草間氏や村上氏と彦坂尚嘉っていう人は誰がうまいか [無断転載禁止]©2ch.net
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明度をコンピュータで厳密に調整しないとできないのです。 図形もコンピュータ上でやる必要があって、ベジェ曲線を使わざるを得ないのです。 教えて貰っていました。所がなかなかおぼえないのですね。 技術的には、Photoshopのベジェ曲線を使っているのです。 《想像界》だけの作品であるにもかかわらず、《原-芸術》《芸術》《反-芸術》《非-芸術》《無-芸術》の成立するのです。 従来の芸術というのの成立は、最低でも《想像界》《象徴界》の2界が必要でした。 《象徴界》を欠いた人の人数が増えてきて、《象徴界》を嫌って、見なくなっています。 悪口として受け取られそうな文章になってしまいましたが、悪口では無くて、新しい時代の、新しい批評が持っています。 この時代の中で制作される美術は、芸術としての無限の自由が許されているのです。 規範を喪失して、無限の自由の制作にいたった人類の創造性と向き合うという批評は、多様です。 詩でもなく、無知無能のカオスの中を摸索していく旅となったのです。 2050年に来るという人類の人口の減少へと、至るのであります。 人類の滅亡を前提にした芸術の摸索の時代であります。人類の未来は、もはや無いのです。 現在の時代は、私が言うところの《無-文明》であって、《無-文明》というのは、今までの伝統は忘れられています。 全てが自由のカオスに飲み込まれて、詩人もまた、死んでしまったのです。 芸術創造論は適合していて、もはや芸術論は学問ではないのです。 学問として芸術論を展開したのは、アーティストであった。 近代になると、アーティストではない、素人による議論に移ったのであった。 画論の歴史を遡ると、絶対に芸術を理解しているとはいわないというような事は、昔の人は言わなかった。 もっともひかれるのは、宋(南宋)の画家宋炳(そうへい 、375 - 443年))の『画山水序』
である。 怖い方であったが、一つの態度を鮮明に示されていた。 多くの評論家を学生として、そしてアーティストとして見て来た。 評論家は、「芸術を理解できない」とは言わないで、《理解をしているフリ》をしてきたのです。 さまざまな芸術の研究と批評、企画などをおこなっている。 米中冷戦の開始という、文明の展開の時期であります。 《非-文明》は終わって、《無-文明》に転換したというのです。 インストラクション、プラクティス、情報、パフォーマンス、インスタレーションです。 70年代以降のグローバルなコンセプチュアリズムを牽引する事象です。 芸術分析は、
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》《ディープミステリ》《ノーネイム》《越境》《未知》《その先》《死》があります。 《原-芸術》《芸術》《反-芸術》《非-芸術》《無-芸術》《無-文明》《無-芸術》もあります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています