抽象絵画を鑑賞するスレ
解釈、感じ方が人によって大きく異る抽象絵画
感想を勝手に書き込んでってください 内側と外側があるということは、イメージとして建物なのかな。 内側と外側というのは面白いですね。
グロスがそれをどれほど表現しているかは分からないですが、
そのことをちゃんと扱える作家はすばらしいでしょうね。
色んな色使ってますが、白はたぶん彼女の好きな色でしょう。 ボナールの色は、色んな夕焼けの色のヴァリエーション。 ルノワールは虹色の夕焼け
ブラックは砂漠の空
マティスは昼と世紀末の空 グロスは田舎の嵐の空
ドラクロワは戦場の空
ミケランジェロは玲瓏の空
クーニングは白夜の夕焼け
ターナーは空の影 写真原理による色彩の形容。
イマイチ形容しづらいのが
セザンヌ、モネ、ウォーホル。
物語性がないのが原因か。 エイブリーは丘陵と海の空
ゴッホは穀倉地帯の空
岡崎乾二郎は湖の空
山田正亮は平原の空
カンディンスキーは幻想の空
シャガールは氷の空
クレーは散乱する地平線
バルテュスは薄曇りの夕空
色彩感覚は生まれた場所の風土気候を
なんとなく反映しているようにも思える。 山田正亮の評価が始まった頃の“みずえ”で、あの色彩に、オリジナリティを見いだしたかのような発言をしている批評家がいたような気がします。
そんななかで、中村功のような画家が登場してきたりもして、バブルの頃は花盛りの状態だったのではないだろうかと。 みづゑの歴史も長いですね。
中村功は素晴らしいですが、これまた形容しづらい色彩ですね。
同じ形容法でいけば恒星表面、ガス星雲といったところでしょうか。 セザンヌとモネの色が形容しづらい理由は、
光が空と地の色にすぐさま集約されない、多重露光性にあった。 中村功の名前を、あげましたが、
あの辺りの画家は非対象絵画でありながら、色彩の扱い方、塗り方や並べ方や重ね方を色々と工夫しているうちに、
植物やら鉱物やらを想起させるような何かが出てくる感じが興味深かったです。 なるほどですね。
非対象絵画といえども色を扱う限り具象へのフォーカスが生じる。
色は像、つまり対象だから。 ttps://instagram.com/sugiyamadaisuke_
絵描きごっこ、凡庸の極み フリードも、グリーンバーグとは少し違うけどやっぱり頑固だね。
千葉雅也のジャズに関するツイートに、
「ドミナントモーション、ツーファイブによるその遅延とかって万有引力みたいな話で、
その一元論を相対化してポリモーダルな宇宙に解放されていく過程が実はビパップの複雑化に内在しており、
で、それはファルス中心的ラカンからの離脱で・・」というものがあるが、
この一元論がそのまんまフリードにも当てはまるように思える。
この場合、フリードは原理主義、リテラリズムは相対主義となるのだが、
一方通行のフリードの方向性は、言ってみれば「絶対的→無時間的→静的→平面的→ステイニング
→イリュージョニズム→プロジェクション・マッピング」という具合にしか着地し得ないものであり、
その意味では、彼は絵画はかくあるべきと言ってはいても、結局は非絵画的なものを指向しているに過ぎないともいえる。 批評の対象を参照せずに文章だけ読んでると、グリーバークと同様に、ちんけなものち至るということはあるかもしれませんね。 例えは、様式を作品に外在化させてしまうというというの単純なミスリードではないのかな。
現象学をよんで、
筆触並べをはじめてみたりとかするケース同様。 モダニズム(mode)とはそういうことだから。
フリードは写真批評をしても当然、個別の写真や被写体の意味についてあまり考えることをしない。 「どんなにひとりの作家が思い込んでいい作品を撮ったからといっても、
それはどうあれ、見る人によって解体されていくわけでしょう。写真は。」森山大道
フリードの逆を考えずとも、普通はこうなる。カロの作品についても同じことがいえる。 そもそも作品と様式に主従関係を見出すこと自体がファルス中心的である。 そもそもイリュージョニズムというのは絵画だけの言葉ではない。
むしろ写真や映像、CGにこそ相応しい言葉であり、
普通に立体にも拡張できる概念である。
