな作家ばかりだ。
特にキュビズムとかダダイズム辺りの日本の作家は恥ずかしいの一言。 カンディンスキーの抽象Vは一見の価値あり。
でもミュンヘンは遠いな。 難波田は戦後美術のカテゴリー
和製アブストラクトの代表選手的存在 美術内容を教育で教えるって価値観の固定化かなんか?
お前どんな教育受けてんの? 好きな教授の講義を見極めて、欲すれば知識は得られる場所が大学
門外漢の美術ファンも作家が開く作家向けのワークショップなどにも顔出してみるとよい 日本でデ・ステイルをテーマにした展覧会って1997年に有ったセゾン美術館のだけかな? >>25
鎌倉画廊とかでもあったと思う。他にもいくつか
後、大学系の美術館とか >>26
マジか、ありがとう
もうちょっと調べてみるわ ポロックはただただパンクでデタラメって思ってたから、実物を長時間みたとき、物凄く感動したの覚えてる
四次元や〜って感じ ゴッホのよさも価値がまったくわからないんですけど。
なんであんな値段がつくの? ポロックは別格
ブルーポールズはほんと良いよね
あからさまに具象形態が見える晩年の作品は嫌い ポロックはあのまま生きてたらどの方向へいってことか。。。
いい時期に亡くなったと言えると思う。 ポロックぬきにしても、全世界的に絵画がなんかもうどこ向かってんのか分からんしな そもそもコンセプチャルアートとか、ミニマリズム以降は、確たる方向性なんて全然無い。
個々の画家は別にしても絵画全体としては死に向かってる。 絵にしても音楽にしても、もう人間の創造性がピークを過ぎてると考えるのが正常じゃないの
少数の一流だって否定しないでしょ 極端に抽象絵画で推し進めたのは間違いだったとか言ってる人がいるけど、どう考えても俺は抽象絵画が好きだ ポロックはあんな素晴らしい絵を残してるのだし焦る必要なかったのに
ラディカルでもあったけどなにより真面目だったのかな 抽象絵画のエッセンスは書や山水画などのそれと同じものだと言える。
水墨画、山水画を理解する事はデザインの根幹を理解する事に等しい。
とりわけ虚実相生の思想を感じる事が最も意義深い。
その思想・方法論とは、ネガポジの相互形態干渉によって奥行きと空間を認識し、
絵画に不可欠な平面的均衡をも、そのするどい対比によって同時に成立せしめんとするものである。
これら構成上の方法論は書から派生したものと考えられるが
世界各地のさまざまな民族の芸術においても似たような発想はあり、
西洋美術、アメリカ現代美術においても同様の方法論がよく見られる。
ポロックは陰陽の二元的認識から第三の認識(レイヤー空間)が発生することを強調した画家。
似た認識を持つ画家に、マティス、リキテンシュタイン、クリフォード・スティル、熊谷守一、
ディーベンコーン、Lou Loeber、ステラ、イミ・クネーベル、コルビュジェの絵画などが挙げられる。 >>44-45
2chで気の利いた文章は期待できないし、この文は中身があっててても面白いと思う
しかしなんか騙される気分にも陥る
白と黒、ネガとポジ、単純に還元しすぎてるからけっこう何にでも当てはまっちゃうような
しかしポロックが単純な白と黒の対比で描いてるってのは本当だと思う >>46
騙すつもりはなかったんですが、単純化し過ぎた見解に思われたかもしれません。
確かにコンセプチュアルなものなどは強引に一般化できないですよね。
僕が言いたかったのは、たとえ簡単な白黒の要素だけであっても
均衡と奥行きを同時に表すのは簡単ではない、ということです。
原理は簡単なのですが、完璧に上手くやれる人は少ないです。
しかしこの妙な空間の性質に、過去の匠達がいかに夢中になったかを考えると面白いですよね。
以下、僕の独断と偏見で、虚と実の高度な均衡・階層性・輝きを持つさまざまな作例を挙げておきます。 絵画は出尽くして
たとえ抽象の中村一美も具象の会田誠も
小山ギャラリーもみずまのギャラリーも
マーケットとしてはのびしろある?けど
最先端の現代アートではありません。
最先端はやはりメディアアートでしょう。
37 :バカボン哲学:2014/04/05(土) 12:48:20.97 絵画はミニマルで終わっているていうか、もはや最先端のアートでは
なく、最小限のキャンバスの画面にも、昔ながらのタッチ、テクスチャー
を求めている。例えばロスコは大画面の中に仄かに描かれた形体は昔ながらの
