抽象絵画を鑑賞するスレ
掲示板で話題のPCを使って稼げる方法とか
⇒ 『山中のムロロモノス』 というブログで見ることができるらしいです。
グーグル等で検索⇒『山中のムロロモノス』
DGICW93QBD モンドリアン。
青と黄のコンポジションのこれが答えだって毅然とした感じ
ブロードウェイブギウギの賑やかさ
がたがたのヴィクトリーブギウギに素人ながらに感動した 驚愕の事実拡散
創価の魔(仏罰、現証、非科学的な原始的発想)の正体は、米国が仕掛けてるAI
パトカーの付きまとい、咳払い、くしゃみ、芝刈機音、ドアバン、ヘリの飛行音、子供の奇声、ドアバンも全て、米国が仕掛けてるAIが、人を操ってやってる。救急車のノイズキャンペーンに至っては、サイレンで嫌がらせにする為だけに、重篤な病人を作り出す冷徹さ
集スト(ギャングストーカー、ガスライティング、コインテルプロ、自殺強要ストーキング)以外にも、病気、痛み、かゆみ、湿疹かぶれ、臭い、自殺、殺人、事故、火災、台風、地震等、この世の災い全て、クソダニ米国の腐れAIが、波動(周波数)を悪用して作り出したもの
真実は下に
http://bbs1.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=pr02&mode=view&no=46
https://shinkamigo.wordpress.com 友達から教えてもらった嘘みたいに金の生る木を作れる方法
知りたい方だけみるといいかもしれません
グーグルで検索するといいかも『ネットで稼ぐ方法 モニアレフヌノ』
S00Z3 抽象画って、
とりあえず、彩度がたかめで、
響き合いもわかりやすい。
解釈云々の手前で取り敢えず鑑賞出来たりする。 このスレまだ生きてたのか・・
5年前の自分の書き込みが残ってる。懐かしいな。 シンプルで内的でシンボリックで美しい抽象画って今はないな 現代ほど多くの人が抽象的に形を扱う知識を持っている時代はない。
作家個人のコンセプトが広く一般に普及することはあまりないが、形そのものは普遍であり、
形の見方のみによって人類はラスコーから現代まで時代を超えた認識を共有する。
しかしそれは同時に、あらゆるものが相対的で決定論的であるという、
一種の運命論的認識によって引き起こされる不安の感情や、それにもとづく抽象衝動をも共有するということである。
抽象衝動は、宗教的感覚とつながっている。再び宗教の時代がやってくるのかもしれない。 最近はミニマルよりなアブストラクトペインティングが流行ってる気がする。
自分が好きで偏ってるだけかもしれないけど、
コンテンポラリーだとそうじゃないかな。 >>146
そうなんだ。画像があると分かり易いんだが。
自分の感覚では、ミニマルなアブストラクトペインティングはかなりレトロな代物という感じで、
流行ということならSNS上のCGアートがそれに最も近い気がする。 >>147
SNS上のCGっていうと、デザインの仕事も紛れて
美術ですってのは少ないかも。
抽象より具象の方が多い、抽象めいた具象とか
確かにミニマルな抽象画は昔からよくあった、
そして一般にデザインとして徐々に広まってきて、
それを若手が需要の匂いとして嗅ぎ取って拵えてるのを、
ちらほら見えるってくらいかな。
これは日本が主にじゃなくて海外のインスタでよく見るかな。
ミニマルだけじゃなくて、フォービスム的な大胆な抽象も
競い合う様に出てる感じ。
インスタのは「abstract.mag」って垢とかね。 ペロタンとカイカイキキのベルナール・フリズは観てないか
カイカイキキは全体的に全然良くなかったな。
メイビジュにも使われてた上部が黒いやつが一番酷い。
ペロタンの方が良かった。
偶然性より作為的な手法の方が綺麗にコントロールできてて見やすいんだな。 >>148
>>149
abstract.mag、たしかにペインティング多めだね。
フリズのは、ペロタンでは格子状のものが多かったのかな、感想からすると。
上部の黒いやつが一番酷いというのは、実物見ないと画像では判らないね。
構造表現ではCGアートが有利で、https://youtu.be/Nirt9x4Q0sE?t=88
ペインティングは出涸らしのお茶みたいだけど、なかなか嫌いにはなれないものだ。 >>150
そうペロタンのは大体格子状のやつだった。
奥部屋にカラーブロックに分かれてるけどブラッシングが
全体的に繋がってる不思議なやつもあった。
そういうCGのやつは詳しくないけど、ペロタンの上のYKGで
平川紀道がコンピュータープログラミングのインスタレーション
やってたけど、あれも言わばデジタルアブストラクトとも言えるのかな。
ライゾマやチームラボなどを含めずともCGアートは確かに流行ってる。
でもCGだと動画やインスタレーション的なメディアとなるから
抽象画とは言えづらいかな。
やっぱり抽象画は絵の具というメディアのうまいこと扱えれば
金の様に化ける付加価値の向上性とそれらの魅力はなかなか捨て置け無い。 >>151
平川紀道もやってたんだね。いいね。
もうここまでくるとサイエンスのカテゴリーに入っちゃうね。
デジタル関連のものは、たしかに抽象画とはいえないんだけど、アブストラクトってそもそも
何のメディアかは問題にならない、という特徴があるよね。
抽象画もその意味では絵の具によるインスタレーションとして
今でもCGアートやメディアアートと併置しうる存在だとは思う。
ただ、今までの絵描きというよりは、アートプログラマーみたいな人種が今後、
より幅を利かせていくようにはなるんだろうな。 抽象画ということで、絵の具が美しい、ミニマルなペインティングの作家というと、このあたりが好きかな。
Sanford Wurmfeld (サンフォード・ワームフェルド)
dan walsh (ダン・ウォルシュ)
Ennio Finzi (エンニオ・フィンジ) おーワームフェルドいいですね!
近しいので好きなのは
Felipe Pantone ー グラフィティ出身
Rob Pruitt ー 具象の方が少し多いですが
Robert Swain
Kanta Kimura ー でかいアームロボに描かせてる
Federico Herrero
Paulo Monteiro
荻野亮介
インスタで見つけがちなミニマルアブストラクトの
David Matthew King
David Ostrowski
Regine Schumann はメディアアートでインスタレーションで
ミニマルなアブストラクトですかね笑 >>154
ありがとう、目の保養になった。
ロブ・プルイットとレギーネ・シューマン、綺麗でいいよね。
Kanta Kimuraは、動画見たらアームロボが絵具を吹き飛ばしていて笑った。
パウロ・モンテイロと荻野亮介の作品は、インスタレーション的な空間性があるね。
壁との関係とかとても面白い。 >>155
益永梢子の布切れをアクリルケースに入れてるやつ
とかも多様な空間性があって好きですね。
前面のアクリル板の上部によくペイントしてたりと、
重力に抗うような内部配置をしてたり、
絵具で描くという行為を布の配置に置き換えることで、
立体やインスタレーションの内在する抽象画となってる様です。 >>156
彼女の作品もとても良いですね。
モンテイロなど、似た系統でも作家によって少しづつ空間の捉え方が違うのが面白い。
Rana Begum
Lutz Fritsch
Fergus Feehily
インスタ見てれば事足りるけど、
抽象絵画を鑑賞するスレなので(笑)
でも、どうしても絵画からはみでてしまいますね。。 Nathan Hylden
Alain Biltereyst
ラスコーでも既に抽象的な空間表現は成立しているけど、道路標識や路面標示も面白いですね。 Lutz Fritschの色棒は好きな感じでした。
標識的な空間構成を利用してる抽象画なんて
わからんと思いましたが、fritshの作品が
標識みたいですね。 >>159
インスタレーション的な表現の中でも、チームラボなどのCG動画に対して
Lutz Fritschや益永梢子、モンテイロなどの抽象画及び立体は、静止空間としての面白さがありますね。
向こうが動かない分、こちらが動いて視点を見つける楽しさがある。
チームラボは全部動いているので、そういった楽しさはないかもですね。 >>160
抽象画は側面も気になるんですよね
絵の具のタレや汚れがどんな具合か
少し作り方が見てわかるような。
下の方はどうなってるかしゃがんで見たり
離れて間近で見たりをさせる、そういうのも
鑑賞者を動かして楽しませるアナログなカラクリ
として面白いんですよね。 >>161
>側面も気になる
すごく分かります。絵具そのものにフェティッシュな魅力がありますよね。
印刷物、写真、映像、その他さまざまな素材にも固有のフェティッシュな質感があると思います。
CGは、そのへんがちょっと掴みどころがない。glitch artとかは少しフェチ要素を感じますが。
ただ、インスタレーションの類や美術館そのものがVRで保存されるようになってくるでしょうし、
VRインスタレーションやVRアートも出てきているし、ほとんどの美術作品はSNSで観ることが
多くなっているしで、ますますアナログの魅力とは何かが定義しづらくなってきてはいますね。
ただ、物質としての絵の具やその他の素材は一次ソースとして重要で、まだなくならない気がします。 >>162
現在の映像、CG、VR等のまだ埃っけのないキレイ目な
メディアとアナログな絵画では良さのベクトルの
方向が違うので住み分けができてますが、
いずれデジタルなメディアにもどこか有機的な
ヌクモリティを感じさせる作品が出てくるんですかね。
デジタライズされていく中で、人の感受性はどう変わって
行くのか気になりますね。
今でも抽象画をそっくりそのままジークレープリントで
複製できますが、その複製からも絵具の魔力を感じられるのか。
五感だけでは判別できなくなった時に、
それ以上か以外の知覚能力は発達していくのかな なんて。 >>163
ジークレープリント、複製技術の進歩はすごいですよね。
そもそも文字や絵画自体、現実の情報の複製・記録として始まった経緯がありますが、
さらにその複製である版画だけでも木版画→銅版画→リトグラフ→シルクスクリーン→ジークレーという
進化がありますね。(ジークレーはもはや版ではなくなってますが)
他の複製技術として写真→映像、別ルートでは彫刻・立体→型、全体にはアナログ→デジタルという流れがありますが、
やはり一次ソースが重要で、そこから無数の複製が生まれる、ということ自体は変わらない。
そして究極の一次ソースは現実で、デジタルは現実そのものの複製を目的としているように見える。
でも一次ソースである現実自体が、遺伝子をはじめとして複製に次ぐ複製ですから、
自然のマテリアルはデジタル複製を超えた精密な複製品として、人間にとっての価値を保ち続けると思います。
これらはまるで密教の胎蔵界曼荼羅のようだとも感じます。
菩薩をはじめ、森羅万象は全て中央に座る大日如来から生じる化身という・・。
一次ソースの大日如来は素粒子だとか太陽だとかブラックホールだとかブラフマンだとか言われてますが(笑) なんにせよ、抽象画とインド哲学的な宇宙観は切っても切れない関係にあると思います。
宗教を意識していなくても、空間の性質を考えている内に、それを意識せざるを得なくなってくる。
無限の形の複製、相対的な空間を眺めていると、それだけでは終わらず、
その中心に、まったくブレない絶対界(ブラフマン)があると意識されてくる、といったようなことです。 ひもも振動の違いによって様々な素粒子に見える。
振動が多いと存在する、振動が少ないと存在しない。 禅宗などは、観念論と唯物論の弁証法的な過程の中間に位置しているとも言える。 キェルケゴールの弁証法もまたヘーゲル的な弁証法に対置されています。
これは不二一元論と二元論との対処で、古くから宗教学のなかで言われていることでもあります。
ヘーゲルは、人間は弁証法的論理においてより真理に近い存在として自らを高めていくことができるとしていますが
これは人間と神との関係に於いて、人間と神は別のものであるとするキリスト教の教えでもあります。
キェルケゴールはそうではなく、全ての存在・非存在の中に絶対者(ブラフマン)がただ一者あり、
個々の人間にはそのただ一者の一部分(アートマン)があるとするシャンカラ哲学的な立場です。 色々書き散らしてすみません、でも言いたいことは単純です。
抽象画は、決定論の世界を表しているということです。
現在、GAFAに代表されるリバタリアニズム(自由至上主義)が世界を覆いつつあるわけですが、
この自由至上主義は、自由意志と決定論が両立しないことを認め(非両立説 )、
非決定論から自由意志の存在を唱える立場です。
ただ、アインシュタインがこれと真逆のことを言っているのが面白い。
アインシュタイン「私は決定論者だ。私達はあたかも自由意志が存在するように行動することを強いられている。
しかし、疑いもなく、私の生涯は自分ではどうにもならない、さまざまな要因によって決定されている。
ヘンリー・フォードならそれを内心の声と呼ぶだろうし、ソクラテスはダイモンになぞらえた。
二人とも独自のかたちで、人間は自由ではないという事実を説明している・・・
あらゆることが定められており、終わりだけでなく、始まりも、われわれにはどうにもならない力で決定されている。
虫も星も同じことだ。人間、植物、宇宙塵、われわれ自身。すべてのものが、
眼に見えない演奏者が遠くで奏でる不思議な調べにあわせて躍っている。」
人間に自由意志がないことは禅の修行などからも感得されるというのは、よく言われることではあります。
今後、自由意志と決定論についての議論はこれまで以上に盛んになってくると思いますが、
僕が何となく感動するのは、近代以前の大多数の人々や芸術家が、この息苦しい決定論を信じて生き、
それを絵にしていたということです。そして今も、抽象画にはそのエッセンスが残っている。 https://www.youtube.com/watch?v=gRivMEEZZE8&feature=youtu.be&list=LLIfC4zNTcXMRP2D_RRzLCnA 「オンライン団体」と申します。
建設的表現の場、議題持寄り、ボードゲームオフ
画集持寄りオフ 等の活動をしております。
団員募集
imgur.com/Y5S88ew.jpg 宮森はやとという抽象画家がよくTwitterで作品を公開してるんだが実際の出来や評価はどうなんだろう? >>179
見てきたけど恐らくアウトサイダーで、現代美術とは違って自称するようにただ画家なんだろうな。
高校の美術部員がやってるならまだ可愛いんだけど、作品はお粗末すぎるし、アプローチ方法は下品な感じがある。 >>179
ご本人はこの色合いいい感じだろ的な態度で描いてて自分でも何描いてるか分かってないと思えた
実際の作品と題名の間の違和感もある
過去の作品も見てみたけど基礎が全くできておらず芸術のうわべすら見えていない こういう絵見ると悲しくなるよね…
作者が哀れというか SNSみてると、外国では普通に抽象絵画がかかれていて、普通にギャラリーで売り買いされている。
日本だとコンテンポラリーは理屈を捏ねてイラストや漫画をかいて、
それ以外は、写真の物真似みたいな具象画ばかりだ。 ちうか抽象画というカテゴリーに意味がない。
日本で抽象画が受けない理由は、既に、書や茶道など高度に抽象化された文化的土壌があり、
欧米に教わるまでもなく物事を抽象的デザイン的に捉える目を一般教養レベルで身に着けているから。
今更抽象画なんか描いても感心する奴なんていない。
漫画イラストが多いのは、どうせ描くなら性欲処理の実用を兼ねる方がいい、ということだと思われる。 >>183
日本も抽象画は少なくないし、アニメやマンガをコンテクストした作品よりも多いと思う。
単純に君が知らないだけでは? ライフスタイルの違い、というだけの話かな。
市場はライフスタイルに合わせて形成されるものなので、
そのことが結果、市場規模そのものの違いとなって表れてくる。
自分は海外のそういった傾向が羨ましいとは全く思わないが。 なるほど、知らないだけか、
しかし、どうやったら知ることができるの?
