抽象絵画を鑑賞するスレ
解釈、感じ方が人によって大きく異る抽象絵画
感想を勝手に書き込んでってください >>637>>638
何を作品の成立と見るかは鑑賞次第なので、仮に新しく作品が制作されなくなった後も、
鑑賞する側が勝手にあれこれを作品と呼んでいくでしょう。
鑑賞という行為は限りなく制作に近く、また制作という行為は限りなく鑑賞に近い。
その場合、人為的に虚ろな箱を提案するコンテンポラリーな美術館の側と
実物のさまざまな廃墟の虚ろさや崩壊の中のクオリティを再発見する側とが
SNS的に併存する状況になっていくでしょうね。もうなってるけど。
フリードも劇場型ということを渋々認めてますが、そりゃ当然のことでしょうね。
カロの作品をフリードがどう見るかは相対的なものだとしか言いようがない。
>>639
オノヨーコのコンセプチュアルな作品も、ミニマルと方向が違うとはいえ、
見る人間が介入することで成立する点ではフリードの嫌う劇場型だといえる。言いたいことは何となくわかるけど。
というかフリード自身、矛盾だらけなのが悪い。その無茶さ加減は浅田も昔からよく批判している。 現実は言語で言い表せないとよくいわれるが、言語は現実である。
現実の前景に言語がレイヤー化しているのではない。
認知と想起と言語化はすべて癒着して切り離せない一つの現実である。
そういえばオノヨーコは幻覚型認知症だった。 https://www.youtube.com/watch?v=UyyjU8fzEYU
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左脳が一時的に停止した脳科学者の話
修行をすれば左脳の働きを弱められるのかもしれない
それを悟りと言うのかも?
右脳左脳正常に働いてる状態を現実というのならそうかもしれない >>643
面白かったです。右脳が全的溶融への、左脳が局在的分離への働きを持っている。
これは、東洋では主体を身体や外部と連続したものとして意識させる(瞑想・鍼灸など)のに対し、
西洋の精神分析では主体の構造を主に言語で離散的に整理する、ということに対応しているように見える。
あと、「現実」は変性意識を含むすべての意識状態を指す言葉で、
重要なのは現実なるものが、万人にとって右脳や左脳が壊れた世界へとシームレスに繋がっているものだということ。
この脳科学者の体験談は左脳が働かなくなった状態の話だが、死ぬときは右脳も停止するのでその先の話は分からない。
認知症患者や精神病患者だとまたいくらか違うヴァリエーションがあるのだろう。 つまり歴史記述とは左脳の働きによるもので、左脳が壊れた人間はもはや自分の人生を、
幼児期から死に向かって直線的に進行するものとは感じないかもしれない。
「かつて仏陀だった」とか「デュオニソスだった」とか言った晩年のニーチェについては、
脳のどの部位がダメだったのかは知らないが。 平林薫氏がそこら辺をテーマにして制作をしていたと思った。 平林薫さんのはいいですね。すこしクエバ・デ・ラス・マノスを連想しました。
そういえば平安時代、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用されたりしましたね。
言語を利用して人の心理に介入する呪術みたいなことはある程度可能で、その毒を薄めると営業トークになる。
新しい宗教の設計もでき、言葉は使いようで危険な(現実を読み替える)力を持つ。 精神分析療法で言葉の応酬で病気が治せると思われた時代もあった。 文脈を考えると精神分析は言葉を過大評価していた例になるのかな、
しかし、上に上がっている他の例ももしかしたら、そうなのかもしれない。
しかしコロナ禍下で精神分析は可能なのか、
いや、イメージを使った心理療法も同様か。 西田幾太郎的な
みんなつながる〜的な
もののけ姫的な ポロックとかロスコとかモーリスルイスとか見るとそう感じる
ロゴスを排除してる感じというかなんというか >>655
そうそう、
ある意味、だからチャンスだったんだよ。 前橋問題で馬脚を露わした評論家連盟の仲良しグループパシリの板会か・・。 >>54
いまさらだが、多景楼は贋作だ
書を齧ったやつなら知っている
「極」は崩し方も違う
日本の出版社から米芾作品集にこれが収録されない理由、それは一目瞭然だからだ >>663
いや評価は確定してるでしょ。虹県詩巻より若い頃に書いただけ。
>書を齧ったやつなら知っている
齧った程度のやつなんてゴマンと居るが、こんなこと迂闊に断言してる奴は別に多くはない。
そもそも虹県詩巻を米芾の標準的なスタイルだと見做すことが間違っている。
大陸の気風は禅味と云っても日本的幽玄とは違い、西方の影響が出ている部分もあるので。 抽象だけではね。
結局、何か+αが要る。文化的な奥行が。
現象としては、抽象絵画の衰退と左翼思想の死は軌を一にしている。 >>667
左翼思想が既に死んでいるということでしょうか? >>667
80年ほど前は、抽象画の制作理論の一部として左翼思想が援用されましたが、
当時の思想の形態はとっくに崩れ、それに歩調を合わせた抽象表現も一度終わっている、ということです。
左翼思想は現代でも、リベラルなのか統制思想なのか分からない自己矛盾の塊のようなものが存続しているのを
SNS上でもよく目にはするけど、それはもう抽象画等の表現と結びついてはいないですね。
そういう記憶に寄りかかって制作しているのは年寄りのみです。 >>670
丁寧にご教示くださりありがとうございます。良く理解できました。 絵を取り巻く言葉だけを読んでると、10年20年で、全く別の分野になってしまったかのような感想を持つのだけど、工芸品としての作品は似通っているのだよな。 ジャスパー・ジョーンズっていろいろな作品をつくってましたよね。
モチーフもして、旗とか標的とか、数字とか、平たいものを選んで描いて(イメージに変換するというのでしょうか)ましたよね。
観ていて引き込まれますね。 >>678
あの絶妙に、絵画への物質的な関心と観念的なテーマへの関心が曖昧になってる感じがいい、、 旗を見て旗の絵を描いてるんじゃないんだよ
描いてる旗の絵を見てから旗をみてるんだよ
見るということを教える絵を僕は描いてるんだよ 絵ってミメーシスが大事なのか、
あほうのような屁理屈をつけてでも像を描いたもの勝ちなのか >>681
絵画自体が星条旗として直接機能するから、単なる模倣じゃない ポップアートの頃、
みんなが頭をうちつけてた壁として奥行きの有無があったよね。 90年代頃はニューマンみたいな絵を描く人いたな。
でかいアトリエと倉庫があれば描きたかった。 どばた→ムサビ
どばた→愛芸
こういう経歴だと、
単色でもトーンに幅がある感じで
質のあるニューマンみたいなの描けてたよな ニューマンの実作って発明/発見の類いにありがちな無茶苦茶さがあったので後続者にはちょっとだけやることがあった。
いまはそこも埋まった感じだ。 モチーフの選択とか分かりやすさがポップアートみたいだ。 国内の美術館に Wayne Thiebaud 作品あるかな? 国内の美術館に Wayne Thiebaud 作品あるかな? タトリンといえば第三インターナショナル記念塔プロジェクト