滲みのテクスチャーで深い芸術作品としての価値を得ているし、その逆に全く
排除した桑山忠明等のミニマルもそれまでの美意識のコンテキストの反発に
よってなりたっている。
また70年代の立体の作品のもの派にしても自然物の取り組みによる上記と同じである。
まさに真に最先端のアートとは現代のテクノロジーを利用したアートや今流行のメディア
アートであろう。
38 :バカボン哲学:2014/04/05(土) 13:00:37.37 それに2000年以降平面と呼ばず絵画と云い出した段階で
最先端から終わりを告げている。
でも最近最先端ではなくアバンギャルドお騒がせとして
会田とか売れてるみたいね。イイね。 >>45 にある米芾の作品は恐らく別人の作品です。米芾の書法的特徴を備えていないし、
何よりも、観ても感動しません。欠点ばかりが目立ちます。そもそもこの人は大きな字は
ほとんど書きません。我が国の東博にある「虹県詩巻」が例外的に大きな字ですが、それ
と比較すれば、作品の出来には雲泥の差があるのは一目瞭然。
それから、書を持ち出すのであれば、我が国の「継色紙」などはこのテーマのいい参考例
になると思います。虚の最たる余白が観る人を別の時空に連れて行ってくれます。 >>53
これは米芾の「多景楼詩冊」で間違いないです。
部分拡大なので大きく見えますが全体はこのようなものです。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_548957b101019dca.html
継色紙の美しさには異論ありません。 >>52
絵画は出尽くしてもう終わりだなんて、ちょっと寂しい考えじゃありませんか。
僕は、単に消費される為だけであっても絵画はますます生産されてしかるべきだと思います。
また、霊感商法にも似た美術業界の胡散臭さを考えれば、その業界の発信する「最先端」も結局はまやかしに過ぎないとも言えるわけで、
そういった流行とは別なアナクロ的作家がいたほうが事態が複雑怪奇化して面白いんじゃないでしょうか。
桑山忠明に関してもそうですが、既存のコンテクストへの彼の反発、彼自身の極端な未来志向にあまり共感出来ないので
インタビュー記事などを読んでみてもあまり積極的に評価する気にならないんですが(笑)
彼の作品やミニマリズムは、より建築空間との一体化を意識するという方向において、昨今のランドスケープアートへのつながりを感じます。
メディアアートも含めて、よりシームレスにさまざまなものがデザインされるようになっていくのでしょうね。 >>55
桑山はミニマリズムの創始者の一人、そういう位置づけで評価しないと。
今どうかという点だけで見ると見間違う。 >>56
僕はミニマリズムが抽象表現主義までのコンテクストを覆したとは思えないんですよね。
むしろ両者は同根だと思っているわけです。
桑山は、ニューヨークに滞在中自分が日本人であることをとても疎ましく思った、と言っています。
彼は典型的なコスモポリタンで、言い換えれば熱烈な左翼的モダニストなのです。
彼や他のミニマリストの方法論も、大きな流れの中で言えばダダイズムや反芸術などの破壊や革新と共通した手法でもあるし、
共産主義国家の誕生に熱狂していたヨーロッパの前衛芸術家たちの仕事や
ロシア構成主義にも既にミニマルアートの原型が見られることなどからも、
20世紀に起きた美術運動は、全体がモダニズムつまり近代合理主義に結局は帰結すると言えるのではないでしょうか。
民族性・物語性・装飾性を否定し、極端な抽象化・全体化・純化・一般化を追求する、
これはそもそもモダニズムの特徴であって、ミニマリズムだけの特徴ではないのです。
その後の脱構築やポストモダンの議論は難解でよくわからないのですが、桑山に関してはそういったところです。 >>57
「コンテクストを覆したとは思えない」
それは当たり前でしょう。
当然今迄のコンテクストを受けてそれを継承するか、反発するかの選択ししかないのだから、
どちらであってもモダニズムの大きな物語の中に居る事に違いは無い
でもそういう評価自体が、2014年から俯瞰した視点であって、ミニマリズムが出現した当時の視点とは違う。 >>59
当時の社会状況にあってそれを生み出した作者の熱意・エネルギーを評価すべきということですよね?