それこそ、イギリスやアメリカの画家は、ツイッターやらFBで知ることができるのだけど。 >>188
同じようにインスタやらSNSで日本の作家も見れるし、
イギリスやアメリカよりも実際に展示を観に行きやすいから知れる機会は多いはず。ただ各々がどういう情報の取得の仕方をしているかの違いによって偏りはあると思う。 ツィッタなんて、好みの絵をフォローすれば、いもずる式に出てくるものかと、思ってたのだけど。日本の絵が今一つ出てこない。
なんでたろう。 抽象画家では児玉靖枝とか辰野登恵子とか好きだけれど、ネットとはかなり無縁な世界に生きてる感じがする。 辰野はバブルのときに登り詰めて、あとは、大学の先生になって、お亡くなりになったのかな。。
児玉は、辰野よりは若いと思ったけど、確かに、何をやってるのかわからないな、
俗世間には縁がなさそう。 児玉の最近の深韻シリーズは抽象じゃないな
辰野は形より色に魅力がある 児玉の森とか枝とか描いたような絵って、
実際に、実物の森や枝をスケッチしてから、かきおこしてるの? Oギャラリーのhpみたら庭の木を描いたみたいだった。
児玉って、90年代初頭、
、、、小林正人が、流行った頃に、
注目されたのだっけ、
この頃の児玉の売られ言葉として、もともと、モランディ風の具象を描いていたとあった。
ニァーなものから、線的な何か引き出してくる感じが、何か甘美というか、ロマンティックというか、
ジム・ダインにもそんなところがあった。 児玉の作品で自分が拝見したことがあるのは、
抽象とされている作品のみで、
あの、太い線でかかれている形態が謎でした。
しかしわからないままに、空間的奥行を示唆されるようで、釈然としなかったのだけど、
枝やら木を描いている絵を見てみれば、納得できたりもするのかもしれませんね。 抽象と具象を分ける意味がないのは、結局同じ方法で形を見ることしかできないからだが、
それに業を煮やして奥行のイリュージョンを否定したはずのミニマリストも
純粋とかいういい加減な概念でお茶を濁すことは、長続きせず。
結局原始時代から時間なんて経ってないんじゃねと思い始めてもう何年も経つ。 変形パネルを着色したような作品って意外と根強いよ。
着色のしかたとか工夫したりして、
筆痕はないけど色が複数使われてたりとか。
批評家とか学校の先生には嫌われそうだけど。
作る作家はあとを絶たないし
作品が売れてる人もいる。
不思議だけど。 >>198
ミニマリズム(にこだわりはないけど)も結局は、二次元と三次元の間のイリュージョンを
単純に楽しめるインスタレーションとして消費されるだけのオブジェになってるということかな。
もちろん、最初から美術ってそういうモンだと思うけど。センスの良いものはやっぱり買い手がつくんだね。 >>198
>変形パネルを着色したような作品
画像見てみたい。 198じゃないけど、自分が知ってる変形パネル系いくつか画像集めたんだけど貼ってみます。
直でアップロードできなくなったから、imgurでまとめました。みれるかな
https://imgur.com/gallery/yUUZCK7
Josh Sperling
Rana Begun
Sven Lukin
Lutz Fritsch
Felipe Pantone
花木彰太
佐藤克久 >>201
ありがとう、みれました。
日本勢も海外勢もよいね。
こういうのがある程度消費される理由に、
現代の建築に整合的な美術のスタイルへの需要がやっぱりあるのだと思う。
その点では、ファッションやアニメ漫画が供給され続けるのと同じ熱量を感じる。 アメリカ勢はドライだよね。
イギリスの作家は湿り気があって、日本人にも受け入れやすいと思う。
https://vincenthawkins.blogspot.com/?m=1 >>203
>>204
>イギリスの作家は湿り気があって
たしかに
こういう人の作る絵画はそれ単体での良し悪し以上に
どこに設置するかで内容が変わることを念頭に置いてそうな感じ
どんな絵にも言えることだろうけど >>202
室内装飾品というインテリアというか、
家具屋で販売されている額装されたポスターという存在を考えました。
しかしながら、ファインアートにおける批評では装飾という言葉は否定的に使われることがあります。
ファインアートに限定しなければヴォーリンガーのように肯定的な用いられる例もあります。 変形パネルの作品とかになると、立体作品やインスタレーションらしさも合わさって絵画特有のアウラみたいな存在感を感じにくいからか室内装飾品やインテリアぽいのかなと思う。 絵画のアウラっていいね。
美術館にいきたくなっちゃったけど、
今は閉まってるのかな。
ギャラリーも大変だろうな。
オリザ@劇作家の叩かれ方をみてると、
アート関係が目立つことをすると貴族呼ばわりされて憎悪の対象になりそう。 >絵画特有のアウラ
今時の漫画のハンコ絵、ピクシブやSNS上のCGイラストは、
なぜか絵であるにも関わらずアウラが希薄なものが多いように感じる。
工業製品とアウラが反発する概念だとすると、
製作工程が画一化され量産可能なCGイラストというものは、
まさに工業製品的であるがゆえにアウラが希薄なのだといえる。
その意味では、アウラのないCGイラストやハンコ絵は
ミニマルな変形パネル作品の近縁なのだろう。 ただ、工業製品とアウラについてベンヤミンが言ったことが本当に正しいことなのかどうかは分からない。
例えば日本刀などの工芸やベンツやフェラーリなど高級車の洗練された工業技術の中に、ある種のアウラを見る向きもある。
というか日本においては職人魂という形で工芸的洗練を貴ぶ風潮は前近代から強い。
漱石も草枕で「日本は巾着切りの態度(小手先の器用な態度)で美術品を作る」と描写しているように、
これは江戸期以前からの日本美術の特徴で、昨今のCGイラストやフィギュア造型もまたその傾向を示している。
ミニマリストが筆痕を消したり直線や曲線を機械的に加工したりするのも、工業的洗練の中に
ある種のアウラを見ている点では同じである。そこからは洗練するほどアウラが増幅し
手作業の痕が出るほどアウラが減退するという逆転した思考さえ感じることができる。 >>210
> 手作業の痕が出るほどアウラが減退するという逆転した思考さえ感じることができる。
うん、
ありがちだね。 このスレッドには、ミニマリズムという言葉が度々でてくるのだけど、
美術だと、ミニマリズムって結構古くからあったよね。
1960年代くらいからかな。
代替わりをしてそれらしい作品をつくってる人がいるの? >>211
>ありがちだね。
どちらが良いとか悪いとかいうことではなく、
アウラは時代やスタイルによって在処を変えるもので
絵画の筆触にのみ宿る類の概念でもなく、
また前近代の芸術にのみあって工業化された社会から消えたものでもない。 >>212
変形パネルなどの作品がミニマルアートの流れを汲んでいることは確かだろう。
まず純化し、時が経って俗化した消費物になり、日常的なスタイルとして定着した。 どうかな
おうおうにして、
絵を描くことに自信のない人や
絵を観ることに自信のない人は、
筆跡の目立たないを好む傾向があるような、
写真を模した具象画とか、
塗りもののような抽象画とか、
思い込みかな。 >>215
そういう人が多いという印象は、自分も受けるかな。
ジャッドは絵を描くことに自信がなかったので、あの方向に行ったと草間は書いている。
本当かどうか知らんけど。ただ変形パネルで製作しているようなのは一応美術を見る目はあるだろう。
写真を模した具象画、塗りもののような抽象画、これも全部がダメとは言い切れない。 絵画の筆触の何処にアウラが宿るか。
作者がその筆触を形として操作すればフォーマリズムに接近し、アウラは希薄化する。
また作者が筆触を情動や即興、一期一会の動作として認識するなら、それがアウラの根源になるかもしれない。
筆触の形式がアウラを抑え込み現しもする。ただ、後者のみでは美術作品としての体を成さない。 >>215
例えばリヒターやタイマンス、アド ラインハート
写真を模した具象画、塗りもののような抽象画といっても
彼らがそんなネガティブな理由で製作しているとは全く思わないが リヒター、タイマンス、何れも作品を、まとめて観る機会がありました。
色彩は混濁してましたね、
リヒターは油絵の具という素材の扱いにひかれました。
混乱のなかでその質量性に圧倒される感じでした。
ラインハート本人かあるいは同世代の作家か何れかがラインハートの黒い作品の日本での人気に驚いたとインタビューで言っていてのを読んだ覚えがあります。
ぼくは彼のなかでは筆跡が残っている作品の方がひかれます。 リヒターの油絵の具の質量感は確かに大きい。
スキージは筆痕より無機的な印象。でも彫刻的な量を生み出す。
ジェームス・オースティン・マレーやジェイソン・マーティンの作品は
その質量性や金属的質感が強調されたものだろうね。
カラム・インズは筆で描いてるが、ラインハートと共通する技法なのかが少し気になる。 >>216
自信のなさと書いたけど、必ずしもネガティブな意味でもなくて、
混乱のなかに置かれた人は自信の持ちようがないし、そんな人が悶々と悩みながら訳のわからないことしている表現でもひかれるものはありますよ。 >>221
でも215の書き方だと、
筆跡が目立つ作品を描く人は絵を描くのも観るのも自信がある、という風に読めてしまう。
そこは関係ないんじゃない。まあ221を見ると、そういうことが言いたかったんじゃないとは思うけど。 自分は筆痕のあるものも、手作業の痕跡を消したものも、どちらも好きだけど。
どちらか片側から美術を見るということもない。 リヒターの絵の具の質量性といっても、それを感じるのは彼が
絵の具の工業製品としての存在感を前に押し出していることに拠る。
彼の絵もまたアウラ云々とは関係がない。括弧付きの筆痕、スキージ痕だからね。 >>210
> 工業的洗練の中に
ある種のアウラを見ている点では同じである。そこからは洗練するほどアウラが増幅し
手作業の痕が出るほどアウラが減退する
これを感じたことがあるのは、ドイツの名前はド忘れしてしまったが大きな美術館の体育館ほどの室内にジャッドやロバートモリス、カールアンドレたちのデカイ作品たちに囲まれて、静謐ながらどこか穏やかじゃない暴力性を体感した時かなと。
自分(個々)の感受性の差異か、これらを日本でまとまった大きな作品達を見る機会がないからか、あっても狭くて雑音もあってとなると感じ得るのは難しいかもしれない。 >>225
周囲の環境の違いは大きいよね。
一人で山登ったりすると、山塊の存在感をイヤでも感じるのに似てる。 もしかするとアウラの強さは作品そのものではなく周辺空間の大きさと純度に比例するのかも 絵とよばれる制作物では、作品のなかに虚構の空間をこしられていたのではなかったのかな。
虚の空間を廃したもの、
平たいオブジェというもの、
古い美術教育をうけていると対処に困るけど、今となっては普通にある表現なのかな。 >>220
ジェイソン・マーティン、調べてみてあの金属みたいな絵の具をごてーと置くように塗ってるみたいな作品の人かと、イメージと作家名が同定できた、ありがたい。
メタリックペイント系を少しまとめたものです。
https://m.imgur.com/gallery/ifMEHX1
日本にもごてっと金属絵の具を塗ったような絵があったと思いましたが、忘れてしまった。 オブジェとイリュージョンの関係は分けて考えられがちだが
両者は、人間の認知においては不可分ともいえる関係にある。
オブジェとしての立体感は、それを上回る平面上のコントラストがあると容易に消失する。
例としては生物の擬態、ネオンサインなど。映像は光の強さから絵の具以上の奥行効果がある。
リヒターがシャインと呼んだ概念も平面と立体の間を行き来するものを指している。 >>229
メタリック系は、人気がありそうでなさそうなところがよく分からないね。
こういう感じとか。
Peter Krauskopf
Joe Reihsen
ジョーライぜンは盛った上からブラシ吹き付けてる。これが妙に金属的なんだな。
金属系じゃないけど岡崎乾二郎のも嫌いじゃない。 金属でないものを金属的に見せる
これは古来から美術の彩色観にある
そういえば山も川も砂漠も海も航空写真でみると金属的に見える 色彩も形も質量
そういえば相対論の重要な点は時間と距離が同じ量だと言い出したこと
ブラックホールの周囲では時間と長さが混じり合う >>231
確かに2人とも作品によっては金属的なテクスチャがある。
吹き付けの色と角度でそう見えるのかもしれない。
自分はメッキみたいな絵の具の二層構造(それ以上も)を軽微に清々しくないように感じるんだけど、それは偽装のような騙くらかしや隠されていると無意識に感じているからなのかなと思った。
自分もまとめてて岡崎乾二郎はよぎった。 >>235
メッキ的塗装については似た感想、でもそれが絵画の本質かもしれないと思うとちょっと考えてしまうね。 そういえば、芸大の先生もひしゃげた木わくに金属系の塗装を施した布をはってたことがあった。 下地であったり、薄塗りで絵の具を透過させたり、山田正亮の絵が後の研究で塗り重ねの層でもストライプになっているのがわかったりとか、塗り重ねが一見わからない場合やそれが当たり前であると認識している場合には勿論違和感は感じない。
メッキがメッキであるとわかったり剥がれたりした時に
モノマネなんだと改めて認識をして、そこにモノマネ特有の良さを感じ得ることもある。 本場の文化を田舎である日本に紹介するのが意識的美術だったのだから仕方ない。
美術だけではなく純文学や思想だってそんなもの。 >>238
山田正亮は自分も好きだな。
結局塗るという行為は、薄塗りにしろ盛り付けるにしろ削るにしろ、本質的には彫塑的・彫刻的作業ということだね。
つまり全ての絵画作品は、イリュージョンではなく立体に分類されると言ってもいい。
その意味で本当にイリュージョンなのは映像のみなのだが、
知覚の段階ですべてが等価となる(リヒターのシャイン)ので話がややこしい。 ttps://blog.goo.ne.jp/alsun21/e/2b1d981f61351d370655afd0109f39a5
勝手にリンクを貼ったら怒られるかな。
ちょっと削っておく、
この人の絵が好きなんだよな。 >>241
リンク先の作品以外にも見てみると多少雰囲気の異なる作品もあって面白い。暖色が多めで柔らかい感じだ。
岡崎乾二郎に似てるなとと思った。 団塊の10才下、
浅田彰とかとの世代か
しかし、絵を描いてる人って政治運動とか思想被れとかしないよね。 いや結構いるよ。自分の感覚ではそれが全くない絵描きのほうが少ない。
自分も一応あるが、最も尊敬する画家が自分と真逆の思想だったりするので笑
そこはもう度外視して見るようにしている。 今ドイグ展やってるのか。
風景画と、ポスターをモチーフにした絵の並べ方の違いで、少し作品の見え方が補強されてる感じ。
甘ったるい絵だが、ある程度の大きさで水平線が並ぶとそこそこ強度があるようにも見える。
3DVRで十分だな。 抽象以降の具象絵画は実在を描かないのがルールみたいな感じだ。
リキテンシュタインなら、まだ理解できたのだけど、意味や物語によりすぎてないかな。 >>249
こっちのほうがステイニング寄りな感じ、
ドイグの何をそんなに真似たいのかは分からんが。
>>250
実在から仮象への流れだね。
確かに仮象として、反射したものや複製物、映像やVR・ARなんかから題材を取る必然性は別にないね。
そのまま実在を描いても、結局仮象を描いてることになるのだから。
おそらく、ほっとけばまたバカみたいに目の前のものを描きだすだろう。 ただ美術史において、実在に基づいた具象絵画というものは、
近代より少し前にようやく描かれ出したもので、描かれた時期も意外に短い。
よって美術史の大半を空想画、宗教画が占める。
例えばドラクロワの絵画も実在に基づいた具象絵画ではない。が、彼はスケッチに多くの写生画を
残しており、それは空想画を描くための下準備のような役割のものである。
東西を問わず、古代からそういう写生画の方が多く描かれてきた。
それが絵画の主題となったのは近代前後の一期間。その意味では今後も、
何度もリバイバルする可能性が残されているテーマではある。 近代以前の絵画なら、作品の意味は図像学的解釈の段階を経て構成されもしただろうが、
現代においては、個人の内的・心理的イメージをそのような方法で一般化することは出来ない。
ただ、パノフスキーの「知覚的な出来事のすべてが自然に意味を持つ」という指摘、
これは、些末な寓意や意味ばかりが溢れる現代の作品の制作過程にも当てはまる有効な指摘である。 現在、古画をみて喜んでいる人たちが、宗教会議の取り決め通りに観ているかな。
その分野の研究者なら、当然おさえてるのだろうけど、そうでもなければコード化できない細部の集積として観ているのでしょう?
