抽象絵画を鑑賞するスレ
解釈、感じ方が人によって大きく異る抽象絵画
感想を勝手に書き込んでってください モンドリアン。
青と黄のコンポジションのこれが答えだって毅然とした感じ
ブロードウェイブギウギの賑やかさ
がたがたのヴィクトリーブギウギに素人ながらに感動した 驚愕の事実拡散
創価の魔(仏罰、現証、非科学的な原始的発想)の正体は、米国が仕掛けてるAI
パトカーの付きまとい、咳払い、くしゃみ、芝刈機音、ドアバン、ヘリの飛行音、子供の奇声、ドアバンも全て、米国が仕掛けてるAIが、人を操ってやってる。救急車のノイズキャンペーンに至っては、サイレンで嫌がらせにする為だけに、重篤な病人を作り出す冷徹さ
集スト(ギャングストーカー、ガスライティング、コインテルプロ、自殺強要ストーキング)以外にも、病気、痛み、かゆみ、湿疹かぶれ、臭い、自殺、殺人、事故、火災、台風、地震等、この世の災い全て、クソダニ米国の腐れAIが、波動(周波数)を悪用して作り出したもの
真実は下に
http://bbs1.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=pr02&mode=view&no=46
https://shinkamigo.wordpress.com 友達から教えてもらった嘘みたいに金の生る木を作れる方法
知りたい方だけみるといいかもしれません
グーグルで検索するといいかも『ネットで稼ぐ方法 モニアレフヌノ』
S00Z3 抽象画って、
とりあえず、彩度がたかめで、
響き合いもわかりやすい。
解釈云々の手前で取り敢えず鑑賞出来たりする。 このスレまだ生きてたのか・・
5年前の自分の書き込みが残ってる。懐かしいな。 シンプルで内的でシンボリックで美しい抽象画って今はないな 現代ほど多くの人が抽象的に形を扱う知識を持っている時代はない。
作家個人のコンセプトが広く一般に普及することはあまりないが、形そのものは普遍であり、
形の見方のみによって人類はラスコーから現代まで時代を超えた認識を共有する。
しかしそれは同時に、あらゆるものが相対的で決定論的であるという、
一種の運命論的認識によって引き起こされる不安の感情や、それにもとづく抽象衝動をも共有するということである。
抽象衝動は、宗教的感覚とつながっている。再び宗教の時代がやってくるのかもしれない。 最近はミニマルよりなアブストラクトペインティングが流行ってる気がする。
自分が好きで偏ってるだけかもしれないけど、
コンテンポラリーだとそうじゃないかな。 >>146
そうなんだ。画像があると分かり易いんだが。
自分の感覚では、ミニマルなアブストラクトペインティングはかなりレトロな代物という感じで、
流行ということならSNS上のCGアートがそれに最も近い気がする。 >>147
SNS上のCGっていうと、デザインの仕事も紛れて
美術ですってのは少ないかも。
抽象より具象の方が多い、抽象めいた具象とか
確かにミニマルな抽象画は昔からよくあった、
そして一般にデザインとして徐々に広まってきて、
それを若手が需要の匂いとして嗅ぎ取って拵えてるのを、
ちらほら見えるってくらいかな。
これは日本が主にじゃなくて海外のインスタでよく見るかな。
ミニマルだけじゃなくて、フォービスム的な大胆な抽象も
競い合う様に出てる感じ。
インスタのは「abstract.mag」って垢とかね。 ペロタンとカイカイキキのベルナール・フリズは観てないか
カイカイキキは全体的に全然良くなかったな。
メイビジュにも使われてた上部が黒いやつが一番酷い。
ペロタンの方が良かった。
偶然性より作為的な手法の方が綺麗にコントロールできてて見やすいんだな。 >>148
>>149
abstract.mag、たしかにペインティング多めだね。
フリズのは、ペロタンでは格子状のものが多かったのかな、感想からすると。
上部の黒いやつが一番酷いというのは、実物見ないと画像では判らないね。
構造表現ではCGアートが有利で、https://youtu.be/Nirt9x4Q0sE?t=88
