草間氏や村上氏と彦坂尚嘉っていう人は誰がうまいか [無断転載禁止]©2ch.net
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おめーらくっせーから書き込む気になんねーわ笑笑くだらねーやり取り続けてろ笑笑 ところでだ。「チンボがシコシコする」という日本語表現は、文法的に正しいのか?
チンボ「を」シコシコするのではなくて、チンボ「が」シコシコする。この場合、「チンボ」は主語となる。
オブジェクト指向で言う「集約」は2種類あって、全体(俺)と部分(チンボ)が繋がっている場合と、
全体(俺)と部分(チンボ)が別々になっている場合とが考えられる。けれども「チンボ」はそれ自体
が独立した生き物であり、所有者の意思とは無関係に、勃起して「シコシコする」。
例えば寝てる時にエロい夢みて朝起きてみたらチンコが勃起して射精してたとか。
違うか?
「頭がズキズキする」は良いが、「チンボがシコシコする」はダメな理由を、50字以内で述べろ! 中国で草間の偽物ばかりの展覧会が開催されているという。
逆に見てみたいな。
本物とはどう違うのか、どんな体感が得られるのか試してみたい。 928 デフォルトの名無しさん 2018/11/21(水) 18:59:11.61 ID:8Yc2p7H1
>>922
>ナンチャッテメッセージングスタイルになったのは
チンポ.オシッコを出す
チンポ.オシッコを止める
さっきトイレでやってきた。
929 デフォルトの名無しさん 2018/11/21(水) 19:07:17.83 ID:8Yc2p7H1
>>915
>単なる動的なメソッド呼び出しをメッセージと称し、ただしコールするメソッドが見つからない場合だけメッセージを
>ハンドリングできる省コストなナンチャッテメッセージングスタイルに落ち着いた。
×
俺.オシッコを止める 俺.オシッコを出す
○
俺.チンポに力を入れる 俺.チンポから力を抜く 彦坂って人は、新興宗教の人かなんかだと思ってた。
村上隆や草間と並ぶような芸術家だったの? 村上氏も会田氏も伝統技法しっかりと画に入れ込んでいるから適当前衛では無いと思う
草間大魔神は単体で水玉カボチャ見ても感動しなかった 空間全体を見た時に水玉カボチャが一気に空間の概念を変えた 水玉水玉騒ぐより 草間大魔神は空間と大きさの複合した作品の方をもっと見たい >>23
世の中には2種類の人間がいる
草間彌生のカボチャをひと目見て、白人のやわらかチンポが集まってできていると気づく人間と気づかない人間 漫画版は『週刊少年マガジン』私は全部読んでいました。 リトル・リチャードの音楽は、《芸術》になっているのです。 他人はそうは思ってくれないでしょうが、私としては、作品であります。 難しくて、考えないと、意見を言えないしろものであります。 密接にからみあっていて、そのあり方は、深いと思いました。 左右が激突していて、ここには、中道芸術がないのです。 ジェフ・クーンズも本人が製作してるわけじゃないし、それこそルーベンスだって工房作って人任せに制作してたしね。 ルーベンスは、作画指示のためか、小ぶりの油絵を自分で描いていて、それが妙に人気がある罠。 アド街ック天国で田中康夫が高校時代、同級生の草間くんが
「ウチの親戚のオバサンで絵を描いてるスゲーやべ〜人がいる」
と言ってて、それが草間彌生だったと話していたな そういえは、彦坂は奥さんがアメリカンだった。
アメリカ展開をしないのかな。 実はかなりの数の演奏をやってきています。音楽の作品は、実はかなりの数の演奏をやってきています。 基本的なスタンスは音楽と美術の区別はないという立場です。 伝統的な名曲的な演奏も成立しますが、同時に、緊密な構造性を欠いた音楽も成立します。 重視しているのは、《原-音楽》ということと、様態が《超高温プラズマ》ということです。 美術や芸術をやると言うのは、一般的には、《青春の芸術》と日本では言われていて、歳をとると、止めるのです。 依然として制作意欲と、執筆意欲があります。青春の芸術では無くて、《生涯の芸術》なのです。 一生懸命やって行かないと、どうしようもないのです。どうしようもないのですね。 現在は、私は《無-文明》になっていると、考えています。 近代を批判し、近代の外に出ようとすれば、展覧会を止めて、その外に出る必要があると考えます。 最初の個展をやったのはクールベで、1885年の第2回万国博覧会で、その会場のそばに小屋を建てて、個展を開催しています。 基本的には、美術展というものは、近代という時代の中で生まれました。 近代以前の古典文明では、例外はありますが、展覧会はありませんでした。 明度をコンピュータで厳密に調整しないとできないのです。 図形もコンピュータ上でやる必要があって、ベジェ曲線を使わざるを得ないのです。 教えて貰っていました。所がなかなかおぼえないのですね。 技術的には、Photoshopのベジェ曲線を使っているのです。 《想像界》だけの作品であるにもかかわらず、《原-芸術》《芸術》《反-芸術》《非-芸術》《無-芸術》の成立するのです。 従来の芸術というのの成立は、最低でも《想像界》《象徴界》の2界が必要でした。 《象徴界》を欠いた人の人数が増えてきて、《象徴界》を嫌って、見なくなっています。 悪口として受け取られそうな文章になってしまいましたが、悪口では無くて、新しい時代の、新しい批評が持っています。 この時代の中で制作される美術は、芸術としての無限の自由が許されているのです。 規範を喪失して、無限の自由の制作にいたった人類の創造性と向き合うという批評は、多様です。 詩でもなく、無知無能のカオスの中を摸索していく旅となったのです。 2050年に来るという人類の人口の減少へと、至るのであります。 人類の滅亡を前提にした芸術の摸索の時代であります。人類の未来は、もはや無いのです。 現在の時代は、私が言うところの《無-文明》であって、《無-文明》というのは、今までの伝統は忘れられています。 全てが自由のカオスに飲み込まれて、詩人もまた、死んでしまったのです。 芸術創造論は適合していて、もはや芸術論は学問ではないのです。 学問として芸術論を展開したのは、アーティストであった。 近代になると、アーティストではない、素人による議論に移ったのであった。 画論の歴史を遡ると、絶対に芸術を理解しているとはいわないというような事は、昔の人は言わなかった。 もっともひかれるのは、宋(南宋)の画家宋炳(そうへい 、375 - 443年))の『画山水序』