ぼくだってそんなものだし。 フランク・ステラのグシャグシャでは事足りないのだろう。 ステラでは事足りないといっても、
ドイグらみたいなのがそこを埋めているとは思えないが。
この類の作家の方法論は、結局の所シュルレアリスムと大差ない。
加えて、小山ギャラリーが扱っているような甘い色彩の絵が好まれるのは
それがエロティックだから、というだけの話に思える。 そういえば、トム・ウェッセルマンの本当に機械的に塗装されたヌードやオレンジが官能的にみえたことがあった。
刺激的な色彩をやたらと筆跡を残して描いた巨大な抽象画よりも、ウェッセルマンのヌード方が官能的なのは何故かと、結局、意味に反応してしまうということは、もしかしたらあるかもしれない。 意味に反応しないと日常生活が送れないしね。
ウェッセルマンは好きだな。すこしマチスっぽい。 jean-baptiste-besancon
センスが良さそうと思ったらフランス人 トム・ウェッセルマンのはオピーみたいな輪郭線を強調した人物や静物画は好き。
ジーン・デイビスが縦だったからリヒターは横だったのだろうか。(リヒターの方が13歳若いみたい)
リヒターのストライプのやつで縦のはないのかな。 ロバート・スウェインとサンフォード・ワームフェルド
https://m.imgur.com/gallery/6u8G6Cf
共にアメリカ生まれの40年生と42年生
これをストリートとエッジーにアップデートしているのがフェリペ・パントーンだなと思う。
スクエアなカラーブロック、パッチ的な作品も変わらずずっと人気だけど、更新されていると言うのか隙間を取って作り続けられているような。
イーサン・クックの作品は素材もスッキリしててかなり好きだ。 https://www.g-fineart.co.jp/ryaku_MH.html
色見本みたいな作品、不思議と長続きしてるみたいだな。
創造性とか批評性とか独創性とか、そんな言葉とは無縁なように思われるのだけど、
日本だと百瀬寿かな、1944年生まれ。 オピーよりウェッセルマンのほうがエッジが効いてるな。
何でも最初に始めた人というのはかなり確かな感じがある。
その後真似だらけになっていくとどうでもよくなるが。 百瀬は美しいと思う。岡田は、少しテクスチャが残ったものの方が透明感がある気がする。
ヒルマ・アフ・クリント、同じスペクトルを用いてもフェリペ・パントーンなどとは趣きが違う・・、
と言いたいところだが、結局同じような場所を描いているような気もする。 >>262
>>263
ジーン・デイビスとリヒターなら、
ジーン・デイビスの方が横画面に縦ストライプで落ち着いて観られる感じがする。山田正亮もその逆で観やすい。
リヒターのは横画面に横ストライプでキツい感じ。ジーン・デイビスも縦画面ならキツいかもしれない。
イーサン・クックと百瀬は似てるね。どちらもいい。 https://www.wikiart.org/en/milton-avery
ミルトン・エイブリー って雑多な展覧会に混ざってることあるけど、いい絵を描いてると思う。 リキテンスタイン、ウェッセルマン、エイブリー、ロスコ、ホフマン、クラズナー、
マティスから、色々繋がっているのがいい。
ヘムルート・ドーナー、アクリル板に描いたり、ケリーやマチスを想起させるものがあったり、多彩だね。
ギュンター・フォルグ、イミ・クネーベル、ヨゼフ・アルバース、
この辺りのドイツ系作家からは、なぜか共通の色彩感覚を感じる。 ホフマンはマチスに被れていたらしいね。
抽象表現主義の他の作家はシュールレアリズムみたいな方向だったのかな。
ホフマンはドイツ出身のせいか色感もなまっていてマチスっぽくないけど。 >>280
この手の抽象画海外だと結構見るけど
向こうではどう受け取られてるんだろう?
今更〜とか、今更でも良ければいいね!とかかな
描き続けてる人が多いみたいだしある程度は肯定的には捉えられてるみたいだけど、批評家やビッグギャラリーオーナーとかはどう思っているんだろう。 >>280
この人の絵いいね。
彫刻と絵が並んでるのをいくつも見ていると、その間に共通しているものをやっぱり感じるね。 >>279
なんだかんだ言って、シュルレアリスムは幅が広いというか、根が深いというか。 >>284
すごく立体的だな。たまに紛れ込んでる風景画みたいなのも、似た空間性を持っていて面白い。 >>287
明度対比で絵作りしてるから奥行き感じさせるのかな、色使いも綺麗というか慎重だよね。 >>288
そこに絞ってるのはたしかに大きいよね。
あと、エッジが出てる部分は消失点が強く感じられるものだが、
この人のは、そのエッジに、より空間が収斂・拡散して見えるよう、
複層的なボケやブレを(リヒター以上に)コントロールしているように感じられる。 リー・クラズナーはたしかに上手い。
木炭のボカシがマティスのドローイングを思い起こさせるね。 https://twitter.com/richardwhadcock/status/1252914247417413632?s=19
イギリスの画家らしいけど、
ターナーみたいな作風で風景と抽象の間で揺れてるみたいな絵、日本でも似たような作風の人がポツポツいる。
彩度が低めかな、実物を観てみたい。
、ターナーって実物を、みて失望することが何度かあったから。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>294
綺麗だね。ボケとエッジの対比がターナーより極端な感じ。
ターナーはコンスタブルなどに比べると硬質な形態感はないのだが、
それでも膜のような色彩の奥行きは捉えていると思う。 一点透視図法というフィクションに基づいて作画されているのであれば、像はスタティックな一続きの面にならんでいるのかな。
スキージや大きな筆の一刷毛で、まばたきするように、或いはシャッターを落とすように、絵の具を擦り付けられたキャンバスを見せられると、逆に、ルネサンス以降近世までの絵画そこから派生した写真までのなにか想起してしまう。
もしかして、仕掛けとしては、安易なのかもしれないという疑いもある。 古代から現代まであらゆる芸術の中心に幾何学がある。
透視図法やキュビスムはそうした幾何学から派生した考えのほんの一部に過ぎないのだが、
それが安易な仕掛けだと観る向きは昔からあって、実際美術家は幾何学に支配された画面から逃げようと何度も試みている。
しかしこれは否定しようにもすることの出来ない宿命であり、そのことから
美術家にとって幾何学は数学的側面以上に、哲学的宗教的側面を色濃く持つものとして表現されてきた。これは現代美術家も同様だね。 一点透視図法自体を安易といっているのではなくて、
スキージの引き跡や大きな筆の一刷毛が、
が容易く、
瞼やシャッターか、あるいは、眼球網膜への思い込みかからか、
一点透視図法で描かれた絵画空間を想起させることが出来るとすれば、
それは安いというか物足りない。
ということ。 ああ、墨絵なんかにも見られる、ある種の曲芸じみた安っぽさのこと?
ターナー見てガッカリってもしかしてそういう部分? ターナーは、画集でみてるときは、想像でいろいろ補ってたのだと思う。
実作見たら、なんか干からびた感じだし、
密度も感じさせないし。 なるほど。
>>302の人、油彩の透明感はありそうだね。それがなかなか画集では出ないんだけど。 YouTubeの内容、
家庭の問題と日本古美術の空間構造が、オーバーラップさせるのが興味深かったです。 http://earth-plus.net/?p=8611
既に、お亡くなりなられたようだけど、
同じくらいの年齢で同じ学校学部の人。
空間はアメリカの抽象表現絵画のそれと似ている。 生きていたら60代か。308の人は55歳らしいけど、
個人の営為とはいえ、年齢的なもの、世代的なもの、その時代の流行との関係を色濃く感じるね。
それより下の世代になると、もはや流行自体がない時代にモノを作ってる感じになってる。 中村一美はYouTubのなかで、英語で美術批評を読んでたと言ってますね。ただ、タイミングを考えると、流行りから20年近く遅れてるかもしれません。英国の画家は更に10年遅れて読んだのかな。 そうだよね。グリーンバーグからだもん。そこで「ほかの連中はとっくに絵画制作なんてしなくなってたが、
80年代に絵画の復権があった」と言ってたな。周回遅れでなんとか先頭にいるように見えるという。笑
それに80年代ではまだネットが普及してないし、今よりのんびりしてたのかな。
英国の画家、似たような人たくさんいるのだろうけど、彼らは絵の具遊びをまだ止めないだろうね。
もう一種の伝統芸能と化してる気がする。 80年代に復権した絵画って、シュナーベルやら、キアやらクッキ、クレメンテ、キーファーといった具象画のことだと思う。
美術手著のバックナンバーをみてると、そっちの話ばかり吉本隆明まで対談に駆り出されてたりする。
今はコレって感じで、モードとして紹介されてる。 ニューペインティングね。フィッシェルやサーレ、その流れとは別だけどポルケも印象深い。
その頃の、ニューアカやらよく分かんない他の流行や批評も、今では霧散してしまってる感じ。
90年代はドイグやタイマンスなど、現代につながるフィギュラティヴなペインティングがでてくるのだが、
10年単位の流行に対し、作家の活動期間はもっと長いので、中村一美みたいな人がたまにひょっこり顔を出してきても不思議ではない。 84歳か。ポルケは10年前に69歳で亡くなったが、クリストの方が年上なんだな。
草間は91歳、カッツは92歳、篠田桃紅は107歳でまだ存命。 フィッシェルやサーレは、取り合えず写真から描き起こしたかのような人間の描き方が、馴染めませんでした。
藤田嗣治や松本俊介の方がいいやと思った。 藤田嗣治、松本俊介どちらもいいね。
たしかにサーレは絵心みたいなものは全くない。
フィッシェルは多少タッチにエロティックさがあって好きだが・・
なぜか写真絵画は消えていかないね。
マーティン・エダー
http://ex-chamber-memo5.seesaa.net/article/373736845.html 美術作品に公共性という次元ないのかな、
例えば、美術館だと意識高い系の人たちからケチをつけられるから展示できないものってあったりしないかな。
勿論、個人が購入するには問題ないだろうけど Otto Ford
https://instagram.com/ottoford?igshid=n25ikzgnwucu
オットーフォード(イギリス、1978年生まれ)はイギリスのロンドンで働いています。
オットーフォードは、デジタルを素材の絵画として再処理することを模索する作品を制作しています。 発見された画像を使用して、フォードはマーク作成の物理的なジェスチャーを復活させます。 絵画における動き、表現、顔料、色の歴史的実践は、フォードにとって重要です。 歴史的および現代的なアーティストとその作品が演じる芸術的役割についての私たちの認識を探究しているように。
絵画、版画、デジタル画像、画面の間のどこかにあるフォードは、絵画が何であり、なり得るかを超えようとする作品を制作しています。 デジドロを印刷しているんだと思うけど、これならエディション作品でも強度が落ちそうになさそう。 2000年以降、流行らしい流行の消えたアートシーンにおいて、
ポルノ的表現はますます増える一方なのだが、ハイアートの衰退とポルノ隆盛は、
過去に何度も退廃を繰り返してきた美術史の必然でもある。
近代以降、画家(写真家も同様)がポルノを複製的に扱ったり、美術の文脈に持ち込んだりすることにも、
ある程度系譜のようなものがあって、
源流は、第一次大戦後のドイツにおけるノイエ・ザハリヒカイト(新即物主義)の
オットー・ディクス 1891~1969
ジョージ・グロス 1893~1959、
それにベルギーのルネ・マグリット 1898~1967 あたりにある。
ドイツとアメリカでそれぞれの傾向がある。
ドイツでは、
ヘルムート・ニュートン 1920~2004 (オットー・ディクスらの影響を受けた)
ジグマー・ポルケ 1941~2010
エレン・フォン・アンワース 1954~ 66歳(ニュートンの影響)
トーマス・ルフ 1958~ 62歳
マーティン・エダー 1968~ 51歳
アメリカでは、
エドワード・ホッパー 1882~1967 (明治生まれ)
アンディ・ウォーホル 1928~1987
エリック・フィッシュル 1948~ 72歳 (ホッパーの影響)
ジェフ・クーンズ 1955~ 65歳
エリザベス・ペイトン 1965~ 55歳
テリー・リチャードソン 1965~ 54歳
などが有名であり、写真を写したような絵画がポルノと親和的なのは、
そうした絵画に、写真や映画、ファッション方面との相互影響の系譜があるためだろう。 なるほどね。
大コレクターは、美術館より購買力があるからね。 そうそう、横尾忠則が、「本物の滝じゃなくて、滝のポストカードに興味がある」
と言ったのと原理は同じだろうね。
最初は裸に興奮していたのが、裸の写真に興奮するようになり、
そして裸の写真の絵に興奮するようになる。 Otto Ford リキテンシュタインの発展系みたいな感じでよいですね。
岡崎乾次郎もステンシルを使ってたような気がします、似てるのかな。 そうですね。まさに下着泥棒的な心性だと思います。
物質への偏愛、技法のレイヤーへの偏愛。
オットー・フォード、岡崎乾次郎もそうですね。
それにしても、やっぱりアメリカ人よりドイツ人の方が
モノマニアックな変態が多い気がする。 技法のレイヤー。本質を何層もの嘘に分解する。
それは遠ざかる幽体離脱的な感覚を引き起こす。 機械的にひかれた線がキュビズムを連想させるのだけど、早い段階で装飾ではないかと疑問を持たれていた部分でもあったりする。 セザンヌの筆触すら、フライのような前世紀前半の人に装飾的と評されていたりする。 装飾的というのは、機械的に生まれるパターンへの批判的な意味が含まれているのかな?