ペインティングは出涸らしのお茶みたいだけど、なかなか嫌いにはなれないものだ。 >>150
そうペロタンのは大体格子状のやつだった。
奥部屋にカラーブロックに分かれてるけどブラッシングが
全体的に繋がってる不思議なやつもあった。
そういうCGのやつは詳しくないけど、ペロタンの上のYKGで
平川紀道がコンピュータープログラミングのインスタレーション
やってたけど、あれも言わばデジタルアブストラクトとも言えるのかな。
ライゾマやチームラボなどを含めずともCGアートは確かに流行ってる。
でもCGだと動画やインスタレーション的なメディアとなるから
抽象画とは言えづらいかな。
やっぱり抽象画は絵の具というメディアのうまいこと扱えれば
金の様に化ける付加価値の向上性とそれらの魅力はなかなか捨て置け無い。 >>151
平川紀道もやってたんだね。いいね。
もうここまでくるとサイエンスのカテゴリーに入っちゃうね。
デジタル関連のものは、たしかに抽象画とはいえないんだけど、アブストラクトってそもそも
何のメディアかは問題にならない、という特徴があるよね。
抽象画もその意味では絵の具によるインスタレーションとして
今でもCGアートやメディアアートと併置しうる存在だとは思う。
ただ、今までの絵描きというよりは、アートプログラマーみたいな人種が今後、
より幅を利かせていくようにはなるんだろうな。 抽象画ということで、絵の具が美しい、ミニマルなペインティングの作家というと、このあたりが好きかな。
Sanford Wurmfeld (サンフォード・ワームフェルド)
dan walsh (ダン・ウォルシュ)
Ennio Finzi (エンニオ・フィンジ) おーワームフェルドいいですね!
近しいので好きなのは
Felipe Pantone ー グラフィティ出身
Rob Pruitt ー 具象の方が少し多いですが
Robert Swain
Kanta Kimura ー でかいアームロボに描かせてる
Federico Herrero
Paulo Monteiro
荻野亮介
インスタで見つけがちなミニマルアブストラクトの
David Matthew King
David Ostrowski
Regine Schumann はメディアアートでインスタレーションで
ミニマルなアブストラクトですかね笑 >>154
ありがとう、目の保養になった。
ロブ・プルイットとレギーネ・シューマン、綺麗でいいよね。
Kanta Kimuraは、動画見たらアームロボが絵具を吹き飛ばしていて笑った。
パウロ・モンテイロと荻野亮介の作品は、インスタレーション的な空間性があるね。
壁との関係とかとても面白い。 >>155
益永梢子の布切れをアクリルケースに入れてるやつ
とかも多様な空間性があって好きですね。
前面のアクリル板の上部によくペイントしてたりと、
重力に抗うような内部配置をしてたり、
絵具で描くという行為を布の配置に置き換えることで、
立体やインスタレーションの内在する抽象画となってる様です。 >>156
彼女の作品もとても良いですね。
モンテイロなど、似た系統でも作家によって少しづつ空間の捉え方が違うのが面白い。
Rana Begum
Lutz Fritsch
Fergus Feehily
インスタ見てれば事足りるけど、
抽象絵画を鑑賞するスレなので(笑)
でも、どうしても絵画からはみでてしまいますね。。 Nathan Hylden
Alain Biltereyst
ラスコーでも既に抽象的な空間表現は成立しているけど、道路標識や路面標示も面白いですね。 Lutz Fritschの色棒は好きな感じでした。
標識的な空間構成を利用してる抽象画なんて
わからんと思いましたが、fritshの作品が
標識みたいですね。 >>159
インスタレーション的な表現の中でも、チームラボなどのCG動画に対して
Lutz Fritschや益永梢子、モンテイロなどの抽象画及び立体は、静止空間としての面白さがありますね。
向こうが動かない分、こちらが動いて視点を見つける楽しさがある。