である。 怖い方であったが、一つの態度を鮮明に示されていた。 多くの評論家を学生として、そしてアーティストとして見て来た。 評論家は、「芸術を理解できない」とは言わないで、《理解をしているフリ》をしてきたのです。 さまざまな芸術の研究と批評、企画などをおこなっている。 米中冷戦の開始という、文明の展開の時期であります。 《非-文明》は終わって、《無-文明》に転換したというのです。 インストラクション、プラクティス、情報、パフォーマンス、インスタレーションです。 70年代以降のグローバルなコンセプチュアリズムを牽引する事象です。 芸術分析は、
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》《ディープミステリ》《ノーネイム》《越境》《未知》《その先》《死》があります。 《原-芸術》《芸術》《反-芸術》《非-芸術》《無-芸術》《無-文明》《無-芸術》もあります。 日本人の大人は子供の世界に逃げ込んでいるだけなのです。 こんどは漫画は芸術ではないと言った。
でもさ。。。例えばワンピースと爺さん。。。どっちがいいか。渋谷で聞いても新橋や巣鴨で聞いても結果は分かるよな。藝大で聞いても多摩美武蔵美京都芸で聞いても結果はワンピースだろうな。 工芸は、芸術ではありません。欧米では、アルチザン(職人)と、アーティスト(芸術家)の区別は厳しくありますと言いながら、セーヴル展の感想では正反対な事を言うお爺さん。 西部邁、秋山祐徳太子の両氏を画廊へ呼んで対談をしてもテレビには出してもらえなかった。 これが本当ならば平和がやって来る
「もう、作品だけつくって生きたいと思います。余計なことは考えないで、盲目的に作っていく。たとえば1日に5時間制作すると決めて、盲目的にこのノルマをこなすことだけを考える。」 「好きは力」とは言いますが、何が好きだかですよね?
だいたい自分だけ好きな爺さんですよね。
自分よりも「美術が好きだ」という人がいないですね。
「自分だけが好きである人」は、結局つまらないです。 「見られる光(時空の中)」の視点で
作られたものがデザイン・工芸で、
「見る光(純粋持続)」の視点から
作られたものが芸術だと私は思います。
メイプルソープやフェルメールが、
写真と絵画の領域を交差する領域で
作られた作品であるように、
常識的には工芸だが芸術になっている
というものもあり得ると思いますよ。 偽物ばかりの展覧会が開催されているという。
逆に見てみたいな。
本物とはどう違うのか、どんな体感が得られるのか試してみたい。 ハンドリングできる省コストなナンチャッテメッセージングスタイルに落ち着いた。 爺さんは新興宗教の人かなんかだと思ってた。
村上隆や草間と並ぶような芸術家だったの? 村上氏も会田氏も伝統技法しっかりと画に入れ込んでいるから適当前衛では無いと思う
草間大魔神は単体で水玉カボチャ見て感動した 空間全体を見た時に水玉カボチャが一気に空間の概念を変えた 水玉水玉騒ぐより 草間大魔神は空間と大きさの複合した作品の方をもっと見たい 草間彌生のカボチャを見て
世の中には2種類の人間がいる 漫画版は『週刊少年マガジン』私は全部読んでいました。 リトル・リチャードの音楽は、《芸術》になっているのです。 他人はそうは思ってくれないでしょうが、私としては、作品であります。 難しくて、考えないと、意見を言えないしろものであります。 密接にからみあっていて、そのあり方は、深いと思いました。 左右が激突していて、ここには、中道芸術がないのです。 映画『草間彌生∞INFINITY』を見ました。脱帽しました、 ジェフ・クーンズも本人が製作してるわけじゃないし、それこそルーベンスだって工房作って人任せに制作していました。 ルーベンスは、作画指示のためか、小ぶりの油絵を自分で描いていて、それが妙に人気がある罠。 アド街ック天国で田中康夫が高校時代、同級生の草間くんが
「ウチの親戚で絵を描いてる人がいる」
と言ってて、それが草間彌生だったと話していたな 奥さんがアメリカンだった。
アメリカ展開をしないのかな。 音楽の作品は、実はかなりの数の演奏をやってきています。 基本的なスタンスは音楽と美術の区別はないという立場です。 伝統的な名曲的な演奏も成立しますが、同時に、緊密な構造性を欠いた音楽も成立します。 重視しているのは、《原-音楽》ということと、様態が《超高温プラズマ》ということです。 美術や芸術をやると言うのは、一般的には、《青春の芸術》と日本では言われていて、歳をとると、止めるのです。 依然として制作意欲と、執筆意欲があります。青春の芸術では無くて、《生涯の芸術》なのです。 現在は、私は《無-文明》になっていると、考えています。 近代を批判し、近代の外に出ようとすれば、展覧会を止めて、その外に出る必要があると考えます。 最初の個展をやったのはクールベで、1885年の第2回万国博覧会で、その会場のそばに小屋を建てて、個展を開催しています。 基本的には、美術展というものは、近代という時代の中で生まれました。 近代以前の古典文明では、例外はありますが、展覧会はありませんでした。 明度をコンピュータで厳密に調整しないとできないのです。 図形もコンピュータ上でやる必要があって、ベジェ曲線を使わざるを得ないのです。 教えて貰っていました。なかなかおぼえないのですね。 技術的には、Photoshopのベジェ曲線を使っているのです。 《想像界》だけの作品であるにもかかわらず、《原-芸術》《芸術》《反-芸術》《非-芸術》《無-芸術》の成立するのです。 従来の芸術というのの成立は、最低でも《想像界》《象徴界》の2界が必要でした。 《象徴界》を欠いた人の人数が増えてきて、《象徴界》を嫌って、見なくなっています。 悪口として受け取られそうな文章になってしまいましたが、悪口では無くて、新しい時代の、新しい批評なのです。 この時代の中で制作される美術は、芸術としての無限の自由が許されているのです。 規範を喪失して、無限の自由の制作にいたった人類の創造性と向き合うという批評は、多様です。 詩でもなく、無知無能のカオスの中を摸索していく旅となったのです。 2050年に来るという人類の人口の減少へと、至るのであります。 古い歌への追憶に凝り固まることを機械的に否定する気はないが、しかしそれは限界があるのではないか?適応の拒否を意味する危険がある。生物界では、環境の変化に適応できなければ死ぬ。そして環境は常に変化し続けるのである。 美術記者の中では違うタイプの人で権力志向がある。