マティスは装飾性を称揚していた。
トム・カートミル、他の絵も全体的には嫌いではないが、
ドロシー・ナパンガルディの方が好み。何が違うのか考えてしまうね。
https://twitter.com/ClaudMang/status/956691743675576321
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 両者、捉えている空間の表現に大差はない。
しいて言えばトム・カートミルの方はより分析的で技巧的、
ナパンガルディの方はアボリジニのシャーマニックな夢見の技法、
ドリーミングの霊的なヴィジョンをただアクリルで素朴に表現している。
ただ分析も一定の密度を満たせば十分霊的な性質を持つので、あまり違いはないようにも思える。 >>344
ここは、抽象絵画スレなので書きにくいですが、
マチスは具象だから、母親とか女とか帽子とか、そこから、口唇期だの味覚だの色彩だのと、いろいろ解釈の余地があり、
ポップアートやらポストペインタリーアブストラクションまで参照されたのですよね。 ポストペインタリーの人たちは色面だけにしましたが。 >>344
ナパムギャルディいいですね。
カーシミルは、平行線で近代絵画の浅い空間を想起させるのにたいして、
ナパムギャルディの点は強弱濃薄があり落ち込んでいくような空間を想わせるところがありますね。 >>340
柏原えつとむの“未熟な箱たち”を思いました。
紙で立方体をつくって、それを描いて、
描いた箱を切り抜いて、また、箱をつくる。
そんなことを繰り返して、立方体が、どんどん歪になっていくという作品。 >>346
>>347
マティスの絵も心理学的な分析の対象になるんだね。
グリーンバーグのポスト・ペインタリーの定義、今となってはあまり意味のあるものではない気がするが、
当時にしても、マティスやウェッセルマンの作品は、ステイニング技法のみに還元しきれない
線と色の性質を示していたり、グリーンバーグの定義以上に強い内容がある作品は他にも多かっただろうと思う。
また90年代以降、評論家の影響力が無くなっていったのは、インターネットの普及、そしてアールブリュットやアボリジニアートなど、
既存の西洋美術の文脈では捉えきれないジャンルが次々に紹介されたことが大きい。
実際、絵画(芸術)の世界は評論よりオカルトに親和的だと感じる。
>>349
柏原えつとむもいいね。違うメディアの間を何度も往還する手法は好きだな。
往還することで、ズレが出て、そのズレが空間や認識の深度を生む。
当たり前に認識しているペラペラな一つの記号、
そこにも驚くような空間の奥行が内在していることに気付かされる。
ナパンガルディの点の形態は、高次元で重なっている一つの点がズレることで、
空間の多様性を生み出している、といったことを想起させる。 混乱してて申し訳ありません、マチスにたいして精神分析的な解析をしたのはフランスの批評家です。
グリンバーグは主題的な内容には触れません、アメリカのシーンにフランスの批評家が直接影響してるということではなく、
個々の作家がマチスをみて、、いろいろ個別に考えたのではないかと、ここはぼくの勝手な思いこみです。
アメリカはフロイトよりユングがメジャーだったとのことなので可能性は低いでしょうね。 >>351
なるほどです。
地元では、アメリカから見る以上に近い存在だったから、
さまざまな分析がなされたのかもしれませんね。
元来フランス人そういうことするの好きそうですし。 マティス「画家のノート」をちょっと書き起こし。
「厚塗りは明るさを出してくれない」
「色彩の深度の違いを理解することによって明るさの多様性を表現する」
「線描画は光を生み出す」
「各時代は固有の光を持つ」
「この架空の線のまわりにアラベスクが展開する」
「線は力」 あと、興味深いのは、
作品を至上の価値と捉える欧米や日本の作家とは対照的に、
ナパンガルディをはじめ、アボリジニのアーティストは
自分の絵の上に座って描いたりする、ということ。
まあ、フランケンサーラーや一部のアクションペインターなど、
支持体の上に乗っかって作業する人もいるにはいるが。
https://www.youtube.com/watch?v=Osn3KRTM7Qs そういえば日本画の大作では、「乗り板」を使うこともあるが、
わりと画面に乗って描くことが多かった。 たとえば、江戸時代の池大雅でも蕪村でもいいけど、
描いてるときは、紙を床にしいて描いているのだろうと思い込んでるのですが、
画面のなか辺りを描くときはどうしてたのだろう、ふと思いました。 たしか、ロベルト・マッタの絵に、足跡がついたものがなあったような気がしたのですけど、
水平にして描くような絵でもないですよね。 へえ、マッタの絵だと、記号的な意味合いが強いのだろうけど。
ちょっと探せなかったけど、面白そうですね。 エテル・アドナン
いいですね。
他のサイトでもみてみましたが、随分とおおらかな絵を描かれる人ですね。 マチスがアフリカやら中国の絵に見出だしたのは西洋美術にもありながら近代においては抑圧されていたものだったりしたように、
アボリジニや中近東出身の女性に、西洋近代にありながらいつの間にか抑圧されてしまった何かを見出だしているような気がしないでもないですね。 回帰してくるものは、なにやら不気味にみえることがあります。
オカルトチックにみえるのは、そこに原因かあるのではないかと思います。 そう、だから進歩的といわれる動向が回帰的な性格を持っていたり、
そういう事はよくありますね。もの派もそういう部分があった。
郭仁植は、もの派のはしりのような作品もありましたね。
その後のニューエイジ的なものも、結局似たことを言っていたように見える。
マティスも、近代芸術を「近代的な芸術というより、
よりプリミティブな芸術に近いもの」と言っていましたね。 >>369
もの派については、インスタレーションの性格ゆえに今となってはわからないことばかり。
郭仁植は、色墨の作品と、版画はみることができました。
版画はよくみえました。
海外のどこか宛につくられているのではなく、自分の手元で何かが発生することを見極める感じがよかった。 セシリー・ブラウンはとても技巧的で、思想的な部分はともかく
やはり絵画のポルノ的表現の系譜に連なる作家のように見えますね。
もともと女性作家は手工業的技術とその応用に優れていて、
今ではエロティックな表現のかなりの部分を女性の発想と仕事が占めていると感じる。
アンワースがニュートンの写真を女性視点に変換する際の手際、オキーフのパレットの繊細さ、
あと日本の少女漫画家などをみても、細部や装飾的技巧への独特のこだわりがある。 >>371
>自分の手元で何かが発生することを見極める感じがよかった。
芸術の本質的な部分かもしれないですね。 セシリー・ブラウンは、コラージュしたかのように部分部分がばらけてみえますよね。
ピーター・ブレイクにもそんなことがありましたけど、
どんな制作過程をたどってるのでしょうね。 コラージュというかパッチワークというか、
ここら辺、日本人の得意分野なので、
もしかしたら、そっくりな作風の人もいるかもしれませんね。 日本でも海外でも、けっこういそうですね。
制作過程、やはり写真や過去の巨匠の絵などを砕きつつコラージュしているように見えます。
ゴヤやジェリコーの模写みたいなものもありますね。 最初期に「Four Letter Heaven」というポルノアニメまで作っていますね。
https://vimeo.com/17908241 90年代以降というか、グローバリズムの時代は世界が一つの村みたいな感じだから、あたかも国を単位にするようなタイプの批評は無効なのではないでしょうか。
村祭り的な祝祭空間はセクシャルなものだと思います。 上の方のyouturbで、中村某に蔵屋某が絡んでいた部分、
“何故、他ではなく日本の古画の空間を参照したのか、”
問題視すべきことなのかわからなくなっています。 >>379
別に無効だとは思いませんね。あろゆる美術の方法論に文脈や系譜が存在しますし。
また弁証法的観点に基づいた自然や生命の階層構造というものがありますが、
社会も同じで、国家という単位は階層として存在し続けるものです。
ヘーゲルは、国家が人倫の最高段階であるとしましたが、
現代のグローバリズムはそれを超える人倫を形成するどころか、更なる軋轢を生み出しています。
グッドハートが「多くのサムウェア国家の協力に基づく世界秩序は、1つの超国家的なエニウェアーズによるものよりも望ましい」
と述べているように、グローバリズムは庶民のものではなく、資本家やエリートのものです。
そこでは人倫の完成など後回しですから、その人倫を保障するのが今のところ、成熟した共同体としての国家しかないということです。
セシリー・ブラウン に関しては、村祭り的な祝祭性より、
既成のメディアと自己の関係、及びその溶解にエロティックな表現の特徴があるように思います。
アプロプリエーション(流用)とか、シミュレーショニズムの系譜ですね。
ドイグもそうだけど、日本だと森洋史とかですね。 >>380
両者ともに、清園寺縁起(南北朝1336-1392)の多視点的な遠近法について日本的な空間と評しているが、
それ以前に成立した聖衆来迎寺の六道絵(鎌倉1185-1333)にも既にその空間はあり、
さらにそのルーツを辿れば、敦煌莫高窟の419窟にある壁画
「薩埵太子本生、法華経変」「須達拿太子本生」(隋581-618)の空間構成まで遡ることもできる。
https://zhuanlan.zhihu.com/p/96262059
https://zhuanlan.zhihu.com/p/96150657 日本の絵巻の形式は、奈良時代から平安時代初期に中国から
仏教経典の図解や絵入りの典籍として伝わったものが元になっているが、
当の中国では、横長の画面が何段にも積層する形式の壁画が、往時の経典の漢訳事業と
平行して描かれていたことが分かる。 >>382
敦煌莫高窟ですか、
なんか凄そうですね。
明日、図書館で探してみようかなと思いつつ、開館しているのか不安もあります。 10世紀までの長い廃仏運動の後、西チベット・グゲ王国(古格王国842-1630)の王イェシェ・ウーの命令を受けて、
訳経僧(ロツァワと呼ばれる。サンスクリットからチベット語への翻訳を行った。)リンチェン・サンボ(958–1055)が
インドのカシミールに留学。17年間仏教を学び、多数の密教経典を訳出した。帰路にカシミールから32人の大工や仏師、絵師を連れ帰り、
彼らによって西チベット3国(グゲ、ラダック、ザンスカール)に合計で108の僧院が建てられた。
中でも主要なものは、グゲ(現在西チベットのツァンダ村)のトリン僧院(10世紀後半)、プランのコルジャ僧院(996年)、
今は廃墟になったラダックのニャルマ僧院(10世紀後半)、スピティ谷のタボ僧院(966)、アルチ・チョスコル(聖域の意味)三層堂(11世紀)がある。
11世紀のカシミール様式の壁画の特徴として、@群青の背景、A細身、B三白眼の寄り目、というものがあるが、
ラダックの仏教美術は11世紀のリンチェンサンポ時代と、14世紀頃からのポスト・リンチェンサンポ時代に分けることができ、
リンチェンサンポ様式はカシミールや中央アジア美術の系統をひいており、壁画の着色に群青を多用していることが特徴として挙げられるのに対し、
ポスト・リンチェンサンポ様式はカシミールの様式が薄れ、チベットの影響を受け赤の多様が目立つ。
グゲ王国は16世紀にラダックの攻撃を受け廃墟となったが、文革の影響による破壊も大きい。 敦煌莫高窟における初期窟の印象的な暈繝(うんげん)の黒変について。
菩薩の肌全面の下塗りに水銀朱を使い、カオリンで上塗りすると淡い肌色になるが、
経年変化でカオリンが剝がれ、下塗りの水銀朱が外気に触れるようになり酸化、黒変したものと考えられる。
また鉛丹も変色しやすい顔料であり、赤橙から白あるいは黒に変色する。
敦煌壁画が今世紀初頭世界に初めて紹介されたとき、当時すでに有名だったマティスなどともよく比較されたが、
マティスが仏教に親近感を持っていたことは彼の発言からも知ることができる。 宗教画の形象が色面に置き換わったようなイメージの絵を描く画家としては、
マティスの他にボブ・トンプソン Bob Thompson(1937–1966)が思い浮かぶ。 実のところ、敦煌初期窟や11世紀カシミール様式の密教壁画が素晴らしいのは、
経年劣化と元来の絵の構成や配色が噛み合って独特の稠密さが生まれていることが大きい。
劣化した質感には特有のピッチ・精密さがあって、しばしば筆触以上の奥行を生み出す。
筆で再現すると陳腐になりがちだが、山口薫なんかは色調がかなり精緻でそれに近い奥行がある。 劣化文化財は面白い。
廃墟や退色した街並みと同じだね。 色は音楽のピッチと同じで、共感覚の実験でも、
和音の調性およびピッチと色の明度および彩度、
ピッチと色相との間にそれぞれ一定の、印象次元のマッチングが見られる。 美連協が「美術館女子」なる企画を主導して非難轟々らしい。
中村との動画で蔵屋美香(4月から横浜美術館の新館長)は
東京国立近代美術館の改革の必要性を力説していたが、結局こんな企画しか出てこなさそうな予感。
そういやかなり昔の話だが横浜美術館も、2006年の「アイドル!」展はゴミみたいな内容だったな。 >>385
彩度が高くて形態は明瞭なのかな
というか、西洋近世が彩度を落としぎみで、輪郭を失い気味だったようにも思えます。
過去形でいいのかな。 >>397
>彩度を落としぎみで、輪郭を失い気味
これは、線描を強調する東洋美術と対照的に、マッスを重視する西欧のリアリズム指向からくるものだろうが、
その源流は古代ギリシャ・ローマの様式に求めることができる。
ただ、中世西洋における挿絵・装飾を伴う写本は、カリグラフィ主体のために線的表現が優位となる点で、東西共通の様式があった。
それが、マッスの再現的なタブロー・板画・壁画が現れるのは、15世紀初頭の初期フランドル派からイタリアの盛期ルネサンスあたりから。
ちなみに復興の手本とされた「古代ギリシャ」だが、その地理・歴史から見て、当時むしろ中東の一部をなしていたのであってヨーロッパの一部とは言えず、
実際、ヘーゲル以降のヨーロッパ哲学者たちが誇るような、西洋哲学の起源としてのギリシャ古典などというものは、歴史的連続性のなかには存在しない。
ヨーロッパはギリシャ古典を、すなわちプラトンやアリストテレスを、トレドとパレルモを中心とするイスラム圏との交流によってギリシア古典が再発見された
12世紀ルネサンスまで、知らなかったのだから。 また11世紀からのロマネスク様式、13世紀から15世紀初頭のゴシック様式の中に現れる悪魔が
蝙蝠のような膜質の翼を持っているのは、起源を辿ると中国南北朝時代(439‐589)の仏教美術に到達すると
澁澤龍彦は書いている。 逆にキジル石窟(3世紀中〜8世紀)や敦煌初期窟(4-5世紀)では、ギリシャ・ローマ・ペルシアの影響が見て取れる。 >>399
そうそう、
国内では、90年代にちょこっとマッスのある抽象画が珍重されたような、おぼえがありますね。
そのくらいで、遅れてきた絵画はなにやら燃え尽きた感じですかね。 蔵屋某からみて“上の世代”の人達が支持をしてたのかな、 大声で擁護をする批評家や
大金で買い求めるコレクターがいなくても、
絵を描く人はポツポツといて、人生をかけたり財産をつぎ込んで入りして、日は巡っていきますね。 評価とか取り扱い画廊とか、
そんなつまらないことを気にせずに
自分の目でみて判断してほしいものだと思います。 絵は出会いと同じですね。
すごい出会いというのは人生でそう何回もあるものじゃない気がします。
フィギュラティヴな絵は年代ごとに更新する感じがあるので、古臭いまま生き残りますよね。
ノンフィギュラティヴはどこか最初から燃え尽きてるような気もしますね。 藤枝某が山田某を発見した時は、別に世界的な、抽象ムーブメントなんて、ありませんでしたよね。
あるいは、グリーンバーグがポロックだのなんだ言っているときときも同様、戦後のフランスなんて、アンフォルメルとかありましたけど、このスレに誰も当時しないような、そんなものでした。 抽象って割にグローバルに展開せずに、それぞれの系譜の中に閉じこもるようなところがありますね。
グリーンバーグもアンフォルメルもそうですし。しかもこれらはお互いに、
主導権争いをしていた節もありますね。日本にもそれに影響された流れはありましたが、
それらと無関係に、斎藤義重からの流れがあったり、山田は周囲に関知しない感じで、
それぞれ好き勝手にやってる人も多いですね。 不思議ですよね。
抽象表現主義はホフマンやらデクーニングのような移民の作家もいましたし、