それについてはおっしゃる通りだと思います。 モダニズムの暴力的なまでの抽象化・全体化は、前近代の美術との間に深い亀裂を示しているように感じるが、
道家の「虚実相生」あるいは「虚中有実、実中有虚」の考え方はその間を繋ぎ我々にある統合的な視座を与えてくれる。
モダニズムはあらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解しようと試みるが故に、
その表現は常に抽象的でなければならない、という強迫観念に駆られ続ける。モダニズム空間が冷たく感じるのは全てが抽象化されているからである。
対して虚実相生の観点でものを眺め、ものを表現するとどうなるのであろうか。その認識は山水画において既に完成されている。
それは具象の中に抽象を見出し、抽象の中に具象が浮かび上がる空間である。それはその場で直接切り替わり自由に反転する。
顔や草木は具体的に描かれ、そしてそのまま抽象である。モダニズムのようにこれは抽象だと言い張り続ける必要はない。
さらに虚実の認識は、線を実体、余白を虚空と考えるだけでは足りない。
倪瓒 http://www.zhuokearts.com/upload/2006/06/07/2393eaa6-1284-44c7-95cd-9e33963eec0c.jpg
余白は実体であり白銀に輝く硬質な板である。線やものの形は虚であり影であり板に彫られた穴である。
この認識もまたその場で直接切り替わり自由に反転する。そしてその空間はある部分は透明に、ある部分は不透明に層を成して重なっている。
モダニズムの数学的に処理された空間もほぼこのような理解によって認識することが出来る。
古代中国の芸術は、視野狭窄に陥ったモダニズムから脱出する術を我々に与えてくれると思う。 あらゆる分野にモダニズムは浸透し現代社会を覆っているのであるが、
この抽象化されたモダニズム空間に、最後までモダニストの意図にそぐわない醜悪な具象がある。それは人間である。
モダニスト達はどれほど、人間がキューブやレゴのようであったらと、夢想したことであろう。
残念ながら人間の身体は現在なお太古の混沌を内に孕み、臭くもなれば腐りもする存在なのである。
モダニストは頭が喜ぶ社会を作ってきたが、頭が望むままに環境を整理・単純化していくと、
整理されないまま疎外された身体にとっては、極度に不快な環境が出現することになる。
免疫力の低下・ストレス・アトピーなどの増加は、おおよそ近代が設計した環境に人間の身体が適応できていない事によるものであろう。
モダニズムに対する批判として脱構築・ポストモダンの議論が既にあるが、現状はこれまでとさほど変わっていないように思われる。
それは結局、身体を疎外した頭でっかちな議論でしかないからである。
おそらく、文明と身体について今一度再考しなければ、モダニズムを乗り越えることは出来ないだろう。
いくらデザインや情報をこね回したりしても、駄目なのである。
古代インドや中国にはヨガや太極拳があったが、水に遊び草木に触れ、土をいじり家畜と接し、岩に登り鳥の声を聴くなど、
身体が自然に求める環境を構築できれば、免疫力は高まるはずである。
これからの芸術家は、身体により適した素材を選び、生きるための空間をデザインしていくことが重要になってくるだろう。 西部さんの、「自民党立党50年プロジェクト基本理念委員会総会」での演説がいいね。
http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20080720/1216531458
アメリカソ連内ゲバ論とか構造改革批判もそうだけど、テロルのことに関しても、「モダニズム=グローバリズム=現在ではアメリカニズム」とした上で、
「当然のことながら、国の歴史を破壊されれば、そこで虚無主義、ニヒリズムがほかの国々にわだかまってくる。したがって、グローバリズムは
ほかの国にとっていえば虚無主義、ニヒリズムの台頭である。そして、人間はニヒリズムに耐えられないので、ほぼ必ずや価値の原点を探し求めて、