つまり同調性に基盤を置く〈ローの人〉ではなくて、自己権力を確立しようとする《ハイの人》である あまり報道はされていませんが、日本画の価格の崩壊と、マーケットの変容は、すごいものがあるようです。シフトが、本格的に現代アートに変わって来ている。 子供のためにローアートの人形も作っているがつまらない。このサンプルだけで結論を言うのは乱暴だが、私はローアートを作る必要はないと結論した。 ハイアートとローアートの関係は、実際に、原理として共存はできない。子供のためにローアートの人形も作っているが、つまらない。このサンプルだけで結論を言うのは乱暴だが、私は、ローアートを作る必要はないと、結論した。 作品はもちろんというかハイアートである。ハイアートであるが故に成立するというかゆるされる《6流》性でありそして完成度の低さである。気体美術である。それと〈想像界〉の美術である。ハリーポッターのようなファンタジーの作品であると言える。 スポーツ選手の顔に、人間の頂点の様な偉大さが表れていて、日本を代表するはずの芸術家の顔に、バラック性が出ている。芸術というのはバラックであるのだろうか?日本文化というのは、バラックなのだろうか?。 すごいというのは評価が高いわりには、語られていないからである。日本の近代美術史の中でも、正面から語られていないのである
(略)書く力が、美術史家や学芸員に無いのである。 ローアートは実用音楽である。分かりやすく言えば、娯楽音楽。ディスコで受けるのは、娯楽性故であろう。前衛がローアートで、娯楽になって受ける時代なのである。 前衛のハイアートと、前衛のローアートである。ローアートであるというのは、民衆音楽のようなもので、摸倣の連鎖の中で生まれる。 ローアートには鑑賞構造が無い。鑑賞構造は非実態性は生み出すのだが、ローアートは実体的である。そしてローアートは想像界の芸術であって、象徴界性が無い。同調性の世界というのは、実は想像界の世界なのである。 代表的な例は、黒人音楽で、たとえばラップの曲が、どれも良く似ているのは、こうした集団的同調性を基盤とした模倣の連鎖の中で、表現がなされるからである。つまりローアートには、決定的な独創性というのは、無いのである。 人類の滅亡を前提にした芸術の摸索の時代であります。人類の未来は、もはや無いのです。 現在の時代は、私が言うところの《無-文明》であって、《無-文明》というのは、今までの伝統は忘れられています。 全てが自由のカオスに飲み込まれて、詩人もまた、死んでしまったのです。 芸術創造論は適合していて、もはや芸術論は学問ではないのです。 学問として芸術論を展開したのは、アーティストであった。 近代になると、アーティストではない、素人による議論に移ったのであった。 画論の歴史を遡ると、絶対に芸術を理解しているとはいわないというような事は、昔の人は言わなかった。 もっともひかれるのは、宋(南宋)の画家宋炳(そうへい 、375 - 443年))の『画山水序』
である。 ローアートの領域は、民衆の領域で、これは同調性で動いている。蛍が一斉に光ったり、消えたりするのが同調性だが、こうした同調性が人間の社会でも作動している。 同調的な集団の中に生まれる表現が、ローアートである。だからローアートのアーティストは、表現主体としての自己権力を確立しない。同調に意味がある領域だから、自己権力はじゃまになるのであって、排除される。 神というのは、人間の精神的には〈象徴界〉の産物であって、〈象徴界〉の無い人は、実は神は認識できない。 神というのは言葉であり、しかも《全知全能》という言葉である。もちろん人間は《全知全能》ではないのだが、イチローは、バッターとして《全知全能》という概念と向き合っているように見える。 そういう外部世界との関係を作り出す視線として、作品が作られのであって、したがって、意識の水準こそが、〈格〉なのです。〈格〉が高いというのは、意識水準が高く、根底的に世界と歴史と向き合っていると言うことなのです。 怖い方であったが、一つの態度を鮮明に示されていた。 多くの評論家を学生として、そしてアーティストとして見て来た。 評論家は、「芸術を理解できない」とは言わないで、《理解をしているフリ》をしてきたのです。 さまざまな芸術の研究と批評、企画などをおこなっている。 自分を包む外部世界を、カタログの様に第3者的に見ているのか、それとも自分が対話し、真摯な関係を結ぶ対象であり、その先にある普遍性との対話を求めているのか・・・。 作品と、主観的に向き合えないで、第3者的に見るのです。しかし、こんな事を言われても分からないでしょうから、もっと具体的に言うと、
カタログを見るように見るのです。こういうカタログ的視点は、実は広く社会的に広がっています。 鑑賞をできない芸術下層民は、どういう視線で、作品を見ているのだろうか?先に挙げた《我ーそれ》という第3者的視点で、見ているのです。つまり作品と、主観的に向き合えないで、第3者的に見るのです。 実際、日本美術史の中で、鑑賞という行為が確立されてくるのは、禅宗における先生の肖像画(頂相)や、風景画を、禅の瞑想として鑑賞する中で生まれたのです。指摘したように、禅宗の芸術化が、日本の芸術鑑賞の成立に大きく寄与しているのです。 さまざまな芸術の研究と批評、企画などをおこなっている。 訓練で、〈象徴界〉の精神領域は開けるのですが、敗戦での、占領軍による神道の解体がひびいたのかどうか、〈象徴界〉の発達を訓練するプログラムを失ってしまったのが、日本の戦後社会です。 米中冷戦の開始という、文明の展開の時期であります。 米中冷戦の開始という、文明の展開の時期であります。 《非-文明》は終わって、《無-文明》に転換したというのです。 インストラクション、プラクティス、情報、パフォーマンス、インスタレーションです。 70年代以降のグローバルなコンセプチュアリズムを牽引する事象です。 現代美術や、現代アートの人々の中には、《祈り》という行為のできない人々が多くいるのです。一つには〈象徴界〉の人格形成を欠いた、精神的未訓練者が、日本人に多いのです。 アメリカ人は、驚くほどに美術館に行きます。これは一種の宗教行為であり、美術館が教会の代わりになっていると、私には思えます。《全知全能》という領域と出会うという精神活動には、良く知られているものに、《祈り》という行為があります。 作品論的には、作品が〈非-実体性〉をもっていること。そして〈象徴界〉の美術であることが必要です。つまり実体的な作品では鑑賞できないし、そして〈象徴界〉の美術でないと、神に出会うような鑑賞が成立できないのです。 芸術分析は、