アンフォルメルは堂本や今井のように日本人の作家もいたり、具体も半ば合流して国際的なスタイルのようにも見えましたが、アメリカとフランスみたいな構図かな。
ベネチアビエンナーレにフランス代表でフォートリエがでたタイミングで、アメリカはロゥシェンバーグ(抽象表現ではないですが)を軍艦で搬入。大賞をかっさらったとか。 アメリカ型絵画という言葉は、ポロック在命時からあって、
ポロックは抗ったのではなかったか、
物理学にアメリカ型がないように絵画にも、そんなものはないと言ったとか。 ポロックは、大恐慌のときは、ニューディール政策の一貫で壁画製作に携わったりして月給をもらっていた。
ゲインズ主義的な政策のもとで、絵を描いていた。 初期のポロックは、シケイロスやグレアムから思想的な影響も受けていましたが、
それは長く続かず、徐々に自分の絵画により内省的に向き合うようになっていきましたね。
ただ、アメリカ型絵画と喧伝される頃には、グリーンバーグに振り回されて疲れ切っていたのでしょう。
グリーンバーグはマザーウェルにも「多くの点で賛同しない」とか言われてましたし。
まあ、最後はクラスナーにも愛想を尽かされて・・、なんか可哀そうですね、ポロックは。 >>412
内省的にはなりましたが、
それ以前のシュールレアリズムのような前衛絵画に比較すれば、よい意味で大衆に開かれている印象は有ります。 >>413
そうですね、まあ、内省的というのは絵のスタイルもありますが、
シケイロスの社会主義思想などは自分の絵から削ぎ落す、といったことですね。
ジャネット・ソーベルには決定的な影響を受けていますが、
その後、ソーベルやグリーンバーグの影響からも離れようとする。
そのことが、後期のスタイルによく表れている。
それにしても、ルース・クリグマン、フランケンサーラー、
この人たち、交友関係が狭すぎというか、露骨で笑ってしまう。
そういやエルンスト界隈もそうでしたね。 ぶっちゃけ、グリーンバーグもローゼンバーグは左翼の劇作家だったし、
ポロックも、たしか、左翼だったと思うけど、ここらへんは失念してしまいました。 そう。だから、>>244に対して245で、思想のない画家の方が少ないと書いたというのがありますね。
画家は思想に被れるし、徒党も組む。特に20世紀初頭から半ばまではそれが顕著でしたね。
ただ左翼といっても、ニューディールの時代は保守側が左派政策を採ったように、
グリーンバーグにも、そういうナショナルソーシャリズム的な側面と強い国家観がありました。
アメリカ型絵画なんてその典型で、彼は社会主義リアリズムに対抗するためにそういうものを作る必要があった。
ポロックは、その辺結構フラフラしてますね。ナバホ族、神話、彼が影響を受けたそういうものは、
どちらかといえば保守思想に親和的なものですから。 野見山暁治の水彩の色紙持ってるけど、限りなく抽象画。
「この絵は逆さに飾ってもいいと思う」という本人の裏書きがあるw
実際、この色紙を上にしたり下にしたり、いつも新鮮に楽しめるおいしい絵だよ。
野見山先生、ありがとうございます。 >>414
グリーンバーグとCIAの話はいろいろありますが、
加治屋某の文章をよむと、シャピロは歴史特定制を軽視しているとかなんだとか。
あるいは、実はCIAはヨーロッパの近代美術を冷戦の武器として関心を向けていた/アメリカ美術に支援はしていなかったとか、いろいろな話で出てきていて、
簡単にコメントをできる感じでもないですね。 狭義の前衛ということでは、
東野某は、セザンヌもマチスもわからないといってたような気がします。
ジョーンズにセザンヌがすごいと言われたが
わからないとか、
マチスのことは、“売り絵かき”とか、
しかし集英社のジャケットサイズの画集は、この人が文章をかいていて、
ステラがマチスを参照しているとか、いわれなくてもわかるような、どうでもいいことを書いていて、感慨深いです。 もしかしたら、
東野某はCIAから支援を受けていたのではないだろうかと、
そのくらいアメリカ現代美術を推してました。 面白い話ですね。
こうなって来ると画家は所詮、批評家や全く違う世界の連中の操り人形のようにも思えてきますね。 編集者や批評家やキュレーターは作家を分類しグループ化する。
作家は自身の創作行為によってこの枠からはみ出ようとするが、なかなか出られない。
それが、かなり強力な拘束であることがわかる。 加治屋某の文章は、
CIAはそれだけの価値をアメリカ美術にはみいだしていなかったということが主なのです。
また、西陣営と東陣営で世界が二つに分かれていて、それぞれが異なる神学を持ってる世界たからあり得ることで、 >>423
批評家によって、
もの派にくくられてしまった作家が、
自分はもの派ではないと主張して
画集を自費出版してめしたね。 90年代、冷戦が終わったとたんに、外国の流行り廃り情報が入ってこなくなったということは、確かにありますね。 美術に関しては、
本来、共時的に把握されるべきものが、
XX派、YY派とかで纏められて通時化に変換されてしまう傾向がありますね。
上の方に名前の上がっていた、
中村某が、80年代にインタビューかなにかで語っていたと思います。
時代遅れ批判されるのがウザかったのでしょう。 モードチェンジを演出しないと、新しい生産物が流通しずらいからかな 中村の言い分は最もですね。
ただ例えば年表を作る際の、国の成立・滅亡、人物の生没年、
それらの断面としての共時性から知ることができるのは、ある事象の分布や占有率のみであり、
前後の断面を通時的に捉えて初めて関係と意味が浮かび上がりますが、
そのあたりが美術史等における記述の混乱の原因でもありますね。
丸山は中観派とソシュール、唯識派とフロイトの関係について述べていましたね。 共時性と通時性、
西脇順三郎が「抽象とは、牛肉に頭を突っ込んだようなものである」
と言ったことを思い出します。 ただ共時性といってもユングとソシュールでは、かなり意味合いが異なってくる。 西脇とソシュールでは、文字ではなくフォネーが重要、とした部分は共通していて、
この両者の妙な類似性は面白い。 >>431
西脇順三郎は好きなのだけど、
多分、ぼくは読めていないだろうと思っていて、次に読むときは、もう少しわかるようになっていればよいなと、思っています。 敦煌陥落(786)の際、吐蕃(チベット)に連れて来られた中国禅僧摩訶衍(まかえん)を
瑜伽行中観派のカマラシーラが論争で退け、その後の吐蕃におけるチベット仏教の方向性を決めた。
密教は中観思想の延長上に位置づけることができ、思想的にも人的にもつながりが深い。
吐蕃の滅亡(9世紀後半)後、グゲ王国の保護によってチベット仏教の復興が始まる。
カシミール様式の仏教美術はその際に作られたもの。 >>436
あれをみたとき、一瞬、松浦某の絵をおもいだした。 ありがとうございます。
ボソボソッと話す感じですね。またゆっくり見てみます。 https://www.cadogancontemporary.com/artist/sam-lock/
なんか出来てしまいましたという感じの作品。
郭仁植もそんなところがあったけど、この人は、もっといろいろな作業をしている。 小林某も、もともとはこんな感じだったと思うのだけど。
描けなくなったのかな、 サムロック、いいですね。立体と絵画に同じ視点を感じます。
小林のは、同時進行してて分けられない感じですね。
https://www.youtube.com/watch?v=IZWhVRKO_c0 小林はサクサク喋るのに今度は杉戸の喋りが聴きづらい。 >>444
この動画、
なんか楽しそうでいいですね。。 この人たちの絵はよくわからないのだけだ、
マニアックなものなのかな、 僕も杉戸はあまりピンとこないかな、
小林の方が好みです。 画家が全員このプロセスが好きかというと、そうではない気もしますね。
僕は素描や木炭画好きですが。 彼のペインティングは装飾に寄っているようにみえて、ドローイングは、そこまではではないというか、ペインテングの弱点を補っているようにみえるのです。
なんだかなと、 そうですか、僕はけっこう共通したものを感じますが・・。
この人、結構マティスの絵をリツイートしてますが、
やっぱりマティス同様、ヴァルールの骨格を素描で捉えようとしているのかなと。
カラリスト全員ではないですが、色を使う作家は素描を基準にモノトーンを色に置き換えることがありますね。
ホッパーの素描にはそうした指示書きがあります。
もちろん素描は独立した作品なのですが。 この画家は、マチスの解釈がマッチョですね、ホフマンもそうですが、
ホッパーの素描はみたことがありませんでした。
みてみたいものです。 ホッパーの素描は良くも悪くもイラストっぽいですね(イラストレーターだったので)
これはまだマシなほう・・
https://walker-web.imgix.net/cms/70_341_cropped1.jpg?w=740&fit=clip&auto=format,compress&dpr=1.5 ホッパーは他人に指示を出すかの如くメモがありますね。
言葉も一杯入っていて興味深いです。
あまり、実際の絵画制作のなかでは、
色の面積を拡げたり、色自体を塗り替えたりといったことはしなさそうですね。
かといって、絵自体は完成という雰囲気ではなくて、どこか生煮えというか、倦怠感のようなものがあるのが不思議です。 あれ二枚目リンク切れてますね・・。
>>458
倦怠感は、不思議ですね。絵的にすごいわけじゃないのに、ちゃんと世界を感じる。 ディーベンコーンはストイックな感じですね。。
線が勝手にうねり出したりしないし、
色彩も抑えがちのよう。 オリツキーは好きです。ステラよりは一貫してるかも?
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オリツキーはグリーンバーグの文書に肯定的に名前が上がる画家で、ステラはフリードの文書で名前をみたような気がします。
とやかくいって、グリーンバーグの好むところは独特の癖があるような気がします。
なにかこう、もやッとしたした感じというか、
勿論、嫌いではないです https://www.wikiart.org/en/pierre-tal-coat/ponctue-1965
タル・コアット
カラーフィールドペインティングに似てるけどなにかが違う。
勿論、いいとか悪いとかの問題ではなく、
イーゼルにたてて描いてるのかな。
バターのように絵の具を塗ってる? 表層と奥行きの、乖離と溶解、少し小林正人と共通する部分がある感じですね。
この動画の最後あたり、作業中の様子が映ってますね。
https://www.youtube.com/watch?v=XC-UGNau54o&list=LLIfC4zNTcXMRP2D_RRzLCnA&index=4&t=0s >>469
ありがとうございます。
この動画いいですね。
大きなアトリエ、
途中の肖像画(最終的に抽象画になるのかな)やら、屋外でのスケッチやら、
なかなか、見せつけてくれます。
ボソボソのハケを、つかって油分を多く含ませた絵の具を塗ったり、なぞったり。
してるので溶解したような印象になるのでしょうか。
画面のなかに、どこかここか絵の具が盛り上がっている部分があって、見てると気持ち感情移入をしてしまいそうです。 >絵の具が盛り上がっている部分
上に出てたサム・ロックとはまた違う感じですね。
タル・コアットは凹凸が浮遊している感じがしてきます。 マネを起点とするような絵は、70年代以降は、寂しいですね。
美大やら専門学校やらに行った人達はどんな絵を描いてるのでしょう。 そうそう、中村某の動画ではインスタレーションとか言ってました。
で、ときどき、
藤枝某(既に故人)とか岡崎&松浦とかの晦渋、難解なテキストとともに生き返るのかな。 https://twitter.com/C_DanielsArt/status/976108334800625664?s=19
クリス・ダニエルス
アルバースみたいな抽象画、
他の絵をみると、彩度が高めだったり
もう少し、形態に工夫をしてたりするけど
デザインワークみたいにみえたりもする。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>469
いいですね。アルバースは色彩の相互干渉や循環を感じるけど、
この人のはハードエッジ系が少し入ってますね。 エッジはシャープですけど、
形態の扱いが、エルズワース・ケリー等に比べると鈍いようにも思えるのです。
シマシマが出てきてしまったりとか、
繰り返しが多かったりとか、 画面の端を少しあけることが多いかな、
結果として、目の前になにかがあって、視界を遮っているかのような印象? 形態について、いろいろ考えたりすることに対して、それほどの価値を見いだせないのが時代の感性なのではないかとも思えます。
勿論、敢えてやってみる人もいるかも知れませんが刹那かと。 ダミアンハースト 一択
観ている貴殿そのもの。分かるか。 良くも悪くも、薬中の作ったものは観る人間を引きずり込むものが多いのは確か。
ただ、死や自分自身を省察するのにハーストの装置が必要かと言えば別にそうでもない。 第一、ハースト自身が完全に変節しちゃってるし。
最近は桜の絵描いて喜んでるからね。健康?になったんだろう。 ロンドンオリンピックてお祭り部長をしてた作家だったよね。
クイーンとか出てきたかな。 ハースト観てると、どうしてもカインを片隅に意識してしまう自分は、ある意味薬中かなと思う。アニメの世界のあのカインです。彼が仏教に帰依したから抱く偏見かも。(日蓮宗を仏教と見れば)
感じていることを言葉にするのはしんどい。
カインの暗闇と明るさの話、を想うのです。 牛を半分に切った作品が印象悪い、
吉野家にはよく行くのになんでだろう。 アニメはよく知らないが、ハースト日蓮宗に入信してたの? ハーストではなくて、ル・カインです。
アニメと言うより、イメージストが正しい。
1975年に日蓮正宗に帰依したとあります。仏式で結婚。
ハーストと裏表、酷似、よく似てると想うので
書きました。スレチだと指摘受けるのは仕方ない。ハーストの宗教は全く知りません。 エロール・ル・カインね。
戦争が終わるまでインドのアーグラに滞在していたということだが、それは1〜3歳の頃の話だし、
1975年までインドには日本山妙法寺の連中くらいしか日本系の宗教は進出していない。どこで日蓮正宗と接点があったのか。
第一、1975年にはインドの日本山妙法寺関係者全員が国外退去を命じられている。
ただ、仏教徒だったという記述はあるね。 平成24(2012)年、日蓮正宗がムンバイに「日蓮正宗インド事務所」を開設、とある。
随分最近の話だな。 カインは、シンガポールの小学校時代に美術の授業で先生に叱られた。先生の言う通りにしなかった。日本軍侵攻の頃。その頃、イギリスの映画会社から、イギリスの美術学校に行くように勧められた。
以上から年代を察してくれ。なお、上記出典は美術系雑誌。何年か前、詳細忘れた。
ハーストもカインもイギリス人。作品は違えど裏表。しかし、本人の宗教は大きく影響する。
イスラム教圏、キリスト教圏の抽象画を見れば一目瞭然。
スレの諸兄に、良く分からん、と指摘されても仕方ない。 カインは、シンガポールの小学校時代に美術の授業で先生に叱られた。先生の言う通りにしなかった。日本軍侵攻の頃。その頃、イギリスの映画会社から、イギリスの美術学校に行くように勧められた。
以上から年代を察してくれ。なお、上記出典は美術系雑誌。何年か前、詳細忘れた。
ハーストもカインもイギリス人。作品は違えど裏表。しかし、本人の宗教は大きく影響する。
イスラム教圏、キリスト教圏の抽象画を見れば一目瞭然。
スレの諸兄に、良く分からん、と指摘されても仕方ない。 シンガポールは現在、仏教徒・キリスト教徒・イスラム教徒・道教徒の比率が拮抗しているが、中でも仏教徒が割合多い。
マレーシア全体ではイスラム教徒が6割、仏教徒が2割、キリスト教徒1割となっているが、イスラム化はマラッカ王国(15世紀)の時代に始まった。
マラッカ王国はその後ポルトガルによる侵略を受け(1511年)、オランダ東インド会社による、日本人傭兵とイギリス東インド会社商館のイギリス人虐殺事件(アンボイナ事件)
を契機に今度はオランダが覇権を握る(1623年)。その200年後、漁村であったシンガプーラがイギリス東インド会社によりシンガポールと改められ、
オランダとジョホール王国はイギリスによる植民地支配を認める(1824年)。
シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配下において、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続く。