チームラボは全部動いているので、そういった楽しさはないかもですね。 >>160
抽象画は側面も気になるんですよね
絵の具のタレや汚れがどんな具合か
少し作り方が見てわかるような。
下の方はどうなってるかしゃがんで見たり
離れて間近で見たりをさせる、そういうのも
鑑賞者を動かして楽しませるアナログなカラクリ
として面白いんですよね。 >>161
>側面も気になる
すごく分かります。絵具そのものにフェティッシュな魅力がありますよね。
印刷物、写真、映像、その他さまざまな素材にも固有のフェティッシュな質感があると思います。
CGは、そのへんがちょっと掴みどころがない。glitch artとかは少しフェチ要素を感じますが。
ただ、インスタレーションの類や美術館そのものがVRで保存されるようになってくるでしょうし、
VRインスタレーションやVRアートも出てきているし、ほとんどの美術作品はSNSで観ることが
多くなっているしで、ますますアナログの魅力とは何かが定義しづらくなってきてはいますね。
ただ、物質としての絵の具やその他の素材は一次ソースとして重要で、まだなくならない気がします。 >>162
現在の映像、CG、VR等のまだ埃っけのないキレイ目な
メディアとアナログな絵画では良さのベクトルの
方向が違うので住み分けができてますが、
いずれデジタルなメディアにもどこか有機的な
ヌクモリティを感じさせる作品が出てくるんですかね。
デジタライズされていく中で、人の感受性はどう変わって
行くのか気になりますね。
今でも抽象画をそっくりそのままジークレープリントで
複製できますが、その複製からも絵具の魔力を感じられるのか。
五感だけでは判別できなくなった時に、
それ以上か以外の知覚能力は発達していくのかな なんて。 >>163
ジークレープリント、複製技術の進歩はすごいですよね。
そもそも文字や絵画自体、現実の情報の複製・記録として始まった経緯がありますが、
さらにその複製である版画だけでも木版画→銅版画→リトグラフ→シルクスクリーン→ジークレーという
進化がありますね。(ジークレーはもはや版ではなくなってますが)
他の複製技術として写真→映像、別ルートでは彫刻・立体→型、全体にはアナログ→デジタルという流れがありますが、
やはり一次ソースが重要で、そこから無数の複製が生まれる、ということ自体は変わらない。
そして究極の一次ソースは現実で、デジタルは現実そのものの複製を目的としているように見える。
でも一次ソースである現実自体が、遺伝子をはじめとして複製に次ぐ複製ですから、
自然のマテリアルはデジタル複製を超えた精密な複製品として、人間にとっての価値を保ち続けると思います。
これらはまるで密教の胎蔵界曼荼羅のようだとも感じます。
菩薩をはじめ、森羅万象は全て中央に座る大日如来から生じる化身という・・。
一次ソースの大日如来は素粒子だとか太陽だとかブラックホールだとかブラフマンだとか言われてますが(笑) なんにせよ、抽象画とインド哲学的な宇宙観は切っても切れない関係にあると思います。
宗教を意識していなくても、空間の性質を考えている内に、それを意識せざるを得なくなってくる。
無限の形の複製、相対的な空間を眺めていると、それだけでは終わらず、
その中心に、まったくブレない絶対界(ブラフマン)があると意識されてくる、といったようなことです。 ひもも振動の違いによって様々な素粒子に見える。
振動が多いと存在する、振動が少ないと存在しない。 禅宗などは、観念論と唯物論の弁証法的な過程の中間に位置しているとも言える。 キェルケゴールの弁証法もまたヘーゲル的な弁証法に対置されています。
これは不二一元論と二元論との対処で、古くから宗教学のなかで言われていることでもあります。
ヘーゲルは、人間は弁証法的論理においてより真理に近い存在として自らを高めていくことができるとしていますが
これは人間と神との関係に於いて、人間と神は別のものであるとするキリスト教の教えでもあります。