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》《ディープミステリ》《ノーネイム》《越境》《未知》《その先》《死》があります。 《原-芸術》《芸術》《反-芸術》《非-芸術》《無-芸術》《無-文明》《無-芸術》もあります。 聖書にも「初めに言葉があった」とあるように、「神」というのは言葉なのです。《全知全能》という言葉が「神」です。美術作品を通して《全知全能》という領域と対話していくというのが、鑑賞の基本的な構造であると私は思います。 「神」というと、人格神をイメージしてしまうかもしれないですが、それは、違います。聖書にも「初めに言葉があった」とあるように、「神」というのは言葉なのです。《全知全能》という言葉が「神」です。 1950年代美術を、語るのは間違いです。岡本太郎の美術は、ハイアートではありません。ローアートなのです。《6流》の原始美術で、下品な色つき漫画に過ぎません。 日本人の大人は子供の世界に逃げ込んでいるだけなのです。 エジプト美術を見るときに、ピラミッドやスフインクスをイメージしないで、エジプトの彫刻や絵画を判断することはできません。ゴシック美術を見るときに、ゴシック建築を無視して、考えることはできません。 近代で、区切っては駄目なのです。近代・現代を根本で支えているものは、前・近代の古い文化構造なのです。私たちが使っている言葉にしても、近代以前に根本が生まれていることを、思い出してください。 近代の名品を鑑賞すると、感動しますし、ここに確かに芸術というものが存在するということを、確実に確信することができます。芸術とは、仮説ではないのです。この確信をまず、前・近代の芸術を通して体感することが重要です。 こんどは漫画は芸術ではないと言った。
でもさ。。。例えばワンピースと爺さん。。。どっちがいいか。渋谷で聞いても新橋や巣鴨で聞いても結果は分かるよな。藝大で聞いても多摩美武蔵美京都芸で聞いても結果はワンピースだろうな。 工芸は、芸術ではありません。欧米では、アルチザン(職人)と、アーティスト(芸術家)の区別は厳しくありますと言いながら、セーヴル展の感想では正反対な事を言うお爺さん。 これが本当ならば平和がやって来る
「もう、作品だけつくって生きたいと思います。余計なことは考えないで、盲目的に作っていく。たとえば1日に5時間制作すると決めて、盲目的にこのノルマをこなすことだけを考える。」 「好きは力」とは言いますが、何が好きだかですよね?
だいたい自分だけ好きな爺さんですよね。
自分よりも「美術が好きだ」という人がいないですね。
「自分だけが好きである人」は、結局つまらないです。 「見られる光(時空の中)」の視点で
作られたものがデザイン・工芸で、
「見る光(純粋持続)」の視点から
作られたものが芸術だと私は思います。
メイプルソープやフェルメールが、
写真と絵画の領域を交差する領域で
作られた作品であるように、
常識的には工芸だが芸術になっている
というものもあり得ると思いますよ。 偽物ばかりの展覧会が開催されているという。
逆に見てみたいな。
本物とはどう違うのか、どんな体感が得られるのか試してみたい。 ハンドリングできる省コストなナンチャッテメッセージングスタイルに落ち着いた。 爺さんは新興宗教の人かなんかだと思ってた。
村上隆や草間と並ぶような芸術家だったの? 村上氏も会田氏も伝統技法しっかりと画に入れ込んでいるから適当前衛では無いと思う
草間大魔神は単体で水玉カボチャ見て感動した 空間全体を見た時に水玉カボチャが一気に空間の概念を変えた 水玉水玉騒ぐより 草間大魔神は空間と大きさの複合した作品の方をもっと見たい。 草間彌生のカボチャを見て
世の中には2種類の人間がいる。 漫画版は『週刊少年マガジン』私は全部読んでいました。 リトル・リチャードの音楽は、《芸術》になっているのです。 他人はそうは思ってくれないでしょうが、私としては、作品であります。 難しくて、考えないと、意見を言えないしろものであります。 密接にからみあっていて、そのあり方は、深いと思いました。 左右が激突していて、ここには、中道芸術がないのです。 映画『草間彌生∞INFINITY』を見ました。
脱帽しました。 ジェフ・クーンズも本人が製作してるわけじゃないし、それこそルーベンスだって工房作って人任せに制作していました。 ルーベンスは、作画指示のためか、小ぶりの油絵を自分で描いていて、それが妙に人気がある罠。 アド街ック天国で田中康夫が高校時代、同級生の草間くんが
「ウチの親戚で絵を描いてる人がいる」
と言ってて、それが草間彌生だったと話していたな
。 奥さんがアメリカンだった。
アメリカ展開をしないのかな。 音楽の作品は、実はかなりの数の演奏をやってきています。 基本的なスタンスは音楽と美術の区別はないという立場です。 伝統的な名曲的な演奏も成立しますが、同時に、緊密な構造性を欠いた音楽も成立します。 重視しているのは、《原-音楽》ということと、様態が《超高温プラズマ》ということです。 重視しているのは、《原-音楽》ということと、様態が《超高温プラズマ》ということです。 美術や芸術をやると言うのは、一般的には、《青春の芸術》と日本では言われていて、歳をとると、止めるのです。 依然として制作意欲と、執筆意欲があります。青春の芸術では無くて、《生涯の芸術》なのです。 現在は、私は《無-文明》になっていると、考えています。 現在は、私は《無-文明》になっていると、考えています。 近代を批判し、近代の外に出ようとすれば、展覧会を止めて、その外に出る必要があると考えます。 最初の個展をやったのはクールベで、1885年の第2回万国博覧会で、その会場のそばに小屋を建てて、個展を開催しています。 近代芸術と、近代芸術以前の断絶を強調することは、私は間違っていると思います。美術史を分断して連続していないとする考え方をとると、便利は便利ですが、しかし眼の悪い、浅い教養の人を増やします。 基本的には、美術展というものは、近代という時代の中で生まれました。 近代以前の古典文明では、例外はありますが、展覧会はありませんでした。 明度をコンピュータで厳密に調整しないとできないのです。 図形もコンピュータ上でやる必要があって、ベジェ曲線を使わざるを得ないのです。 教えて貰っていました。なかなかおぼえないのですね。 技術的には、Photoshopのベジェ曲線を使っているのです。 