高校の教科書を見よう。東洋独自の芸術を理解するためにはあまりにも貧弱ではないか。私が昭和二十年代に
編集していた当時は今よりまだ少しはページ数があった。他の教科のものと比べたわけではないが、その後世間
の条件がよくなっていながらページ数が減っているのはどうしたわけか。私は教育の場でそれほど必要としない
からだと思う。お役所は民意を反映するところだ。皆が必要とすれば教科書のページは増えるはずだ。それでは
なぜそんなに必要でないのか。書くことが中心となっているからだ。書くための手本なら、それほどのページが
いらない。教育の現場の経験は私は持たないが、現在は少し熱心な学生生徒は創作とか展覧会に走って教師もそ
のように指導する。書を鑑賞し、書を通じて文化を考える方向へ進むことはまれである。また、書を文化として
とらえるには教科書があまりに貧弱だし、その貧弱さは現場の指導方向の反映、といった形で悪循環している。
書くことのみによる指導からは受け手が生まれないのは道理である。このことは学校教育の場のみではなく書壇
全体の傾向だと思う。受け手のない書壇は技術競争の場となって、古来、書に深い関係を持っていた分野とも縁
を切り、自ら世間を狭くしてしまった。
(今井凌雪『書を志す人へT』(二玄社)P.14〜15、昭和五十一年二月)