つまり絵画の実質は、図像というより素材である。 フリードは図像に興味があるから写真批評にいったのである。 つまり、もうプロジェクション・マッピングの目と鼻の先まできているのだが、
彼は動かないものがお好みなので、写真の段階で文字通り止まっているわけである。
まあもう81だし。 フリードは古画にいったあと写真だった。
図に関心があったのだろうね。 イリュージョンを廃止した絵画というものもいっとき流行ったがすぐに厭きられた。 まあギャラリーからも、肌感覚として、誰が有名か、誰が今数字が出ているかだけを美術人は気にしている、という
いわばYoutube的世界を感じますね。「鑑賞」「作品」ということは、形だけのものになりつつある。
「批評」は言うまでもないことですが。その他は、まあギャラリストと学芸員の狭い情報交換だけで成り立っている世界、
ということを感じますね。 今日、書店にいったら、“没入と演劇性”は売れてしまったみたいで、なくなっていた。
どんな人が購入したのかな、
絵を描く人?それとも、美術史の勉強をしている人? コンテンポラリーな美術館は劇場となんらかわらない虚ろな箱になるのが理にかなってるとは思う。 フリードは最終的にオノヨーコの脳内絵画みたいなものに行き着くと思ってた
カロの話も視覚というより脳内現象みたいに読めたんだけど >>637>>638
何を作品の成立と見るかは鑑賞次第なので、仮に新しく作品が制作されなくなった後も、
鑑賞する側が勝手にあれこれを作品と呼んでいくでしょう。
鑑賞という行為は限りなく制作に近く、また制作という行為は限りなく鑑賞に近い。
その場合、人為的に虚ろな箱を提案するコンテンポラリーな美術館の側と
実物のさまざまな廃墟の虚ろさや崩壊の中のクオリティを再発見する側とが
SNS的に併存する状況になっていくでしょうね。もうなってるけど。
フリードも劇場型ということを渋々認めてますが、そりゃ当然のことでしょうね。
カロの作品をフリードがどう見るかは相対的なものだとしか言いようがない。
>>639
オノヨーコのコンセプチュアルな作品も、ミニマルと方向が違うとはいえ、
見る人間が介入することで成立する点ではフリードの嫌う劇場型だといえる。言いたいことは何となくわかるけど。
というかフリード自身、矛盾だらけなのが悪い。その無茶さ加減は浅田も昔からよく批判している。 現実は言語で言い表せないとよくいわれるが、言語は現実である。
現実の前景に言語がレイヤー化しているのではない。
認知と想起と言語化はすべて癒着して切り離せない一つの現実である。
そういえばオノヨーコは幻覚型認知症だった。 https://www.youtube.com/watch?v=UyyjU8fzEYU
↑
左脳が一時的に停止した脳科学者の話
修行をすれば左脳の働きを弱められるのかもしれない
それを悟りと言うのかも?
右脳左脳正常に働いてる状態を現実というのならそうかもしれない >>643
面白かったです。右脳が全的溶融への、左脳が局在的分離への働きを持っている。
これは、東洋では主体を身体や外部と連続したものとして意識させる(瞑想・鍼灸など)のに対し、
西洋の精神分析では主体の構造を主に言語で離散的に整理する、ということに対応しているように見える。
あと、「現実」は変性意識を含むすべての意識状態を指す言葉で、
重要なのは現実なるものが、万人にとって右脳や左脳が壊れた世界へとシームレスに繋がっているものだということ。
この脳科学者の体験談は左脳が働かなくなった状態の話だが、死ぬときは右脳も停止するのでその先の話は分からない。
認知症患者や精神病患者だとまたいくらか違うヴァリエーションがあるのだろう。 つまり歴史記述とは左脳の働きによるもので、左脳が壊れた人間はもはや自分の人生を、
幼児期から死に向かって直線的に進行するものとは感じないかもしれない。
「かつて仏陀だった」とか「デュオニソスだった」とか言った晩年のニーチェについては、
脳のどの部位がダメだったのかは知らないが。 平林薫氏がそこら辺をテーマにして制作をしていたと思った。 平林薫さんのはいいですね。すこしクエバ・デ・ラス・マノスを連想しました。