《想像界》だけの作品であるにもかかわらず、《原-芸術》《芸術》《反-芸術》《非-芸術》《無-芸術》の成立するのです。 従来の芸術というのの成立は、最低でも《想像界》《象徴界》の2界が必要でした。 《象徴界》を欠いた人の人数が増えてきて、《象徴界》を嫌って、見なくなっています。 悪口として受け取られそうな文章になってしまいましたが、悪口では無くて、新しい時代の、新しい批評なのです。 この時代の中で制作される美術は、芸術としての無限の自由が許されているのです。 この時代の中で制作される美術は、芸術としての無限の自由が許されているのです。 レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を、暗記することは重要です。現状では、レオナルド・ダ・ヴィンチの工房の修業時代のデッサンを見せても、レオナルド・ダ・ヴィンチであると分かる美術関係者が少ないのです。 規範を喪失して、無限の自由の制作にいたった人類の創造性と向き合うという批評は、多様です。 詩でもなく、無知無能のカオスの中を摸索していく旅となったのです。 2050年に来るという人類の人口の減少へと、至るのであります。 古い歌への追憶に凝り固まることを機械的に否定する気はないが、しかしそれは限界があるのではないか?適応の拒否を意味する危険がある。生物界では、環境の変化に適応できなければ死ぬ。そして環境は常に変化し続けるのである。 美術記者の中では違うタイプの人で権力志向がある。つまり同調性に基盤を置く〈ローの人〉ではなくて、自己権力を確立しようとする《ハイの人》である あまり報道はされていませんが、日本画の価格の崩壊と、マーケットの変容は、すごいものがあるようです。シフトが、本格的に現代アートに変わって来ている。 子供のためにローアートの人形も作っているがつまらない。このサンプルだけで結論を言うのは乱暴だが、私はローアートを作る必要はないと結論した。 ハイアートとローアートの関係は、実際に、原理として共存はできない。子供のためにローアートの人形も作っているが、つまらない。このサンプルだけで結論を言うのは乱暴だが、私は、ローアートを作る必要はないと、結論した。 作品はもちろんというかハイアートである。ハイアートであるが故に成立するというかゆるされる《6流》性でありそして完成度の低さである。気体美術である。それと〈想像界〉の美術である。ハリーポッターのようなファンタジーの作品であると言える。 スポーツ選手の顔に、人間の頂点の様な偉大さが表れていて、日本を代表するはずの芸術家の顔に、バラック性が出ている。芸術というのはバラックであるのだろうか?日本文化というのは、バラックなのだろうか?。 すごいというのは評価が高いわりには、語られていないからである。日本の近代美術史の中でも、正面から語られていないのである
(略)書く力が、美術史家や学芸員に無いのである。 ローアートは実用音楽である。分かりやすく言えば、娯楽音楽。ディスコで受けるのは、娯楽性故であろう。前衛がローアートで、娯楽になって受ける時代なのである。 前衛のハイアートと、前衛のローアートである。ローアートであるというのは、民衆音楽のようなもので、摸倣の連鎖の中で生まれる。 前衛のハイアートと、前衛のローアートである。ローアートであるというのは、民衆音楽のようなもので、摸倣の連鎖の中で生まれる。 ローアートには鑑賞構造が無い。鑑賞構造は非実態性は生み出すのだが、ローアートは実体的である。そしてローアートは想像界の芸術であって、象徴界性が無い。同調性の世界というのは、実は想像界の世界なのである。 代表的な例は、黒人音楽で、たとえばラップの曲が、どれも良く似ているのは、こうした集団的同調性を基盤とした模倣の連鎖の中で、表現がなされるからである。つまりローアートには、決定的な独創性というのは、無いのである。 人類の滅亡を前提にした芸術の摸索の時代であります。人類の未来は、もはや無いのです。 現在の時代は、私が言うところの《無-文明》であって、《無-文明》というのは、今までの伝統は忘れられています。 全てが自由のカオスに飲み込まれて、詩人もまた、死んでしまったのです。 芸術創造論は適合していて、もはや芸術論は学問ではないのです。 学問として芸術論を展開したのは、アーティストであった。 近代になると、アーティストではない、素人による議論に移ったのであった。 画論の歴史を遡ると、絶対に芸術を理解しているとはいわないというような事は、昔の人は言わなかった。 もっともひかれるのは、宋(南宋)の画家宋炳(そうへい 、375 - 443年))の『画山水序』
である。 ローアートの領域は、民衆の領域で、これは同調性で動いている。蛍が一斉に光ったり、消えたりするのが同調性だが、こうした同調性が人間の社会でも作動している。 同調的な集団の中に生まれる表現が、ローアートである。だからローアートのアーティストは、表現主体としての自己権力を確立しない。同調に意味がある領域だから、自己権力はじゃまになるのであって、排除される。 神というのは、人間の精神的には〈象徴界〉の産物であって、〈象徴界〉の無い人は、実は神は認識できない。 神というのは言葉であり、しかも《全知全能》という言葉である。もちろん人間は《全知全能》ではないのだが、イチローは、バッターとして《全知全能》という概念と向き合っているように見える。 そういう外部世界との関係を作り出す視線として、作品が作られのであって、したがって、意識の水準こそが、〈格〉なのです。〈格〉が高いというのは、意識水準が高く、根底的に世界と歴史と向き合っていると言うことなのです。 怖い方であったが、一つの態度を鮮明に示されていた。 多くの評論家を学生として、そしてアーティストとして見て来た。 評論家は、「芸術を理解できない」とは言わないで、《理解をしているフリ》をしてきたのです。 さまざまな芸術の研究と批評、企画などをおこなっている。 自分を包む外部世界を、カタログの様に第3者的に見ているのか、それとも自分が対話し、真摯な関係を結ぶ対象であり、その先にある普遍性との対話を求めているのか・・・。 作品と、主観的に向き合えないで、第3者的に見るのです。しかし、こんな事を言われても分からないでしょうから、もっと具体的に言うと、