いわゆるファンダメンタリズムへと回帰するであろう。しかしながら、ファンダメンタリズムは、バイブルであろうが、コーランであろうが、
そう簡単に現実化できませんから、この理想と現実のギャップの中で、ファンダメンタリズムは、必ずテロリズムへと近づいていくであろう」 >>64
じゃあ何か議論しますか。どうせ過疎ってますし。
抽象絵画について何かお題目でもありますか。 >>44の書き込みあたりから美術というより「政治」だと考えてしまったけど、この認識は正しかったかもしれない >>66
政治と美術には密接な関係があるでしょう。
国家はあるイデオロギーによって統治されるし、芸術家はその世界観をデザインするものである。
ゾロアスター教しかりキリスト教しかり仏教しかりヒンズー教しかり。
モダニズムは共産主義と資本主義を生み出した。
政治と美術は別物だ、という認識は、日本における今の我々の美術的価値観が
資本主義・民主主義・自由主義の影響下にあるためであろう。
しかし過去の美術の歴史を見れば、そうではない時代の方が長かったのは明らかである。
明治における近代日本画・洋画の確立に奮闘した画家達や、
パリのヴォアザン計画でフランスの保守派に総スカンを喰らったコルビュジェなど、
政治的に深くコミットした芸術家達は枚挙に暇がない。 美術と政治は無関係ではない。
その通りだからこそ、美術と政治の二つを切断する努力が必要だと感じる。
割り切られると困る
もちろん切断するという考えも、政治的にいえば、モダニズムであり共産主義であり社会主義と無関係ではないわけだけど
うーん、どう語ればいいのやら >>68
政教分離が当たり前の日本だから無理もないね。
でも、これからこういった分野横断的な考えは重要になってくると思うよ。
それに、政治や歴史に興味を持った方が、美術の審美眼や感性も磨かれる側面が実はある。 今まで日本において政治と美術は関係なかったなんてことは一切なかったと捉え、
意識できるがゆえに、歴史や政治から身を守り、美術の自立性を維持できるって考えもできるしね。
しかし「あなたはネトウヨだからモダニストをバカにするのだ。ネトウヨに心がない。」
などと言って会話が成立しないとしたら悲しい
会話が成立しないのなら、大声だけが力を持つとか、そういうのも嫌だ >>70
僕がネトウヨに見えるかもしれないけどそれほどでもないよ。
ただ美術が好きで研究してる内にこういう考えになっただけ。
第一ネトウヨはネトウヨで美術にあまり関心ないからね。
あと、モダニズムには否定的な事を書いたけど、これはそう簡単な問題じゃない。
その画一化には問題があるが、抽象化は人間の認識に必ずついてまわるものだからね。
これは、現象をどう捉えるかという哲学の問題とも絡んでくるね。哲学は不勉強だけれど。 建築エコノミスト森山氏のツイッター
https://twitter.com/mori_arch_econo
パソナの迎賓館「仁風林」には登場しませんが、大阪維新の橋下徹氏は、
パソナ(南部靖之氏)、ソフトバンク(孫正義氏)から支援を受けています。
また、安藤忠雄氏は 橋下氏をブレインとして支え、竹中平蔵氏も橋下氏と親交があります。
真っ黒な人脈が全てパソナで繋がります
建築エコノミスト森山@mori_arch_econo
ちくしょうめ30代の若手建築家諸君、今の君たちの境遇も含め、
今起きているカラクリに気付いてくれ!生暖かく見守るんではダメなんだ!
君らの心の権威は終わっているんだよ。いっしょにブチ壊そうぜ!
建築エコノミスト森山 @mori_arch_econo · 5時間
安藤忠雄のダメっぷりにも増してダメばのは内藤廣だ。
偶然というかめぐり合わせとはいえ、そういった境遇になってしまったんだが、
何を思ったか「諸氏へ」だよ。どんな毒饅頭食らわされたんだよ。
俺の知ってる内藤廣は全ての権威、全ての俗物、全ての阿呆共に絶対譲らないところが価値だったのになあ。
建築エコノミスト森山 @mori_arch_econo · 4時間
【新国立競技場問題】なんで藤森照信もだまってんだよ!
建築史家から鈴木博之先生の跡をなんとかするべきじゃないないのか?