そういえば平安時代、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用されたりしましたね。
言語を利用して人の心理に介入する呪術みたいなことはある程度可能で、その毒を薄めると営業トークになる。
新しい宗教の設計もでき、言葉は使いようで危険な(現実を読み替える)力を持つ。 精神分析療法で言葉の応酬で病気が治せると思われた時代もあった。 文脈を考えると精神分析は言葉を過大評価していた例になるのかな、
しかし、上に上がっている他の例ももしかしたら、そうなのかもしれない。
しかしコロナ禍下で精神分析は可能なのか、
いや、イメージを使った心理療法も同様か。 西田幾太郎的な
みんなつながる〜的な
もののけ姫的な ポロックとかロスコとかモーリスルイスとか見るとそう感じる
ロゴスを排除してる感じというかなんというか >>655
そうそう、
ある意味、だからチャンスだったんだよ。 前橋問題で馬脚を露わした評論家連盟の仲良しグループパシリの板会か・・。 >>54
いまさらだが、多景楼は贋作だ
書を齧ったやつなら知っている
「極」は崩し方も違う
日本の出版社から米芾作品集にこれが収録されない理由、それは一目瞭然だからだ >>663
いや評価は確定してるでしょ。虹県詩巻より若い頃に書いただけ。
>書を齧ったやつなら知っている
齧った程度のやつなんてゴマンと居るが、こんなこと迂闊に断言してる奴は別に多くはない。
そもそも虹県詩巻を米芾の標準的なスタイルだと見做すことが間違っている。
大陸の気風は禅味と云っても日本的幽玄とは違い、西方の影響が出ている部分もあるので。 抽象だけではね。
結局、何か+αが要る。文化的な奥行が。
現象としては、抽象絵画の衰退と左翼思想の死は軌を一にしている。 >>667
左翼思想が既に死んでいるということでしょうか? >>667
80年ほど前は、抽象画の制作理論の一部として左翼思想が援用されましたが、
当時の思想の形態はとっくに崩れ、それに歩調を合わせた抽象表現も一度終わっている、ということです。
左翼思想は現代でも、リベラルなのか統制思想なのか分からない自己矛盾の塊のようなものが存続しているのを
SNS上でもよく目にはするけど、それはもう抽象画等の表現と結びついてはいないですね。
そういう記憶に寄りかかって制作しているのは年寄りのみです。 >>670
丁寧にご教示くださりありがとうございます。良く理解できました。 絵を取り巻く言葉だけを読んでると、10年20年で、全く別の分野になってしまったかのような感想を持つのだけど、工芸品としての作品は似通っているのだよな。 ジャスパー・ジョーンズっていろいろな作品をつくってましたよね。
モチーフもして、旗とか標的とか、数字とか、平たいものを選んで描いて(イメージに変換するというのでしょうか)ましたよね。
観ていて引き込まれますね。 >>678
あの絶妙に、絵画への物質的な関心と観念的なテーマへの関心が曖昧になってる感じがいい、、 旗を見て旗の絵を描いてるんじゃないんだよ
描いてる旗の絵を見てから旗をみてるんだよ
見るということを教える絵を僕は描いてるんだよ 絵ってミメーシスが大事なのか、
あほうのような屁理屈をつけてでも像を描いたもの勝ちなのか >>681
絵画自体が星条旗として直接機能するから、単なる模倣じゃない ポップアートの頃、
みんなが頭をうちつけてた壁として奥行きの有無があったよね。 90年代頃はニューマンみたいな絵を描く人いたな。
でかいアトリエと倉庫があれば描きたかった。 どばた→ムサビ
どばた→愛芸
こういう経歴だと、
単色でもトーンに幅がある感じで
質のあるニューマンみたいなの描けてたよな ニューマンの実作って発明/発見の類いにありがちな無茶苦茶さがあったので後続者にはちょっとだけやることがあった。
いまはそこも埋まった感じだ。 モチーフの選択とか分かりやすさがポップアートみたいだ。 国内の美術館に Wayne Thiebaud 作品あるかな? 国内の美術館に Wayne Thiebaud 作品あるかな? タトリンといえば第三インターナショナル記念塔プロジェクト パレスチナでのジェノサイド以来、ポップアートのくだらなさにウンザリ。