カタログを見るように見るのです。こういうカタログ的視点は、実は広く社会的に広がっています。 鑑賞をできない芸術下層民は、どういう視線で、作品を見ているのだろうか?先に挙げた《我ーそれ》という第3者的視点で、見ているのです。つまり作品と、主観的に向き合えないで、第3者的に見るのです。 実際、日本美術史の中で、鑑賞という行為が確立されてくるのは、禅宗における先生の肖像画(頂相)や、風景画を、禅の瞑想として鑑賞する中で生まれたのです。指摘したように、禅宗の芸術化が、日本の芸術鑑賞の成立に大きく寄与しているのです。 さまざまな芸術の研究と批評、企画などをおこなっている。 訓練で、〈象徴界〉の精神領域は開けるのですが、敗戦での、占領軍による神道の解体がひびいたのかどうか、〈象徴界〉の発達を訓練するプログラムを失ってしまったのが、日本の戦後社会です。 米中冷戦の開始という、文明の展開の時期であります。 《非-文明》は終わって、《無-文明》に転換したというのです。 インストラクション、プラクティス、情報、パフォーマンス、インスタレーションです。 70年代以降のグローバルなコンセプチュアリズムを牽引する事象です。 現代美術や、現代アートの人々の中には、《祈り》という行為のできない人々が多くいるのです。一つには〈象徴界〉の人格形成を欠いた、精神的未訓練者が、日本人に多いのです。 アメリカ人は、驚くほどに美術館に行きます。これは一種の宗教行為であり、美術館が教会の代わりになっていると、私には思えます。《全知全能》という領域と出会うという精神活動には、良く知られているものに、《祈り》という行為があります。 作品論的には、作品が〈非-実体性〉をもっていること。そして〈象徴界〉の美術であることが必要です。つまり実体的な作品では鑑賞できないし、そして〈象徴界〉の美術でないと、神に出会うような鑑賞が成立できないのです。 芸術分析は、
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》《ディープミステリ》《ノーネイム》《越境》《未知》《その先》《死》があります。 《原-芸術》《芸術》《反-芸術》《非-芸術》《無-芸術》《無-文明》《無-芸術》もあります。 聖書にも「初めに言葉があった」とあるように、「神」というのは言葉なのです。《全知全能》という言葉が「神」です。美術作品を通して《全知全能》という領域と対話していくというのが、鑑賞の基本的な構造であると私は思います。 「神」というと、人格神をイメージしてしまうかもしれないですが、それは、違います。聖書にも「初めに言葉があった」とあるように、「神」というのは言葉なのです。《全知全能》という言葉が「神」です。 1950年代美術を、語るのは間違いです。岡本太郎の美術は、ハイアートではありません。ローアートなのです。《6流》の原始美術で、下品な色つき漫画に過ぎません。 日本人の大人は子供の世界に逃げ込んでいるだけなのです。 エジプト美術を見るときに、ピラミッドやスフインクスをイメージしないで、エジプトの彫刻や絵画を判断することはできません。ゴシック美術を見るときに、ゴシック建築を無視して、考えることはできません。 近代で、区切っては駄目なのです。近代・現代を根本で支えているものは、前・近代の古い文化構造なのです。私たちが使っている言葉にしても、近代以前に根本が生まれていることを、思い出してください。 近代の名品を鑑賞すると、感動しますし、ここに確かに芸術というものが存在するということを、確実に確信することができます。芸術とは、仮説ではないのです。この確信をまず、前・近代の芸術を通して体感することが重要です。 こんどは漫画は芸術ではないと言った。
でもさ。。。例えばワンピースと爺さん。。。どっちがいいか。渋谷で聞いても新橋や巣鴨で聞いても結果は分かるよな。藝大で聞いても多摩美武蔵美京都芸で聞いても結果はワンピースだろうな。 工芸は、芸術ではありません。欧米では、アルチザン(職人)と、アーティスト(芸術家)の区別は厳しくありますと言いながら、セーヴル展の感想では正反対な事を言うお爺さん。 これが本当ならば平和がやって来る
「もう、作品だけつくって生きたいと思います。余計なことは考えないで、盲目的に作っていく。たとえば1日に5時間制作すると決めて、盲目的にこのノルマをこなすことだけを考える。」 「好きは力」とは言いますが、何が好きだかですよね?
だいたい自分だけ好きな爺さんですよね。
自分よりも「美術が好きだ」という人がいないですね。
「自分だけが好きである人」は、結局つまらないです。 「見られる光(時空の中)」の視点で
作られたものがデザイン・工芸で、
「見る光(純粋持続)」の視点から
作られたものが芸術だと私は思います。
メイプルソープやフェルメールが、
写真と絵画の領域を交差する領域で
作られた作品であるように、
常識的には工芸だが芸術になっている
というものもあり得ると思いますよ。 偽物ばかりの展覧会が開催されているという。
逆に見てみたいな。
本物とはどう違うのか、どんな体感が得られるのか試してみたい。 ハンドリングできる省コストなナンチャッテメッセージングスタイルに落ち着いた。 爺さんは新興宗教の人かなんかだと思ってた。
村上隆や草間と並ぶような芸術家だったの? 村上氏も会田氏も伝統技法しっかりと画に入れ込んでいるから適当前衛では無いと思う
草間大魔神は単体で水玉カボチャ見て感動した 空間全体を見た時に水玉カボチャが一気に空間の概念を変えた 水玉水玉騒ぐより 草間大魔神は空間と大きさの複合した作品の方をもっと見たい。 漫画版は『週刊少年マガジン』私は全部読んでいました。 リトル・リチャードの音楽は、《芸術》になっているのです。 他人はそうは思ってくれないでしょうが、私としては、作品であります。 難しくて、考えないと、意見を言えないしろものであります。 密接にからみあっていて、そのあり方は、深いと思いました。 左右が激突していて、ここには、中道芸術がないのです。 ジェフ・クーンズも本人が製作してるわけじゃないし、それこそルーベンスだって工房作って人任せに制作していました。 ルーベンスは、作画指示のためか、小ぶりの油絵を自分で描いていて、それが妙に人気がある罠。 アド街ック天国で田中康夫が高校時代、同級生の草間くんが
「ウチの親戚で絵を描いてる人がいる」
と言ってて、それが草間彌生だったと話していたな