キェルケゴールはそうではなく、全ての存在・非存在の中に絶対者(ブラフマン)がただ一者あり、
個々の人間にはそのただ一者の一部分(アートマン)があるとするシャンカラ哲学的な立場です。 色々書き散らしてすみません、でも言いたいことは単純です。
抽象画は、決定論の世界を表しているということです。
現在、GAFAに代表されるリバタリアニズム(自由至上主義)が世界を覆いつつあるわけですが、
この自由至上主義は、自由意志と決定論が両立しないことを認め(非両立説 )、
非決定論から自由意志の存在を唱える立場です。
ただ、アインシュタインがこれと真逆のことを言っているのが面白い。
アインシュタイン「私は決定論者だ。私達はあたかも自由意志が存在するように行動することを強いられている。
しかし、疑いもなく、私の生涯は自分ではどうにもならない、さまざまな要因によって決定されている。
ヘンリー・フォードならそれを内心の声と呼ぶだろうし、ソクラテスはダイモンになぞらえた。
二人とも独自のかたちで、人間は自由ではないという事実を説明している・・・
あらゆることが定められており、終わりだけでなく、始まりも、われわれにはどうにもならない力で決定されている。
虫も星も同じことだ。人間、植物、宇宙塵、われわれ自身。すべてのものが、
眼に見えない演奏者が遠くで奏でる不思議な調べにあわせて躍っている。」
人間に自由意志がないことは禅の修行などからも感得されるというのは、よく言われることではあります。
今後、自由意志と決定論についての議論はこれまで以上に盛んになってくると思いますが、
僕が何となく感動するのは、近代以前の大多数の人々や芸術家が、この息苦しい決定論を信じて生き、
それを絵にしていたということです。そして今も、抽象画にはそのエッセンスが残っている。 https://www.youtube.com/watch?v=gRivMEEZZE8&feature=youtu.be&list=LLIfC4zNTcXMRP2D_RRzLCnA 「オンライン団体」と申します。
建設的表現の場、議題持寄り、ボードゲームオフ
画集持寄りオフ 等の活動をしております。
団員募集
imgur.com/Y5S88ew.jpg 宮森はやとという抽象画家がよくTwitterで作品を公開してるんだが実際の出来や評価はどうなんだろう? >>179
見てきたけど恐らくアウトサイダーで、現代美術とは違って自称するようにただ画家なんだろうな。
高校の美術部員がやってるならまだ可愛いんだけど、作品はお粗末すぎるし、アプローチ方法は下品な感じがある。 >>179
ご本人はこの色合いいい感じだろ的な態度で描いてて自分でも何描いてるか分かってないと思えた
実際の作品と題名の間の違和感もある
過去の作品も見てみたけど基礎が全くできておらず芸術のうわべすら見えていない こういう絵見ると悲しくなるよね…
作者が哀れというか SNSみてると、外国では普通に抽象絵画がかかれていて、普通にギャラリーで売り買いされている。
日本だとコンテンポラリーは理屈を捏ねてイラストや漫画をかいて、
それ以外は、写真の物真似みたいな具象画ばかりだ。 ちうか抽象画というカテゴリーに意味がない。
日本で抽象画が受けない理由は、既に、書や茶道など高度に抽象化された文化的土壌があり、
欧米に教わるまでもなく物事を抽象的デザイン的に捉える目を一般教養レベルで身に着けているから。
今更抽象画なんか描いても感心する奴なんていない。
漫画イラストが多いのは、どうせ描くなら性欲処理の実用を兼ねる方がいい、ということだと思われる。 >>183
日本も抽象画は少なくないし、アニメやマンガをコンテクストした作品よりも多いと思う。
単純に君が知らないだけでは? ライフスタイルの違い、というだけの話かな。
市場はライフスタイルに合わせて形成されるものなので、
そのことが結果、市場規模そのものの違いとなって表れてくる。
自分は海外のそういった傾向が羨ましいとは全く思わないが。 なるほど、知らないだけか、
しかし、どうやったら知ることができるの?