またイギリスは、シンガポールに15万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ要塞化していたが、
日本陸軍のシンガポール攻略(1942年)によって僅か1週間で壊滅し、
イギリス極東軍司令官アーサー・パーシバル中将が無条件降伏、昭南島と改名し1945年まで日本占領下となる。
日本軍侵攻の頃、ル・カインは1歳であり、アーグラ滞在時はもとより、シンガポールに戻った後も、彼は
セントパトリックのカトリック学校に通っており、15歳の渡英時(1956年)まで、まだ仏教への傾倒を示した時期ではないと思われる。
それは生涯の大半を過ごしたイギリスにおいて増幅された心境なのだろう。
ただ、日蓮正宗との接点が、探しても情報が出てこないので分からない。 もしかすると昭南島時代のシンガポールに日蓮正宗寺院があって、
それがル・カインの幼年期にも残っていたのかなと調べてみたら、
シンガポールの唯一の日蓮正宗寺院は開妙院といわれるものしかなく、
寺院建立も2008年となっている。
つまりインドにおいてもシンガポールにおいても、ル・カインの人生と
日蓮正宗には全く接点が見られない。 残るはイギリスのみだが、エロール・ル・カインが亡くなったのは1989年。
2008年の段階でイギリスに日蓮正宗信徒は約140名、
ル・カインが暮らしたハーンベイやブリストルの信徒は0人。現在でも寺院すら無い。
またしても接点はない。 >>494
詳しい歴史有り難う。(^人^)
自分の記憶の基となった、件の美術系雑誌をもう一度探して、雑誌名、出版元など報告するね。
芸術家にとって宗教の力は大きいと思うので。
カインの作品を観ると、確かに、仏教画の香りが漂う。(仏教画の専門の方居たらごめんかも)
そこがハーストと全く異なる。自分の関心を強く引くモノは両者全く同じなのに。 宗教の力が大きいというのは同意ですね。
抽象画も、核心には常に宗教的動機や洞察が存在する。 >>495
見つけました、どうやら日蓮正宗信徒だったのは本当らしい。どこでそんなものを知ったのか。
おそらく、亡くなる一年前に発表した絵本「アルフィとくらやみ」(1988年)の文を書いた
仏教徒のサリー・マイルズと、普段から日本仏教について色々な話をしていたのだと思われる。
https://www.jonkers.co.uk/blog/inspiring-errol-le-cain-s-fantasy-artwork
1975年以降、エロールは、日蓮正宗の仏教徒でした。彼は13世紀の日本の宗教家(日蓮)の教えに帰依しました。
エロールは厳格なカトリックの教育の下で育ちましたが、その後、仏教は彼に啓示として現れました。
「仏教は私たち全員に潜在するものです。それは、神秘的で難解なものというよりは、
本当に非常に実用的で論理的なものです。仏教は、自分の中に物事を変える手段を持っていると教えます。
自分の中から聖歌「南無妙法蓮華経」を介して力と知恵を引き出します」 お詳しいですね。
実家が由緒ある寺の批評家さんや作家さんもいますが、
ぼくは批評を読んだり絵をみたりしても、そのことは分かりませんでした。
もしかしたら、分かる人には分かるのかもしれませんね。 >>495
495です。件の美術誌探して参りました。
書名 エロール・ル・カイン
出版社 ほるぷ出版
出版年 2009.12 全119項
カインの両親の写真も載ってます。母親は、『風と共に去りぬ』の主演女優ビビアンリーに似てる。余談。
2chにupするから、写メしていい?って聞いたら、「大きな図書館に行けば、必ず1冊は有るからそっちで写メしてくれ」だって。
このスレには、私より遥かに詳しい人が何人もいて驚きです。わざわざ探して来ることもなかったかも。
まあ、カインを偲びたい。
探している最中、ハーストの本も目にしました。
彼も、もしも、中世に生まれていたなら即刻拘束されて、宗教裁判やら何やらで投獄されてただろうな。
いやいや、世渡り上手で、王家の専属絵師として美味しい生活してたかもね。当時は、肖像画家として生活するのが一般だったそうです。いわゆる顔書き家。現代に生まれて良かったね。
とか、色々想った。 >>499
ありがとうございます、こんな時代でも、
本はやっぱり資料的価値が高いですよね。 >>501
上、中、下で違う作品のように観れますね
それぞれに違う作家を想起させる
目線をやるポイントが多過ぎず少な過ぎず
なのもいいですね。 風景から個別的なモノがなくなっていく感じかと思ってたのですが、言われてみれば、画面は3つに分けられそうです。
筆の動かし方がそれぞれのパートで異なっているし、そのなかで若干明度差もあったりしますね。
画面上からモノがなくなっていき、代わりに何かが現れる過程の高揚感といものがあるとすれば、それは宗教的なものなのでしょうか。 502ではなく496ですが、自分がその過程で感じるのは高揚感より不安感ですかね。
全ての認識の根拠が無くなっていく感じは、やっぱり、存在論や認識論、自由意志の有無、仏教的空、
そういうものと繋がっていて、宗教的と言わざるを得ない感覚のものです。 西田幾多郎の考える形にピンとくるものがある。
「真の絶対無の限定と考えられるものは、単に周辺なき円という如きものではなくして、その到る所が中心となるものでなければならぬ。」 到る所が中心となる、というのは中心と周縁が等価ということであり、
そこでは極大と極小が、時間とサイズが、全宇宙と自己が、トーラス状に結び付けられる。
自分は宇宙の中心であり同時に周縁の極でもある。一即多、多即一。絶対矛盾的自己同一ともいわれる。
あるいは西田はこうも言っている。
絶対(神)が全面的に自分を否定した形で相対(人間・個)に現れる。
また相対(人間・個)は全面的に自分を否定する形で絶対(神)に帰依する。
自分とは何か。なぜ自分は他の誰かではなく自分なのか。
他の何者かであるすべての可能性を否定したところに現れるものが「自己」であり、
「自己」とは、宇宙の無限と有限の、絶対と相対の、有と無の、中心と周縁の、
「絶対矛盾的自己同一の現場」そのものである。 「衝突矛盾のあるところに精神あり、精神のあるところには矛盾衝突がある」 そうそう、“善の研究”には、宗教や神について章がもうけられていました。
サルトルだったか、
知覚、概念、イメージを比較しているくだりがあって興味深かった。
パレットナイフと5色のアクリル絵の具による“引き潮”。
イギリスではターナーが近代絵画の父のような存在なのでしょうかね。
https://twitter.com/EdgeArtist/status/1270659907772133376?s=19
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 西田は「善の研究」を1911(明治44)年に発表、その後
「絶対矛盾的自己同一」を1939(昭和14)年に発表。1945(昭和20)年死去。
サルトルの「存在と無」は1943(昭和18)年か。
クリスタン・バガリー、イギリス・イングランド中部シェフィールド生まれ。
かなりターナーの影響が強いスタイルですね。
ピーク・ディストリクト国立公園のダークピーク地区、北コーンウォール海岸の自然に強い関心があり、
ミクストメディアとしてハリエニシダ、ヘザーなどの植物、グリットストーンの破片など
当地の素材をキャンバス上に混ぜ込んでいるようです。
とてもイギリス人らしい作家ですね。イギリスではよく売れているらしい。
(ヘザーは、イングランドとスコットランドの国境に位置するボーダー地方で織られていた粗剛な綾織のことも指す。
ヘザー・カラーと呼ばれるその多色配色は、イングランド、スコットランド、アイルランドの自然の草花の色調。) また、構成にはターナーの影響があるが、技法的な中身が入れ替わっているとも取れますね。
イギリス人にとってターナーは半ば伝統のようなものなんでしょうね。
完全に抽象化せず地域固有の情報を画面に埋め込もうとするところに、
抽象が即グローバルにならない保守的なイギリス人の気質が表れているように思います。
司馬遼太郎が古神道について「古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。
教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在す。」と書いていますが、
本来、神や抽象を感じたり表現したりするのに、すべての国境をなくすといった大工事は不要なのであり、
古くは洞窟、日本近世においては茶室、というような小空間があればそれは十分事足りるものでした。
このイギリス人も同じく、自分の生まれ育った土地から出ることなく作家活動をしているのは、
刻一刻と変化するダークピークや海岸の局地的風景から、宇宙的全体性を感じることが十分、出来るからでしょう。
ナショナリズムは定住性と結びついており(神道であれば稲作)、
グローバリズムは移住性と結びついているが、グローバルな全球的移動は、
禅的、あるいは西田的観点からは、ただの無意味とも取れます。そこでは、局在と全体が等価だからだからです。
そもそも、茶碗も絵画も、全体をのぞき込む局在の窓であり、遡ればこれらは祭壇のアイテムであり、
つまり定住文化の産物なのであって、置く位置とそのモニュメンタルな価値を手離すことができない。
グローバルに飛び回っているのはネットの情報だけであり、
実際の人間や都市、美術作品は依然として局在をその価値の根拠としているように見える。 全体性を希求するのは本来、情報や精神の領分ですね。
千と千尋の歌にも、海の彼方には もう探さない♪ とかありました。
高速鉄道やドローン、テスラのスペースXなどのインフラは、
言ってしまえば物理的に全体性を希求しているのだが、
物質自体、頑固な局在なので全球的インフラは必ず自重で潰れると予想しています。 ラーマクリシュナも、国や地域によって宗教が形を変えることを問題にしなかった。
局地的(相対)なものから、絶対(神)に至ることは可能であると。
ラーマクリシュナは他宗教への寛容さを徹底することをヴィヴェーカーナンダら弟子たちに説いた。
「宇宙の根本神は万能であるからして有形、無形のいずれの相をとっても存在できる。
時代・地域・民族の違いに相応した形式と教えを通じ、神は自己をさまざまに顕現する。
万神は唯一神の具現にして、万教は一真理の多彩な表現である。」 物質は個体的で局在的で相対的で重さがあり、常に全体性から疎外されている。
情報と精神は重さがなく軽々と全体を想起する。
物質的な重さやエネルギーが、どこかで情報と精神に入れ替わっているのではないか。
局在と全体の間を、重さやエネルギーという名のトンネルが繋いでいるのではないか。 ウェールズのスノードニア国立公園もいいね。
近くのエランバレーにあるダム群が良い。石積みの思想が日本と違う。 局在と全体は張り付いているのであり、人間も社会も局在の檻を逃れて全的統一に至ることは決してない。
抽象表現主義の画家たちは忘れられたりしないが、グリーンバーグが忘れられるのは自然の成り行きである。 西田幾多郎「世界新秩序の原理」より
「十九世紀以来、世界は、帝国主義の時代たると共に、階級闘争の時代でもあった。共産主義と云うのは、全体主義的ではあるが、
その原理は、何処までも十八世紀の個人的自覚による抽象的世界理念の思想に基くものである。思想としては、
十八世紀的思想の十九世紀的思想に対する反抗とも見ることができる。帝国主義的思想と共に過去に属するものであろう。
いずれの国家民族も、それぞれの歴史的地盤に成立し、それぞれの世界史的使命を有するのであり、
そこに各国家民族が各自の歴史的生命を有するのである。各国家民族が自己に即しながら自己を越えて一つの世界的世界を構成すると云うことは、
各自自己を越えて、それぞれの地域伝統に従って、先ず一つの特殊的世界を構成することでなければならない。
而して斯く歴史的地盤から構成せられた特殊的世界が結合して、全世界が一つの世界的世界に構成せられるのである。
かかる世界的世界に於ては、各国家民族が各自の個性的な歴史的生命に生きると共に、それぞれの世界史的使命を以て一つの世界的世界に結合するのである。
これは人間の歴史的発展の終極の理念であり、而もこれが今日の世界大戦によって要求せられる世界新秩序の原理でなければならない。
我国の八紘為宇の理念とは、此の如きものであろう。畏くも万邦をしてその所を得せしめると宣らせられる。聖旨も此にあるかと恐察し奉る次第である。
十八世紀的思想に基く共産的世界主義も、此の原理に於て解消せられなければならない。
世界的世界形成の原理と云うのは各国家民族の独自性を否定することではない、正にその逆である。
世界と云えば、人は今尚十八世紀的に抽象的一般的世界を考えて居るのである。
私の世界的世界形成と云うのは、各国家各民族がそれぞれの歴史的地盤に於て何処までも世界史的使命を果すことによって、
即ちそれぞれの歴史的生命に生きることによって、世界が具体的に一となるのである、即ち世界的世界となるのである。
世界が具体的に一となると云うことは各国家民族が何処までもそれぞれの歴史的生命に生きることでなければならない。
恰も有機体に於ての様に、全体が一となることは各自が各自自身となることであり、各自が各自自身となることは全体が一となることである。」 「世界と云えば、人は今尚十八世紀的に抽象的一般的世界を考えて居るのである。」
抽象美術も同じように考えている奴が多い。ただ還元的に統合的に扱っただけのものは抽象とはいわない。
局在と全体を生まれた場所でそのまま重ねることを抽象という。
アボリジニの絵はどこまでもアボリジニの絵でありながら即世界抽象である。 「世界新秩序の原理」は昭和18(1943)年頃のテキストだが、その内容は現代においても示唆に富むものである。
つまり、情報・インフラがグローバルに統合されるほど、個人・社会のあらゆる局在性と分断が露わになる
ということをあらかじめ予見していた書である。大拙の「即非の論理」も同じことを言っている。
そこからするとグリーンバーグの批評なんて的外れもいいところですね。
マネがモダニズムの起点だというのも間違っているし、建築、彫刻、絵画の切り分け方も間違っている。
間違っているから長続きしなかったともいえる。 デュシャンの作品は禅の公案そのもので、日本人の感性には馴染みのあるものである。
「禅が日本人の生活の中に根深く食い込んでいるというよりは、
むしろ日本人の生活そのものが、禅的である」鈴木大拙 デュシャンは現代でも生きているが、グリーンバーグは死んでいる。
それは何故か。デュシャンは大局的で、グリーンバーグは近視眼的だからである。
意味作用とは局在的現象である。「絶対」に意味は存在しない。
精神は意味を通じて絶対を局在化する。デュシャンはそのことを扱っているのだが、
グリーンバーグはそのループが断たれているので生命がないのである。 デュシャンのどの作品から、どのような考えを読み取ったのでしょう。 デュシャンの作品を、個別的にどうこう言うことも、批評することも、ほぼ無意味なんですよね。
逆にそういう意味のない分析や腑分けを延々とやって、元に戻せないのがグリーンバーグだともいえる。
それはともかく、デュシャン自身、レディメイドの定義を自分でもできないと言ってますが、
彼の真意が個別的な作品にないから、現代においても影響力が絶大なわけですね。
デュシャンは作品ではなくものの見方で現代美術を縛っている。
「見るものが芸術をつくる」というのはほとんど東洋思想と同じですから、
30歳代半ばで製作を放棄したのも、それの帰結なんでしょう。
飯田昭二もそういったデュシャンの考えからの変形で作品を作ってましたね。 そうそう、
デュシャンは雑誌をつくっていましたね。
作品を売ったことはないけど、
雑誌は売れないと話にならないので、
批評家だったのかな、
しかし、文章がよめるかというとそんなこともない。
発行人みたいな立場だったのかしら、 フランスからアメリカへ移動してきただけで、
フランスで作品の発表すら1度程度しかしてなかったのに、前衛芸術の巨匠になってしまった。
(アーモリーショーに作品が紛れ込んでいたことにより、) >発行人みたいな立場
グリーンボックスのメモを見ても、デュシャンは編集そのものに興味があるように見えますね。
アーモリーショーでは、コンセプチュアルな作品で有名になったのではないですが、
後に彼を巨匠にしたのは、作品ではなくバーガーのような人達でしょうね。
バーガーの主張はデュシャンとも、あるいは西田あたりともかぶる点があって面白い。 コンセプチュアルアートという言葉は定着しましたが、当初この言葉を唱えた作家や作品、批評家は忘れられ忘れられてきたような。デュシャンはその更に半世紀近く前に活動した作家、いまや掲示板のカンフル剤にもなりませんね。 過疎った掲示板にカンフル剤なんていらないでしょう。各自メモ書きや備忘録のように使えばいい。