。 音楽の作品は、実はかなりの数の演奏をやってきています。 基本的なスタンスは音楽と美術の区別はないという立場です。 伝統的な名曲的な演奏も成立しますが、同時に、緊密な構造性を欠いた音楽も成立します。 美術や芸術をやると言うのは、一般的には、《青春の芸術》と日本では言われています。 依然として制作意欲と、執筆意欲があります。青春の芸術では無くて、《生涯の芸術》なのです。 例えばワンピースと爺さん、どっちがいいか。渋谷で聞いても新橋や巣鴨で聞いても、藝大で聞いても多摩美、武蔵美、京都芸で聞いても、結果はワンピースだろうな。 工芸は、芸術ではありません。欧米では、アルチザン(職人)と、アーティスト(芸術家)の区別は厳しくありますと言いながら、セーヴル展の感想では正反対な事を言うお爺さん。 「もう、作品だけつくって生きたいと思います。余計なことは考えないで、盲目的に作っていく。 たとえば1日に5時間制作すると決めて、盲目的にこのノルマをこなすことだけを考える。 自分よりも「美術が好きだ」という人がいないですね。 「自分だけが好きである人」は、結局つまらないです。 「見られる光(時空の中)」の視点で 作られたものがデザイン・工芸で、 「見る光(純粋持続)」の視点から 作られたものが芸術だと私は思います。 メイプルソープやフェルメールが、 写真と絵画の領域を交差する領域で 作られた作品であるように、
常識的には工芸だが芸術になっている というものもあり得ると思います 偽物ばかりの展覧会が開催されているという。
逆に見てみたいな。 本物とはどう違うのか、どんな体感が得られるのか試してみたい。 ハンドリングできる省コストなナンチャッテメッセージングスタイルに落ち着いた。 村上氏も会田氏も伝統技法しっかりと画に入れ込んでいるから適当前衛では無いと思う。 草間は単体で水玉カボチャ見て感動した 空間全体を見た時に水玉カボチャが一気に空間の概念を変えた 水玉水玉騒ぐより 草間は空間と大きさの複合した作品の方をもっと見たい。 草間彌生のカボチャを見て 、世の中には2種類の人間がいる。 リトル・リチャードの音楽は、《芸術》になっているのです。 他人はそうは思ってくれないでしょうが、私としては、作品であります。 アーティストであることを、証明できなかったのです。 難しくて、考えないと、意見を言えないしろものであります。 密接にからみあっていて、そのあり方は、深いと思いました。 左右が激突していて、ここには、中道芸術がないのです。 映画『草間彌生∞INFINITY』を見ました。 脱帽しました。 ジェフ・クーンズも本人が製作してるわけじゃないし、それこそルーベンスだって工房作って人任せに制作していました。 ルーベンスは、作画指示のためか、小ぶりの油絵を自分で描いていて、それが妙に人気がある罠。 ルーベンスは、作画指示のためか、小ぶりの油絵を自分で描いていて、それが妙に人気があります。 アド街ック天国で田中康夫が高校時代、同級生の草間くんが
「ウチの親戚で絵を描いてる人がいる」
と言ってて、それが草間彌生だったと話していたな
。 音楽の作品は、実はかなりの数の演奏をやってきています。 基本的なスタンスは音楽と美術の区別はないという立場です。 伝統的な名曲的な演奏も成立しますが、同時に、緊密な構造性を欠いた音楽も成立します。 重視しているのは、《原-音楽》ということと、様態が《超高温プラズマ》ということです。 重視しているのは、《原-音楽》ということと、様態が《超高温プラズマ》ということです。 美術や芸術をやると言うのは、一般的には、《青春の芸術》と日本では言われていて、歳をとると、止めるのです。 依然として制作意欲と、執筆意欲があります。青春の芸術では無くて、《生涯の芸術》なのです。 現在は、私は《無-文明》になっていると、考えています。 現在は、私は《無-文明》になっていると、考えています。 近代を批判し、近代の外に出ようとすれば、展覧会を止めて、その外に出る必要があると考えます。 最初の個展をやったのはクールベで、1885年の第2回万国博覧会で、その会場のそばに小屋を建てて、個展を開催しています。 近代芸術と、近代芸術以前の断絶を強調することは、私は間違っていると思います。美術史を分断して連続していないとする考え方をとると、便利は便利ですが、しかし眼の悪い、浅い教養の人を増やします。 基本的には、美術展というものは、近代という時代の中で生まれました。 近代以前の古典文明では、例外はありますが、展覧会はありませんでした。 明度をコンピュータで厳密に調整しないとできないのです。 図形もコンピュータ上でやる必要があって、ベジェ曲線を使わざるを得ないのです。 教えて貰っていました。なかなかおぼえないのですね。 技術的には、Photoshopのベジェ曲線を使っているのです。 《想像界》だけの作品であるにもかかわらず、《原-芸術》《芸術》《反-芸術》《非-芸術》《無-芸術》の成立するのです。 従来の芸術というのの成立は、最低でも《想像界》《象徴界》の2界が必要でした。 《象徴界》を欠いた人の人数が増えてきて、《象徴界》を嫌って、見なくなっています。 悪口として受け取られそうな文章になってしまいましたが、悪口では無くて、新しい時代の、新しい批評なのです。 この時代の中で制作される美術は、芸術としての無限の自由が許されているのです。 この時代の中で制作される美術は、芸術としての無限の自由が許されているのです。 レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を、暗記することは重要です。現状では、レオナルド・ダ・ヴィンチの工房の修業時代のデッサンを見せても、レオナルド・ダ・ヴィンチであると分かる美術関係者が少ないのです。 規範を喪失して、無限の自由の制作にいたった人類の創造性と向き合うという批評は、多様です。 詩でもなく、無知無能のカオスの中を摸索していく旅となったのです。 2050年に来るという人類の人口の減少へと、至るのであります。 古い歌への追憶に凝り固まることを機械的に否定する気はないが、しかしそれは限界があるのではないか?適応の拒否を意味する危険がある。生物界では、環境の変化に適応できなければ死ぬ。そして環境は常に変化し続けるのである。 美術記者の中では違うタイプの人で権力志向がある。つまり同調性に基盤を置く〈ローの人〉ではなくて、自己権力を確立しようとする《ハイの人》である あまり報道はされていませんが、日本画の価格の崩壊と、マーケットの変容は、すごいものがあるようです。シフトが、本格的に現代アートに変わって来ている。 子供のためにローアートの人形も作っているがつまらない。このサンプルだけで結論を言うのは乱暴だが、私はローアートを作る必要はないと結論した。 ハイアートとローアートの関係は、実際に、原理として共存はできない。子供のためにローアートの人形も作っているが、つまらない。このサンプルだけで結論を言うのは乱暴だが、私は、ローアートを作る必要はないと、結論した。 作品はもちろんというかハイアートである。ハイアートであるが故に成立するというかゆるされる《6流》性でありそして完成度の低さである。気体美術である。それと〈想像界〉の美術である。ハリーポッターのようなファンタジーの作品であると言える。 スポーツ選手の顔に、人間の頂点の様な偉大さが表れていて、日本を代表するはずの芸術家の顔に、バラック性が出ている。芸術というのはバラックであるのだろうか?日本文化というのは、バラックなのだろうか?。 すごいというのは評価が高いわりには、語られていないからである。日本の近代美術史の中でも、正面から語られていないのである