それこそ、イギリスやアメリカの画家は、ツイッターやらFBで知ることができるのだけど。 >>188
同じようにインスタやらSNSで日本の作家も見れるし、
イギリスやアメリカよりも実際に展示を観に行きやすいから知れる機会は多いはず。ただ各々がどういう情報の取得の仕方をしているかの違いによって偏りはあると思う。 ツィッタなんて、好みの絵をフォローすれば、いもずる式に出てくるものかと、思ってたのだけど。日本の絵が今一つ出てこない。
なんでたろう。 抽象画家では児玉靖枝とか辰野登恵子とか好きだけれど、ネットとはかなり無縁な世界に生きてる感じがする。 辰野はバブルのときに登り詰めて、あとは、大学の先生になって、お亡くなりになったのかな。。
児玉は、辰野よりは若いと思ったけど、確かに、何をやってるのかわからないな、
俗世間には縁がなさそう。 児玉の最近の深韻シリーズは抽象じゃないな
辰野は形より色に魅力がある 児玉の森とか枝とか描いたような絵って、
実際に、実物の森や枝をスケッチしてから、かきおこしてるの? Oギャラリーのhpみたら庭の木を描いたみたいだった。
児玉って、90年代初頭、
、、、小林正人が、流行った頃に、
注目されたのだっけ、
この頃の児玉の売られ言葉として、もともと、モランディ風の具象を描いていたとあった。
ニァーなものから、線的な何か引き出してくる感じが、何か甘美というか、ロマンティックというか、
ジム・ダインにもそんなところがあった。 児玉の作品で自分が拝見したことがあるのは、
抽象とされている作品のみで、
あの、太い線でかかれている形態が謎でした。
しかしわからないままに、空間的奥行を示唆されるようで、釈然としなかったのだけど、
枝やら木を描いている絵を見てみれば、納得できたりもするのかもしれませんね。 抽象と具象を分ける意味がないのは、結局同じ方法で形を見ることしかできないからだが、
それに業を煮やして奥行のイリュージョンを否定したはずのミニマリストも
純粋とかいういい加減な概念でお茶を濁すことは、長続きせず。
結局原始時代から時間なんて経ってないんじゃねと思い始めてもう何年も経つ。 変形パネルを着色したような作品って意外と根強いよ。
着色のしかたとか工夫したりして、
筆痕はないけど色が複数使われてたりとか。
批評家とか学校の先生には嫌われそうだけど。
作る作家はあとを絶たないし
作品が売れてる人もいる。
不思議だけど。 >>198
ミニマリズム(にこだわりはないけど)も結局は、二次元と三次元の間のイリュージョンを
単純に楽しめるインスタレーションとして消費されるだけのオブジェになってるということかな。
もちろん、最初から美術ってそういうモンだと思うけど。センスの良いものはやっぱり買い手がつくんだね。 >>198
>変形パネルを着色したような作品
画像見てみたい。 198じゃないけど、自分が知ってる変形パネル系いくつか画像集めたんだけど貼ってみます。
直でアップロードできなくなったから、imgurでまとめました。みれるかな
https://imgur.com/gallery/yUUZCK7
Josh Sperling
Rana Begun
Sven Lukin
Lutz Fritsch
Felipe Pantone
花木彰太
佐藤克久 >>201
ありがとう、みれました。
日本勢も海外勢もよいね。
こういうのがある程度消費される理由に、
現代の建築に整合的な美術のスタイルへの需要がやっぱりあるのだと思う。
その点では、ファッションやアニメ漫画が供給され続けるのと同じ熱量を感じる。 アメリカ勢はドライだよね。
イギリスの作家は湿り気があって、日本人にも受け入れやすいと思う。
https://vincenthawkins.blogspot.com/?m=1 >>203
>>204
>イギリスの作家は湿り気があって
たしかに
こういう人の作る絵画はそれ単体での良し悪し以上に
どこに設置するかで内容が変わることを念頭に置いてそうな感じ
どんな絵にも言えることだろうけど >>202
室内装飾品というインテリアというか、
家具屋で販売されている額装されたポスターという存在を考えました。
しかしながら、ファインアートにおける批評では装飾という言葉は否定的に使われることがあります。