ジブリ風味の作家性で満足してんじゃねえだろうな。藤森先生はなんだかんだ言って歴史家&評論家なんだ。
ご自分の作品は趣味のレベルでいいから、歴史家としてなんか言え! ジャッドなんかを見て、これが究極だなんて思うのは危ういね。
彼はグリッド上に構成を還元したモンドリアンの後継者である点、極端な進歩的合理主義者だといえるが、
インダストリアル素材を用いたオブジェの方法論はデュシャンが示したレディメイドの概念と酷似していて、
その点では文脈の否定の上に表現を成立させようと試みる近代の古臭いニヒリストだともいえる。
世界は合理と虚無に向かって直線的に進歩するという、貧しい強迫観念。
彼の作品の魅力が、彼の意に反してその造形性にあるという皮肉。
出来損ないの完璧主義者だな、ジャッドは。 >>5
モンドリアンが変節らしい変節を見せなかった理由に、
彼が合理主義者である以前に神秘主義者であった、という点が挙げられる。
このあたりはジャッドなどとは異なる部分だね。
デ・ステイルを離れた原因に、ドースブルフと「斜線」の導入を巡る対立があったといわれているが、
斜線を否定したあたりに、厳格なオランダのカルヴァン派の教えを受けて育ったモンドリアンの、強い十字架への信仰が窺える。
他にも水平を女性原理、垂直を男性原理とみなすなど、水平垂直は彼にとって動かし難い一種の宗教的なシンボルでもあったんだろう。
合理主義者とか観念論者って、融通が利かないねえ。 >>75
神智学つながりってことで?(笑)
ジョンケージは好きだね。いい感じのおっさんでね。
「4分33秒」は概念芸術の一種だと捉えられがちだけど、
ジョンケージの意図は、聴衆の意識をより瞑想に近い状態へと促すことにあっただろう。
https://www.youtube.com/watch?v=ExUosomc8Uc
こういう若い時代のもいいよね。「Ryoanji」なんかもいいね。 ジョンケージの何もなさは肯定してるようだけど、ジャッドも「何もない」と肯定してもいいんじゃないかな
絶対なのではなく。 >>77
ミスった。
一口に「何もない」と彼ら二人の仕事をまとめることは出来ないな。
ジャッドの無は、概念上のものにとどまっているが故に、合理主義者の限界をも露呈している。
ジョンケージの無は、それに対してより心身の経験から捉えられたものに比重が置かれている。そして彼は合理主義者ではない。
ここは好みの問題かもしれないが、芸術にはメディテーションやリラクゼーションといった要素が必要だろうと思う。
僕はマチスが好きなんだが、それは彼の絵が単なる絵画の単純化に終わることなく、東洋の瞑想的な芸術と同様に
リラクゼーションの効果まで意図して作られているからだ。
前にも書いたが硬直した頭の中だけの観念や原理といったものが、今世紀、いかに人間の社会を混乱させてきたか。
芸術は生きるリズムを見つけるためにあるのであり、死ぬためにあるのではない。 ジョンケージ的瞑想は良くて何故モンドリアン的陶酔はダメなのだ?
モンドリアンの宗教的なシンボルはシンボルだからダメだというのだろうか?