(略)書く力が、美術史家や学芸員に無いのである。 ローアートは実用音楽である。分かりやすく言えば、娯楽音楽。ディスコで受けるのは、娯楽性故であろう。前衛がローアートで、娯楽になって受ける時代なのである。 前衛のハイアートと、前衛のローアートである。ローアートであるというのは、民衆音楽のようなもので、摸倣の連鎖の中で生まれる。 ローアートには鑑賞構造が無い。鑑賞構造は非実態性は生み出すのだが、ローアートは実体的である。そしてローアートは想像界の芸術であって、象徴界性が無い。同調性の世界というのは、実は想像界の世界なのである。 代表的な例は、黒人音楽で、たとえばラップの曲が、どれも良く似ているのは、こうした集団的同調性を基盤とした模倣の連鎖の中で、表現がなされるからである。つまりローアートには、決定的な独創性というのは、無いのである。 人類の滅亡を前提にした芸術の摸索の時代であります。人類の未来は、もはや無いのです。 現在の時代は、私が言うところの《無-文明》であって、《無-文明》というのは、今までの伝統は忘れられています。 全てが自由のカオスに飲み込まれて、詩人もまた、死んでしまったのです。 芸術創造論は適合していて、もはや芸術論は学問ではないのです。 全てが自由のカオスに飲み込まれて、詩人もまた、死んでしまったのです。 学問として芸術論を展開したのは、アーティストであった。 近代になると、アーティストではない、素人による議論に移ったのであった。 画論の歴史を遡ると、絶対に芸術を理解しているとはいわないというような事は、昔の人は言わなかった。 もっともひかれるのは、宋(南宋)の画家宋炳(そうへい 、375 - 443年))の『画山水序』
である。 ローアートの領域は、民衆の領域で、これは同調性で動いている。蛍が一斉に光ったり、消えたりするのが同調性だが、こうした同調性が人間の社会でも作動している。 神というのは、人間の精神的には〈象徴界〉の産物であって、〈象徴界〉の無い人は、実は神は認識できない。 神というのは言葉であり、しかも《全知全能》という言葉である。もちろん人間は《全知全能》ではないのだが、イチローは、バッターとして《全知全能》という概念と向き合っているように見える。 そういう外部世界との関係を作り出す視線として、作品が作られのであって、したがって、意識の水準こそが、〈格〉なのです。〈格〉が高いというのは、意識水準が高く、根底的に世界と歴史と向き合っていると言うことなのです。 〈格〉が高いというのは、意識水準が高く、根底的に世界と歴史と向き合っていると言うことなのです。 怖い方であったが、一つの態度を鮮明に示されていた。 多くの評論家を学生として、そしてアーティストとして見て来た。 評論家は、「芸術を理解できない」とは言わないで、《理解をしているフリ》をしてきたのです。 さまざまな芸術の研究と批評、企画などをおこなっている。 自分を包む外部世界を、カタログの様に第3者的に見ているのか、それとも自分が対話し、真摯な関係を結ぶ対象であり、その先にある普遍性との対話を求めているのか・・・。 作品と、主観的に向き合えないで、第3者的に見るのです。しかし、こんな事を言われても分からないでしょうから、もっと具体的に言うと、
カタログを見るように見るのです。こういうカタログ的視点は、実は広く社会的に広がっています。 鑑賞をできない芸術下層民は、どういう視線で、作品を見ているのだろうか?先に挙げた《我ーそれ》という第3者的視点で、見ているのです。つまり作品と、主観的に向き合えないで、第3者的に見るのです。 実際、日本美術史の中で、鑑賞という行為が確立されてくるのは、禅宗における先生の肖像画(頂相)や、風景画を、禅の瞑想として鑑賞する中で生まれたのです。指摘したように、禅宗の芸術化が、日本の芸術鑑賞の成立に大きく寄与しているのです。 さまざまな芸術の研究と批評、企画などをおこなっている。 訓練で、〈象徴界〉の精神領域は開けるのですが、敗戦での、占領軍による神道の解体がひびいたのかどうか、〈象徴界〉の発達を訓練するプログラムを失ってしまったのが、日本の戦後社会です。 米中冷戦の開始という、文明の展開の時期であります。 《非-文明》は終わって、《無-文明》に転換したというのです。 インストラクション、プラクティス、情報、パフォーマンス、インスタレーションです。 70年代以降のグローバルなコンセプチュアリズムを牽引する事象です。 現代美術や、現代アートの人々の中には、《祈り》という行為のできない人々が多くいるのです。一つには〈象徴界〉の人格形成を欠いた、精神的未訓練者が、日本人に多いのです。 アメリカ人は、驚くほどに美術館に行きます。これは一種の宗教行為であり、美術館が教会の代わりになっていると、私には思えます。《全知全能》という領域と出会うという精神活動には、良く知られているものに、《祈り》という行為があります。 芸術分析は、 《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》《ディープミステリ》《ノーネイム》《越境》《未知》《その先》《死》があります。 《原-芸術》《芸術》《反-芸術》《非-芸術》《無-芸術》《無-文明》《無-芸術》もあります。 聖書にも「初めに言葉があった」とあるように、「神」というのは言葉なのです。 《全知全能》という言葉が「神」です。美術作品を通して《全知全能》という領域と対話していくというのが、鑑賞の基本的な構造であると私は思います。 このスレッドは1000を超えました。
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