あと美術史において、〇世紀も前のものということと、忘れられるということの間には、相関関係がない。
相関関係があるのは情報量と影響力であり、記憶されるか否かもそれらと相関する。
というか「社会的記憶」と「影響力」はほぼ同義語である。
たとえ原典の情報が限られ失われていても、影響力が大きければ後世の作家や批評家が言及することで
情報量が増えるため忘れられない。(仏教がまさにそれで、或いはキリスト教もそうである。)
そうでない作家はたとえ現代でもすぐに忘れられる。
またバーガーは(忘れられるどころか)今でも非常に有名で影響力の大きい社会学者なのであり、
活動期間の短かったデュシャンがこれほどの存在になったのも、彼の解釈と影響力に負うところが大きい。
実際のデュシャン自身は、ある意味古典的な作家といえる部分があり、現代に流通している
謎めいたデュシャンのイメージや思想は、ほぼバーガーが書き換えたものである。
そのような諸々の経緯により、リヒターや会田誠(別に好きではないが)、千葉雅也らが今も頻繁に
デュシャンに言及する状況であり、彼が現代美術においてなお「生きた存在」であることは疑いようのない事実である。 「泉」が発表された1917年。
デュシャン30歳、ピカソ36歳、マティス48歳、
そしてセザンヌの死後11年、マルクスの死後39年経っており、
サルトルは12歳で、ウィトゲンシュタインとハイデガーは同い年で28歳、
西田幾多郎・鈴木大拙共に47歳、フロイトは61歳、ドゥルーズが生まれるのは8年後、
ジャッドとウォホールが生まれるのは11年後、バーガーが生まれるのは12年後である。 マルクスは選ぶ選ばれるという代表の問題を、以下の歴史的素材から考察した。
単にナポレオンの甥だということ以外には何の特徴もないルイ・ボナパルトという凡庸な人物が、
1848年の二月革命に始まる、フランス第二共和政における政治闘争の中でクーデターを成立させ、
投票を通して最終的にフランス皇帝ナポレオン三世として即位したという事案。
投票や選挙という代表を選ぶ表象システムでは意外な人が圧倒的な勝利をおさめるということが起こり得る。
まさかという人が選ばれるのは選ぶ人と選ばれる人の関係が不透明で恣意的だという表象システムの原理性による。
マルクスはまず、この選挙という表象システムが皇帝にふさわしい人物を選ぶシステムではなく、
選ばれた人が皇帝になるという当たり前のことを明らかにする。
価値は後からついて来る。選ばれる人は価値がある人なのではなく、全ての人の価値を代表する人である。
選ばれる人は人というより価値という観念である。だからこそ価値に根拠があってはならない、
逆に価値とは何かという根拠がないからこそあらゆる事物を価値付けられる。
デュシャンの便器もそうした芸術という表象システムの原理性を示している。
そこでは貨幣という表象システムによって駆動する資本主義が、
人間と人間の関係を貨幣の価値の彼方に追いやったのと同じ構造を見ることができる。 ピーター・L・バーガーは、T美大の学生なら社会学の教科書として購入させられていたはずだけと、
まさか、デュシャンの研究までしてるとはしりませんでした。
同姓同名の別人かもしれませんね。
しかし、そんなことは関係ないというのが、ご意見ですよね。
デュシャンやバーガーの名前が独り歩きする限り“生きている”と。 それは同一人物ですね。
名前が独り歩きする限り“生きている”というのはその通りです。 失礼、私の間違いです。
同一人物ではなく、デュシャンの評論はピータービュルガーの方ですね。
ピーター・L・バーガーの記述は訂正します。
ビュルガーによって、泉が拡大解釈されたのは同じです。 ただ、やはりビュルガーよりピーター・バーガーのほうが興味深いな。 エランバレーも良かったが、アーティペラーグで観たポール・ギャンスが良かったな。
2013年頃だったかな。 別の年にエクスコーレンの印刷所に寄ったこともあった。 当時の様子が垣間見えて面白かった、というひとり言ですが何か? ストリートからはちょっと分かりにくい位置にあるんだよな。
しかし、ギャンスを偲ぶには良い場所だ。 グゲはだいぶ昔に行ったっきりで、今はどうなっているのか、よくわからないな。 カイラスは五河の分水嶺、シトレジュ川沿いの寺院。
それにひきかえ、展覧会のために作品が移動する、ということの安っぽさ。 印刷所も寺院も、その場所にある、ということが肝心なんだよね。 ぐるぐる回り始めた。
明後日までにはバターが出来てそうだ。 場所性と聖性、つまり、特定の配置なくしては、人間は一秒たりとも
現実を認識することができない。逆に言えば、現実とは配置である。 夕
想はかなく門をとざす、
けふも草家の門をとざす、
落葉のみちに黒鶫
終止符のごとく蹲る。 青い山脈、城ヶ島の雨、四十八茶百鼠という繋がりがあるね。 まあ校舎も変わる。生きるとは局在的配置を繰り返すことである。
死ぬとはその作用から離れ全体に回帰することであり、認知症や統合失調はちょうどその中間の過程である。 メイヤスーの、この世界には根本的《理由》がない、というのは、
「自然法則レベルですべてはやってる感である」と言い換えられる。
デュシャンの本質もやってる感。ー千葉雅也
局在的配置とは、この「やってる感」のことである。 人間は衣食住が足りているだけでは生きていけない。いや、生きてはいける。
だが、人間は、十分な生活だとしても、こんな生活なら死んだほうがマシだと思うことがある。
それは意味が足りないということだ。ならば、人間において「意味」と「死」は関係している、ということになる。ー千葉雅也
局在的配置とは、この「意味」のことである。 「綏芬河小唄」「国境の町」つながりでいえば、昔、虎頭要塞跡に行ったりもしましたね。
41ミリ榴弾砲の砲座跡がありましたよ。宗教施設以上の強い場所性が魅力ですな。 抽象絵画をはじめとする諸々の芸術が、軍事・土木インフラの完成度と存在感に及ばないのには理由がある。 ディーター・キエナストやピーター・ウォーカーらにも抽象画・現代美術同様に欠けているものがある。
近年においては、土木インフラのコンセプトが彼らのような方向に流れているのも事実だが、
隆起と流水侵食が釣り合うことで構成物質と降雨強度を反映しながら安定するヒマラヤの地形のように、
風雨への抵抗と劣化によって、はじめて概念的なインフラは物質化するのである。
最近の例では首都圏外郭放水路を一つの傑作に挙げることができる。 エジプト古王国時代のピラミッドはモニュメンタルなマッス(量塊)であるが、
新王国時代になると量塊にすき間を穿って柱で埋めつくした神殿がつくられる。
ペルシャのペルセポリス、アテネのパルテノンにおける柱主体の建築を経て、
パンテオンを始めとしたローマ古代アーチが出現する。造られた当時は力学や
エンジニアリングは未発達なので、やはりマッス(量塊)で抵抗させている。
西洋美術におけるマッスの起源は、土木由来のものである。 ギリシャ・ローマ建築からラウレンツィアーナ図書館の玄関ホール、シーグラム壁画への流れも膨大な例の一部に過ぎない。 逆に抽象画が土木インフラに影響を与えたことなど皆無に等しい。 まあ近代以降の絵画やアートなんてその程度のもの。
しかし、中世古代となると話は別なんだなこれが。 、、
高速道路や水力発電所のダイナミックな光景は日本中どこでも観ることができる。
あるいは、その気になればアメリカの軍艦すらも観ることができる。
なのに、美術館やら画廊やらに足を運んで、チマチマとした抽象絵画とやらを鑑賞したり、
あるいは、画家になろうとしたり、
何故?
オロカメンのようだ。 チマチマは言い得て妙ですね。
鑑賞したり画家になったりというのは、ただただ依然として絵の力を信じているということだが、
しかしその力を取り戻す道は、今では全くと言ってよいほど閉ざされている。 モダニズム以降発展を続けてきた巨大インフラと、その中のチマチマとした個の表現との乖離、
それはそのまま社会の状況の反映である。近代は産業における技術革新と同時に、
権利と称して表現を個の枠の中へ押しやった。個の枠、それは文字通り、額縁の歴史とも関係するものである。 額縁は元々キリスト教会の壁画や祭壇画のための縁取りであり、神聖なものへの差別化の役割があった。
西洋における額縁の発祥地イタリアでは、額縁をコルニーチェと呼ぶ。
これは屋根のすぐ下にある「軒」のことであり、建築様式から発生した語である。
古代・中世からルネサンスにかけて、額縁は建築様式を反映して柱·梁などの形態のものが多かった。
サンピエトロ寺院ではアーチに沿って、大量に額状のレリーフが施されている。
16世紀、ヴェネツィアの芸術家たちが油彩の支持体としてキャンバスを使い始め、
また神の分祀や布教の目的で壁画は持ち運びができるタブロー形式へと発展、
額縁も壁面から独立して、絵画とともに移動可能なものに変化した。
17世紀に入ると、一般市民の間でも壁に額縁付きの絵をかけて楽しむようになった。 そのような近代市民社会形成過程における「個のめざめとその枠」は、
額縁自体を取り払ったり、変形キャンバスを用いる現代もなお、そこに存在し続けているものである。
技巧的に優れた抽象絵画などはたくさんあるが、それが個の枠内の表現である以上、
面的な文化景観を醸成することはない。前衛〇〇、現代〇〇と言ってもそれは17世紀からの巨大な慣習であり、
けし粒のような個の表現とその間にあるチマチマしたコミュニケーションの起源もその時代にある。 本来、絵は土木建築と一体でなければその真価を発揮しない。
先史・古代における岩壁・洞窟の岩絵や寺院を埋め尽くす壁画の迫力は、
絵の背後に巨大なマッスを背負うことによって生み出される力である。
量塊と絵は相反しつつ調和するよう役割が考えられており、
絵は入れ墨のようにマッスを打ち消し空間を再構成するように描かれる。
古代の神殿は総じてカラフルなものであり、そのサイケデリックな効果は
背後の量塊の大きさと密接に関係するものである。 といっても、現代における壁画、バンクシーや、だまし絵のような壁画アーティストらの仕事、
フェリペ・パントーンのようにややスケールの大きい仕事も、所詮近代的個の枠を出る表現ではなく、
ある意味、巨大インフラやガード下へ施されたスプレーによる作者不明の落書き群のほうが、
その没個性性を含めて古代絵画に類似した在り方と力を継承しているともいえる。
ただストリートアートに対する世間の評価は芳しいものではない。 2005年に水戸芸術館で「X-COLOR/グラフィティ in Japan」展があり、さまざまな取組みや提案があったらしいが、
その時以上に今の世の中は厳しい状況のような気がする。落書き自由のマッシブで真っ白な建造物が、
誰かまたは共同で提案されればよいのだろうが、世間的にいらないという声が多いのなら、まあ別にいらないだろう。
絵の本質には事物の廃墟化という側面があって、それはなかなか扱うのが難しい性格のものではある。 本来という部分が、よくわからないのですよ。
壁画に感動したことはありませんので。 本来というのは、歴史的経緯において、という意味ですが、
では絵の価値とは無関係かといえば、「タブローでいいや」とはならないので、
そこは自分の中では関係してきますね。ちなみに断定口調なのはひとり言だからです。
感動しないのは、自分もそうですね。
今のグラフィティアートの内容にも別に興味はない。それは抽象画も同じですね。
技巧的には似たり寄ったりですから。なので、絵の中身ではなく場所について考えることが多くなりますね。 美術館や画廊に展示された作品間の細かな技巧的差異を珍重したい、とするのが保守なら、
美術館や画廊での展示という因習的な制度自体を受け付けない、とするストリートアートは革新である。
ただストリートアートは美術館以前の方法へと回帰しているのだから、結局はどちらもカビ臭い保守である。
ということで、やはり芸術は、革新も前衛もない、ただ保守が徘徊するだけのカビ臭い廃墟である。
そこで、「本来」の廃墟に立ち返る。 現実に生き生きと稼働しているように見せかけているものは、すべて廃墟である。
全ては、忘れられた時に息を吹き返し、光るともなく、光る。しかしそれは現実でない。 普通に考えて、
神殿やら教会やらにしか画像がなかった社会における、その価値と、
ありとあらゆるところに、画像や映像が溢れている社会における、画像の価値を比較したり、
あわよくば、
維持しようとしたりすること自体無理。
誰か資産を守るためのばか騒ぎに過ぎないと考えるならば、関わらないことだと。 素材と結びついているのが絵画。画像は光学的情報。
なんにせよ普通に考えて、その類の比較自体はよくあるものですよ。
単線的歴史過程で考えるから比較できないとなっちゃうだけで、
実のところ絶対主義と相対主義の話。
また相対主義は自己言及のパラドックスを含んでいるので、
必ずしも絶対主義に対して優位性を持つものでもない。
いくら科学が発達しても社会はこの両者の間を揺れ動く。
あと、維持とか復古とかしなくていいんですよ。
廃墟になればいいと言ってるのです。要は、ハイキョの管理の仕方。
あと、場所は存在論のハナシです。 感動ということについていえば、そもそも感動する実体がないということが
絵画もしくは芸術における感動の性質である。
そこには支持体、塗膜、色の間の仏教的な意味での関係性しかない。
また石や板、紙は古来より宗教的伝統を持つ素材であり、
それらが支持体になっている作品からは塗膜との間に宗教的な意味と関係性が生じるが、
支持体が俗な量産品としてのキャンバスやベニヤ(近世のヴェネツィア人が帆布を選んだ理由は
聖性ではなくその軽さや機能であり、現代のメーカーが追及するのもそうした面である。)
であれば塗膜との間にキッチュな意味と関係性が生じる。フォンタナはキャンバスを美しく見せたが、
抽象界隈が習慣的に絵の具塊でキャンバス上を覆うような作業は
グラフィティ界隈の仕事と大差ない。もちろん相対的な意味でも。 だから、現代でも抽象の伝統をチマチマと守っている連中は
一度グラフィティ界隈と一緒に落書きでもしに行けばいい。 初期フランドルと国際ゴシック、板、フレスコ、紙。
ヴェネツィア派、キャンバス。
この辺の境界は面白いくらいはっきりしてる。 既に、
廃墟かもしれませんね。
尤もらしく“構想を練る時代”というひともいますが“廃墟の管理”でも問題なさそう。 お、そこは同意下さったようで、ありがとうございます。。 http://www.kristaharris.com/
ペインタリーな抽象絵画。
若干深めな空間、
筆あとや線が斜めに流れていることと、明度対比があるからか。
絵の具の滴りが、上から下に垂直に落ちていることも斜線を斜線として見せているのかもれない。
団体展的といって嫌う人も居そう。 クーニングぽいが、全体に女性的な印象。女性的印象というのは、なぜかジョアン・ミッチェルや
セシリー・ブラウンからも共通して受ける種類のものなのだが、その感覚が何に由来するのかはわからない。 Jack B Yeats(アイルランド 1871〜1957)
Cleve Gray(アメリカ 1918〜2004)
Freddie Timms(オーストラリア 1946〜2017)
Richard Aldrich(アメリカ 1975〜)
Liza Lacroix(カナダ 1988〜) ヴェルフリンの定義も、不必要というか何かが間違っている感じ。
「閉じられた部屋の中に光が一つの光源だけから流れ込む時、それはまさしく本来的にバロック的テーマにちがいない。」
「顔の各部分の形は古典主義では等価だが、バロックでは独立性を失って、主たる部分に従属する―」
ここでいわれる「古典的」な壁画も、採光によって十分バロック的な統一を見せる。
平面的な壁画が場所と一体となっている理由のひとつである。
古典主義的な壁画は建築的効果の中に光も闇も絵も存在するのに対し、
一枚の絵の中に光と闇が仮構されているのがバロックであるとも言えるが、
ルネサンスにおける古典主義様式とバロックにおける様式には、実のところ見た目ほどの対立はない。
カラヴァッジオの師ペテルツァーノがティツィアーノ の弟子だったことから分かるように、
初期フランドル・国際ゴシックとヴェネツィア派の間に、
様式以上の、素材レベルでの境界があったことの方がより重要である。 様式を抽象的な公式のように捕らえるとのではなく、ベクトルのはなしであって
同じ様な話が繰り返されてた。
個← →類
古典 バロク
新古典 ロマン そもそも、「五つの対概念」自体が、怪しい。
クラシック様式↔バロック様式
・ 線的なもの↔絵画的なもの
・ 平面↔深奥
・ 閉じられた形式↔開かれた形式