ファインアートに限定しなければヴォーリンガーのように肯定的な用いられる例もあります。 変形パネルの作品とかになると、立体作品やインスタレーションらしさも合わさって絵画特有のアウラみたいな存在感を感じにくいからか室内装飾品やインテリアぽいのかなと思う。 絵画のアウラっていいね。
美術館にいきたくなっちゃったけど、
今は閉まってるのかな。
ギャラリーも大変だろうな。
オリザ@劇作家の叩かれ方をみてると、
アート関係が目立つことをすると貴族呼ばわりされて憎悪の対象になりそう。 >絵画特有のアウラ
今時の漫画のハンコ絵、ピクシブやSNS上のCGイラストは、
なぜか絵であるにも関わらずアウラが希薄なものが多いように感じる。
工業製品とアウラが反発する概念だとすると、
製作工程が画一化され量産可能なCGイラストというものは、
まさに工業製品的であるがゆえにアウラが希薄なのだといえる。
その意味では、アウラのないCGイラストやハンコ絵は
ミニマルな変形パネル作品の近縁なのだろう。 ただ、工業製品とアウラについてベンヤミンが言ったことが本当に正しいことなのかどうかは分からない。
例えば日本刀などの工芸やベンツやフェラーリなど高級車の洗練された工業技術の中に、ある種のアウラを見る向きもある。
というか日本においては職人魂という形で工芸的洗練を貴ぶ風潮は前近代から強い。
漱石も草枕で「日本は巾着切りの態度(小手先の器用な態度)で美術品を作る」と描写しているように、
これは江戸期以前からの日本美術の特徴で、昨今のCGイラストやフィギュア造型もまたその傾向を示している。
ミニマリストが筆痕を消したり直線や曲線を機械的に加工したりするのも、工業的洗練の中に
ある種のアウラを見ている点では同じである。そこからは洗練するほどアウラが増幅し
手作業の痕が出るほどアウラが減退するという逆転した思考さえ感じることができる。 >>210
> 手作業の痕が出るほどアウラが減退するという逆転した思考さえ感じることができる。
うん、
ありがちだね。 このスレッドには、ミニマリズムという言葉が度々でてくるのだけど、
美術だと、ミニマリズムって結構古くからあったよね。
1960年代くらいからかな。
代替わりをしてそれらしい作品をつくってる人がいるの? >>211
>ありがちだね。
どちらが良いとか悪いとかいうことではなく、
アウラは時代やスタイルによって在処を変えるもので
絵画の筆触にのみ宿る類の概念でもなく、
また前近代の芸術にのみあって工業化された社会から消えたものでもない。 >>212
変形パネルなどの作品がミニマルアートの流れを汲んでいることは確かだろう。
まず純化し、時が経って俗化した消費物になり、日常的なスタイルとして定着した。 どうかな
おうおうにして、
絵を描くことに自信のない人や
絵を観ることに自信のない人は、
筆跡の目立たないを好む傾向があるような、
写真を模した具象画とか、
塗りもののような抽象画とか、
思い込みかな。 >>215
そういう人が多いという印象は、自分も受けるかな。
ジャッドは絵を描くことに自信がなかったので、あの方向に行ったと草間は書いている。
本当かどうか知らんけど。ただ変形パネルで製作しているようなのは一応美術を見る目はあるだろう。
写真を模した具象画、塗りもののような抽象画、これも全部がダメとは言い切れない。 絵画の筆触の何処にアウラが宿るか。
作者がその筆触を形として操作すればフォーマリズムに接近し、アウラは希薄化する。
また作者が筆触を情動や即興、一期一会の動作として認識するなら、それがアウラの根源になるかもしれない。
筆触の形式がアウラを抑え込み現しもする。ただ、後者のみでは美術作品としての体を成さない。 >>215
例えばリヒターやタイマンス、アド ラインハート
写真を模した具象画、塗りもののような抽象画といっても
彼らがそんなネガティブな理由で製作しているとは全く思わないが リヒター、タイマンス、何れも作品を、まとめて観る機会がありました。
色彩は混濁してましたね、
リヒターは油絵の具という素材の扱いにひかれました。
混乱のなかでその質量性に圧倒される感じでした。
ラインハート本人かあるいは同世代の作家か何れかがラインハートの黒い作品の日本での人気に驚いたとインタビューで言っていてのを読んだ覚えがあります。