モンドリアンにとっては揺らぐことない感覚を感じ取っていたのではないか? >>81
その疑問が出るのは良くわかります。
しかしそこは哲学の領域でも難解な議論の応酬があったところで、
とても僕がついていけるような分野じゃない。
だから単純な話に置き換えると、
ジョンケージは活道理を表し、モンドリアンは死道理を表しているとでも言いましょうか。
ジョンケージの言葉です。
「音楽をつくるのが簡単だということは構造の限界を受け入れようという意志からきている。
構造は考案し理解し計測することができるため簡単だ。構造は受け入れられれば何であれ、恍惚という稀な瞬間さえ受け入れる規律であり、
砂糖の塊が馬を調教するように、つくるべきものをつくるよう我々を調教する。」
「構造はあらゆるものの支えとなり続ける。ただ一つだけ難しい点は、支えようとしている場所がすでに進行中であることだ。」
ジョンケージの音楽は、生きたリズムの中に無が潜んでいる事が戦慄的なのであり、
最初から、止まった構造、死んだ原理というものは想定していない。
死道理というものは、現実に適用しようとすると、どうもさまざまな問題が発生する。
モンドリアンについても、そういった観点から触れてみました。
ただ、造形的には彼の作品は嫌いではありません。 哲学だけではなく、美術の領域でもあると考えるから、デュシャンやジャッドは評価したいなぁ。無や場や地や背景を問題にしてるって感じ……
対立してるポイントは、「うさんくさいものは排して科学的であるべきだ」
vs
「原理主義者は予定調和的でつまらない」
って感じかな >>83
デュシャンは評価してるよ。
彼は概念の領域へと芸術の位相を転換した、概念芸術の父とも呼べる存在で、
ジャッドはその子供、孫みたいなもんだ。
>「うさんくさいものは排して科学的であるべきだ」vs「原理主義者は予定調和的でつまらない」
ここは少し違うんじゃないかな。この図式だと「原理主義者=科学的」ということになってしまうが、
いうまでもなく、科学的であるというのは一般的に実証主義のことを指し、理論や仮説、命題が検証可能かどうかを重要視する立場だ。
その科学的実証主義の立場からすれば、検証不能の合理主義・原理主義・観念論・神秘主義はある意味全て、うさんくさいオカルトだということになる。
ジャッドやモンドリアンにしても、観念論者とは呼べても科学的実証主義者だとは到底呼ぶことは出来ない。
ただこのあたりを問い詰めていくと、もはや美術の話ではなくなってしまうね。 誰だって美術作品だってオカルトだって、客観性を確保しなければならないのは当然のことだ。
たとえば「○○の科学」といった名でうさんくさいものがまかり通ることはよくある。
つまり正しさを保証する何かという意味で「科学的」という言葉を使った。
モダニズムのような、予定調和的なものは、絶対的に正しいのではないか?
絶対的に正しい客観性を狙ったがゆえに、批判も受け付けない。
予定調和的なものを目指さなければならなかった理由をきちんと踏まえないと、ただ退行してるだけでは? >>85
>モダニズムのような、予定調和的なものは、絶対的に正しいのではないか?
まず、「予定調和的なものは、絶対的に正しい」という言い方は何の理屈にもなっていない。正しいかどうかは、そのように主張する仮説が外部からの検証に耐える必要がある。
仮にそれが正しいと実証されているのであれば、「ではないか?」と疑問符をつける必要はないだろう。
しかしそれが単なる思い込みであれば、君の言う客観性もないことになり、君の意見もめでたくオカルトの仲間入りを果たすことになる。
ちなみに、「予定調和的なものは、絶対的に正しい、或いは自己無矛盾である」という命題を立てるにしても、それはゲーデルの不完全性定理によって既に反証されている。
第1不完全性定理「ある矛盾の無い理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」
第2不完全性定理「ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、その理論体系の中で証明できない」
>絶対的に正しい客観性を狙ったがゆえに、批判も受け付けない。
再びジャッドやモンドリアンの例で言えば、彼らの造形的還元は創作上、当然恣意的な性格のものであり、「科学的実証」に耐える目的など負わされていない。
>予定調和的なものを目指さなければならなかった理由をきちんと踏まえないと、ただ退行してるだけでは?
モダニズムへの批判を「退行」と捉える、これを進歩主義という。いわゆる革新の思想である。
長くなるので書かないが、進歩と退行という概念も対のものである。どちらかだけが起こるというのはありえない。つまり、進歩の裏では退行が起こっている。
さらに人類はここ20万年、脳の容量は増えていない。タイムマシンで20万年のヒトの子供を現代日本に連れてきて教育を施せば、立派な現代人として通用すると言われている。
一言でモダニズムといってもさまざまな流れがあるが、それへの検証なき盲目的信仰、それこそまさにオカルトである。 言い方を変えるけど、
基本的に、モダニストは絶対的な客観性というものを疑っているわけでしょ。
そのうえでああいう予定調和的な作品を必要としてきたんだと思う。
モダニズムの性格には「客観性への疑い」と「絶対的な正しさの追求」の二つがある。
だからモダニズムを批判するときも、モダニストが持ったであろう「客観性への疑い」をきちんと踏まえないと批判たりえないはずだ。