・ 多数性↔統一性
・ 明瞭性↔不明瞭性
これらのたいして自明ではない対概念とその傾向が、
あらゆる国や時代を通して見られるとヴェルフリンはいう。
これを真に受けたグリーンバーグが、ペインタリーという言葉を
より硬直した対立軸の中へ閉じ込めていく。
まず、これらのことを絵のスタイルだけで切り分けてその変遷を考えると
肝心な点が見えない。重要なのはマッスをどう扱っているかである。
古代壁画においては、マッスは建築的属性として外部化されている。
また着色されたレリーフも建築との一体化を指向する。
ところが近世以降、壁から切り離された絵画はその中ですべてを自足する方向へ向かう。
それがマッスを内在化する根拠となる。
この事から、新古典とロマンはクラシックとバロックの分類には当てはまらない。
マッスを画面の中へ内在化させている時点で両者ともバロック、というか近世・近代の系譜である。
その証拠に、アングルの「ユピテルとテティス」はグラネ美術館に所蔵されているが
絵画と展示室に統一的な構成は見られない。「新古典」はロマン主義同様、建築から離れているのである。
建築から離れる、ということが古典↔近世近代のより根源的な境界である。
古代ギリシアの画家ゼウクシスの絵画は、当時としては革新的な写実表現が
用いられていたが、その彼が壁画よりも小さい板絵を好んだ、ということは
ヴェネツィア派と新古典主義の各事例との奇妙な類似である。 ある意味、クリムトら初期ウィーン分離派の活動内容が、
近代においてみられる、最も古典主義に近い形態である。
古典主義とは、総合芸術なのである。 ヴェルフリンは、晩餐について文章の最後に付け加えるように、片側に窓のある食堂に云々かいているけど、どうかな。 そう、だからダヴィンチはクラシックですよね。
ヴェルフリンはルネサンスを古代とは異なる意味でのクラシックに分類しているのだが、
ダヴィンチとラファエロ、ミケランジェロは過渡期的な性格を多分に含んでいるものの、
三人とも建築、彫刻、壁画を一体のものと見做す点で、本来的な意味での古典主義者だといえる。
ただラファエロとミケランジェロはギリシャ・ローマへの回帰願望が強いのだが、ダヴィンチはそこまでではない。 ヴェルフリン
古代美術は、水平、垂直、正面 側面 みたいなばっさりとした記載だったような。 ヴェルフリンの分類は現代でも異論が多くそのまま受け取ることは出来ないのと、
「美術史の基礎概念」でのヴェルフリンの分析は、あくまでもルネサンスとバロックの様式から
抽出した五つの対概念による絵の様式の変遷と比較が主な内容であり、
原始期(古代)美術とその建築との関係についてはあまり多くを語っていない。
>古代美術は、水平、垂直、正面 側面
確かに彼はキリスト教的な水平、垂直の世界観に基づいた言及が多い。
しかし古代(ルネサンス以前)の世界において最も重要な概念は円である。
ストーンヘンジ、ハルシュタット文化、ラ・テーヌ文化、
古代ギリシャにおける盾、円柱、壺絵、古代ローマにおけるアーチ、ドーム、円形闘技場。
アッバース朝におけるバグダッド(この時期のイスラム文明がルネサンスの母胎である)、
仏教・ヒンズー教におけるマンダラ(円の意味)、古代インドのチャクラム(輪)、
チャトラ(傘)、スタンバ(柱)。
ボガナンディシュワラ寺院にそれが一体となった石柱がある。
https://gops.org/wp-content/uploads/2015/08/bhogaumbr_1024.jpg
古代美術の明快な平面性、それは円と関係するものである。 Richard Roth(アメリカ 1946年〜)
Katharina Grosse(ドイツ 1961年〜)
建築・彫刻・絵画の統合、現代ではグロスあたりか。 草にまで吹き付けているところに、グロスのペイントへの欲望が表れているのだが、
ここで塗装の不毛さに思い当って無害さや機能性を求めると、
その瞬間にすべてはレフィーク・アナドールやチームラボのようなプロジェクションマッピングに置き換わる。
それはロマネスク教会における壁画が、ゴシックの大聖堂におけるステンドグラスに置き換わったのと相似的な現象である。
マティスやカルロ・スカルパによる総合にもその要素は読み取れる。 グロスの、絵のなかにフレームがでてくるところが、
マティスやホフマンを思い出させますね。
内側と外側があるということが、とても大事なことなのでしょうかね。 内側と外側があるということは、イメージとして建物なのかな。 内側と外側というのは面白いですね。
グロスがそれをどれほど表現しているかは分からないですが、
そのことをちゃんと扱える作家はすばらしいでしょうね。
色んな色使ってますが、白はたぶん彼女の好きな色でしょう。 ボナールの色は、色んな夕焼けの色のヴァリエーション。 ルノワールは虹色の夕焼け
ブラックは砂漠の空
マティスは昼と世紀末の空 グロスは田舎の嵐の空
ドラクロワは戦場の空
ミケランジェロは玲瓏の空
クーニングは白夜の夕焼け
ターナーは空の影 写真原理による色彩の形容。
イマイチ形容しづらいのが
セザンヌ、モネ、ウォーホル。
物語性がないのが原因か。 エイブリーは丘陵と海の空
ゴッホは穀倉地帯の空
岡崎乾二郎は湖の空
山田正亮は平原の空
カンディンスキーは幻想の空
シャガールは氷の空
クレーは散乱する地平線
バルテュスは薄曇りの夕空
色彩感覚は生まれた場所の風土気候を
なんとなく反映しているようにも思える。 山田正亮の評価が始まった頃の“みずえ”で、あの色彩に、オリジナリティを見いだしたかのような発言をしている批評家がいたような気がします。
そんななかで、中村功のような画家が登場してきたりもして、バブルの頃は花盛りの状態だったのではないだろうかと。 みづゑの歴史も長いですね。
中村功は素晴らしいですが、これまた形容しづらい色彩ですね。
同じ形容法でいけば恒星表面、ガス星雲といったところでしょうか。 セザンヌとモネの色が形容しづらい理由は、
光が空と地の色にすぐさま集約されない、多重露光性にあった。 中村功の名前を、あげましたが、
あの辺りの画家は非対象絵画でありながら、色彩の扱い方、塗り方や並べ方や重ね方を色々と工夫しているうちに、
植物やら鉱物やらを想起させるような何かが出てくる感じが興味深かったです。 なるほどですね。
非対象絵画といえども色を扱う限り具象へのフォーカスが生じる。
色は像、つまり対象だから。 ttps://instagram.com/sugiyamadaisuke_
絵描きごっこ、凡庸の極み フリードも、グリーンバーグとは少し違うけどやっぱり頑固だね。
千葉雅也のジャズに関するツイートに、
「ドミナントモーション、ツーファイブによるその遅延とかって万有引力みたいな話で、
その一元論を相対化してポリモーダルな宇宙に解放されていく過程が実はビパップの複雑化に内在しており、
で、それはファルス中心的ラカンからの離脱で・・」というものがあるが、
この一元論がそのまんまフリードにも当てはまるように思える。
この場合、フリードは原理主義、リテラリズムは相対主義となるのだが、
一方通行のフリードの方向性は、言ってみれば「絶対的→無時間的→静的→平面的→ステイニング
→イリュージョニズム→プロジェクション・マッピング」という具合にしか着地し得ないものであり、
その意味では、彼は絵画はかくあるべきと言ってはいても、結局は非絵画的なものを指向しているに過ぎないともいえる。 批評の対象を参照せずに文章だけ読んでると、グリーバークと同様に、ちんけなものち至るということはあるかもしれませんね。 例えは、様式を作品に外在化させてしまうというというの単純なミスリードではないのかな。
現象学をよんで、
筆触並べをはじめてみたりとかするケース同様。 モダニズム(mode)とはそういうことだから。
フリードは写真批評をしても当然、個別の写真や被写体の意味についてあまり考えることをしない。 「どんなにひとりの作家が思い込んでいい作品を撮ったからといっても、
それはどうあれ、見る人によって解体されていくわけでしょう。写真は。」森山大道
フリードの逆を考えずとも、普通はこうなる。カロの作品についても同じことがいえる。 そもそも作品と様式に主従関係を見出すこと自体がファルス中心的である。 そもそもイリュージョニズムというのは絵画だけの言葉ではない。
むしろ写真や映像、CGにこそ相応しい言葉であり、
普通に立体にも拡張できる概念である。
つまり絵画の実質は、図像というより素材である。 フリードは図像に興味があるから写真批評にいったのである。 つまり、もうプロジェクション・マッピングの目と鼻の先まできているのだが、
彼は動かないものがお好みなので、写真の段階で文字通り止まっているわけである。
まあもう81だし。 フリードは古画にいったあと写真だった。
図に関心があったのだろうね。 イリュージョンを廃止した絵画というものもいっとき流行ったがすぐに厭きられた。 まあギャラリーからも、肌感覚として、誰が有名か、誰が今数字が出ているかだけを美術人は気にしている、という
いわばYoutube的世界を感じますね。「鑑賞」「作品」ということは、形だけのものになりつつある。
「批評」は言うまでもないことですが。その他は、まあギャラリストと学芸員の狭い情報交換だけで成り立っている世界、
ということを感じますね。 今日、書店にいったら、“没入と演劇性”は売れてしまったみたいで、なくなっていた。
どんな人が購入したのかな、
絵を描く人?それとも、美術史の勉強をしている人? コンテンポラリーな美術館は劇場となんらかわらない虚ろな箱になるのが理にかなってるとは思う。 フリードは最終的にオノヨーコの脳内絵画みたいなものに行き着くと思ってた
カロの話も視覚というより脳内現象みたいに読めたんだけど >>637>>638
何を作品の成立と見るかは鑑賞次第なので、仮に新しく作品が制作されなくなった後も、
鑑賞する側が勝手にあれこれを作品と呼んでいくでしょう。
鑑賞という行為は限りなく制作に近く、また制作という行為は限りなく鑑賞に近い。
その場合、人為的に虚ろな箱を提案するコンテンポラリーな美術館の側と
実物のさまざまな廃墟の虚ろさや崩壊の中のクオリティを再発見する側とが
SNS的に併存する状況になっていくでしょうね。もうなってるけど。
フリードも劇場型ということを渋々認めてますが、そりゃ当然のことでしょうね。
カロの作品をフリードがどう見るかは相対的なものだとしか言いようがない。
>>639
オノヨーコのコンセプチュアルな作品も、ミニマルと方向が違うとはいえ、
見る人間が介入することで成立する点ではフリードの嫌う劇場型だといえる。言いたいことは何となくわかるけど。
というかフリード自身、矛盾だらけなのが悪い。その無茶さ加減は浅田も昔からよく批判している。 現実は言語で言い表せないとよくいわれるが、言語は現実である。
現実の前景に言語がレイヤー化しているのではない。
認知と想起と言語化はすべて癒着して切り離せない一つの現実である。
そういえばオノヨーコは幻覚型認知症だった。 https://www.youtube.com/watch?v=UyyjU8fzEYU
↑
左脳が一時的に停止した脳科学者の話
修行をすれば左脳の働きを弱められるのかもしれない
それを悟りと言うのかも?
右脳左脳正常に働いてる状態を現実というのならそうかもしれない >>643
面白かったです。右脳が全的溶融への、左脳が局在的分離への働きを持っている。
これは、東洋では主体を身体や外部と連続したものとして意識させる(瞑想・鍼灸など)のに対し、
西洋の精神分析では主体の構造を主に言語で離散的に整理する、ということに対応しているように見える。
あと、「現実」は変性意識を含むすべての意識状態を指す言葉で、
重要なのは現実なるものが、万人にとって右脳や左脳が壊れた世界へとシームレスに繋がっているものだということ。
この脳科学者の体験談は左脳が働かなくなった状態の話だが、死ぬときは右脳も停止するのでその先の話は分からない。
認知症患者や精神病患者だとまたいくらか違うヴァリエーションがあるのだろう。 つまり歴史記述とは左脳の働きによるもので、左脳が壊れた人間はもはや自分の人生を、
幼児期から死に向かって直線的に進行するものとは感じないかもしれない。
「かつて仏陀だった」とか「デュオニソスだった」とか言った晩年のニーチェについては、
脳のどの部位がダメだったのかは知らないが。 平林薫氏がそこら辺をテーマにして制作をしていたと思った。 平林薫さんのはいいですね。すこしクエバ・デ・ラス・マノスを連想しました。
そういえば平安時代、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用されたりしましたね。
言語を利用して人の心理に介入する呪術みたいなことはある程度可能で、その毒を薄めると営業トークになる。
新しい宗教の設計もでき、言葉は使いようで危険な(現実を読み替える)力を持つ。 精神分析療法で言葉の応酬で病気が治せると思われた時代もあった。 文脈を考えると精神分析は言葉を過大評価していた例になるのかな、
しかし、上に上がっている他の例ももしかしたら、そうなのかもしれない。
しかしコロナ禍下で精神分析は可能なのか、
いや、イメージを使った心理療法も同様か。 西田幾太郎的な
みんなつながる〜的な
もののけ姫的な ポロックとかロスコとかモーリスルイスとか見るとそう感じる
ロゴスを排除してる感じというかなんというか >>655
そうそう、
ある意味、だからチャンスだったんだよ。 前橋問題で馬脚を露わした評論家連盟の仲良しグループパシリの板会か・・。 >>54
いまさらだが、多景楼は贋作だ
書を齧ったやつなら知っている
「極」は崩し方も違う
日本の出版社から米芾作品集にこれが収録されない理由、それは一目瞭然だからだ >>663
いや評価は確定してるでしょ。虹県詩巻より若い頃に書いただけ。
>書を齧ったやつなら知っている
齧った程度のやつなんてゴマンと居るが、こんなこと迂闊に断言してる奴は別に多くはない。
そもそも虹県詩巻を米芾の標準的なスタイルだと見做すことが間違っている。
大陸の気風は禅味と云っても日本的幽玄とは違い、西方の影響が出ている部分もあるので。 抽象だけではね。
結局、何か+αが要る。文化的な奥行が。
現象としては、抽象絵画の衰退と左翼思想の死は軌を一にしている。 >>667
左翼思想が既に死んでいるということでしょうか? >>667
80年ほど前は、抽象画の制作理論の一部として左翼思想が援用されましたが、
当時の思想の形態はとっくに崩れ、それに歩調を合わせた抽象表現も一度終わっている、ということです。
左翼思想は現代でも、リベラルなのか統制思想なのか分からない自己矛盾の塊のようなものが存続しているのを
SNS上でもよく目にはするけど、それはもう抽象画等の表現と結びついてはいないですね。
そういう記憶に寄りかかって制作しているのは年寄りのみです。 >>670
丁寧にご教示くださりありがとうございます。良く理解できました。 絵を取り巻く言葉だけを読んでると、10年20年で、全く別の分野になってしまったかのような感想を持つのだけど、工芸品としての作品は似通っているのだよな。 ジャスパー・ジョーンズっていろいろな作品をつくってましたよね。
モチーフもして、旗とか標的とか、数字とか、平たいものを選んで描いて(イメージに変換するというのでしょうか)ましたよね。
観ていて引き込まれますね。 >>678
あの絶妙に、絵画への物質的な関心と観念的なテーマへの関心が曖昧になってる感じがいい、、 旗を見て旗の絵を描いてるんじゃないんだよ
描いてる旗の絵を見てから旗をみてるんだよ
見るということを教える絵を僕は描いてるんだよ 絵ってミメーシスが大事なのか、
あほうのような屁理屈をつけてでも像を描いたもの勝ちなのか >>681
絵画自体が星条旗として直接機能するから、単なる模倣じゃない ポップアートの頃、
みんなが頭をうちつけてた壁として奥行きの有無があったよね。 90年代頃はニューマンみたいな絵を描く人いたな。
でかいアトリエと倉庫があれば描きたかった。 どばた→ムサビ
どばた→愛芸
こういう経歴だと、
単色でもトーンに幅がある感じで
質のあるニューマンみたいなの描けてたよな ニューマンの実作って発明/発見の類いにありがちな無茶苦茶さがあったので後続者にはちょっとだけやることがあった。
いまはそこも埋まった感じだ。 モチーフの選択とか分かりやすさがポップアートみたいだ。 国内の美術館に Wayne Thiebaud 作品あるかな? 国内の美術館に Wayne Thiebaud 作品あるかな? タトリンといえば第三インターナショナル記念塔プロジェクト パレスチナでのジェノサイド以来、ポップアートのくだらなさにウンザリ。