ぼくは彼のなかでは筆跡が残っている作品の方がひかれます。 リヒターの油絵の具の質量感は確かに大きい。
スキージは筆痕より無機的な印象。でも彫刻的な量を生み出す。
ジェームス・オースティン・マレーやジェイソン・マーティンの作品は
その質量性や金属的質感が強調されたものだろうね。
カラム・インズは筆で描いてるが、ラインハートと共通する技法なのかが少し気になる。 >>216
自信のなさと書いたけど、必ずしもネガティブな意味でもなくて、
混乱のなかに置かれた人は自信の持ちようがないし、そんな人が悶々と悩みながら訳のわからないことしている表現でもひかれるものはありますよ。 >>221
でも215の書き方だと、
筆跡が目立つ作品を描く人は絵を描くのも観るのも自信がある、という風に読めてしまう。
そこは関係ないんじゃない。まあ221を見ると、そういうことが言いたかったんじゃないとは思うけど。 自分は筆痕のあるものも、手作業の痕跡を消したものも、どちらも好きだけど。
どちらか片側から美術を見るということもない。 リヒターの絵の具の質量性といっても、それを感じるのは彼が
絵の具の工業製品としての存在感を前に押し出していることに拠る。
彼の絵もまたアウラ云々とは関係がない。括弧付きの筆痕、スキージ痕だからね。 >>210
> 工業的洗練の中に
ある種のアウラを見ている点では同じである。そこからは洗練するほどアウラが増幅し
手作業の痕が出るほどアウラが減退する
これを感じたことがあるのは、ドイツの名前はド忘れしてしまったが大きな美術館の体育館ほどの室内にジャッドやロバートモリス、カールアンドレたちのデカイ作品たちに囲まれて、静謐ながらどこか穏やかじゃない暴力性を体感した時かなと。
自分(個々)の感受性の差異か、これらを日本でまとまった大きな作品達を見る機会がないからか、あっても狭くて雑音もあってとなると感じ得るのは難しいかもしれない。 >>225
周囲の環境の違いは大きいよね。
一人で山登ったりすると、山塊の存在感をイヤでも感じるのに似てる。 もしかするとアウラの強さは作品そのものではなく周辺空間の大きさと純度に比例するのかも 絵とよばれる制作物では、作品のなかに虚構の空間をこしられていたのではなかったのかな。
虚の空間を廃したもの、
平たいオブジェというもの、
古い美術教育をうけていると対処に困るけど、今となっては普通にある表現なのかな。 >>220
ジェイソン・マーティン、調べてみてあの金属みたいな絵の具をごてーと置くように塗ってるみたいな作品の人かと、イメージと作家名が同定できた、ありがたい。
メタリックペイント系を少しまとめたものです。
https://m.imgur.com/gallery/ifMEHX1
日本にもごてっと金属絵の具を塗ったような絵があったと思いましたが、忘れてしまった。 オブジェとイリュージョンの関係は分けて考えられがちだが
両者は、人間の認知においては不可分ともいえる関係にある。
オブジェとしての立体感は、それを上回る平面上のコントラストがあると容易に消失する。
例としては生物の擬態、ネオンサインなど。映像は光の強さから絵の具以上の奥行効果がある。
リヒターがシャインと呼んだ概念も平面と立体の間を行き来するものを指している。 >>229
メタリック系は、人気がありそうでなさそうなところがよく分からないね。
こういう感じとか。
Peter Krauskopf
Joe Reihsen
ジョーライぜンは盛った上からブラシ吹き付けてる。これが妙に金属的なんだな。
金属系じゃないけど岡崎乾二郎のも嫌いじゃない。 金属でないものを金属的に見せる
これは古来から美術の彩色観にある
そういえば山も川も砂漠も海も航空写真でみると金属的に見える 色彩も形も質量
そういえば相対論の重要な点は時間と距離が同じ量だと言い出したこと
ブラックホールの周囲では時間と長さが混じり合う >>231
確かに2人とも作品によっては金属的なテクスチャがある。
吹き付けの色と角度でそう見えるのかもしれない。
自分はメッキみたいな絵の具の二層構造(それ以上も)を軽微に清々しくないように感じるんだけど、それは偽装のような騙くらかしや隠されていると無意識に感じているからなのかなと思った。
自分もまとめてて岡崎乾二郎はよぎった。