【国宝・重文】古碑法帖を語る・学ぶ
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書における歴史的名品の話題・情報交換
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先代スレ(殉死)https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/gallery/1523888637/ 歴史上の人物や古典作品について「上手いか下手か」と論ずるのは些か疑問を持つ。
・主観が入り過ぎる
・子供でも言える
・論じたところで何もはじまらない
このような理由である。
個人の感性や価値観を重んじる昨今ではあるが、実際にはただのお戯れでしかない。
古典を見るには客観的視点が重要。直感なるものを信じ過ぎたあまり、世の中から見放された芸術家が多いこと、留意されたし。 >>167
うまさこそ絶対的,客観的指標だと思うがね
色々な講釈をたれたところで意味ない,何もはじまらない
うまい,へたは好き,嫌いとは決定的に違う
>個人の感性や価値観を重んじる昨今
王羲之,顔真卿,米フツ,孫過庭,みなうまいかへたかで論じているのに
現代に生きる我々だけがそれを論じないというのはどういうことか Λ_Λ ?\\ ♪?
?( ・∀・) }三{ /?
と つ==□ ピコッ!?
?Y ?イ }三{?
? ?し'ヽ_) ? <? ?>∧γ⌒'ヽ?
? ? V,,´∀i ミ(二i? いっ…
?/ っ、,,_|?|ノ? ←173
? 〜( ̄__)_)?r-.!?!-、?
`'----'? 言うに事欠いて、“アジがある!”なんて言い出すんだよな。腹の中では下手くそと思ってる。 >>168
来年、顔真卿展あるだろ。作品の解説に「上手い」「下手」しか書いて無くていいの? 顔真卿や柳公権の書そのものでなく、後世への影響を見るのが客観性では無難な所かと。
その方面では日本の場合、多宝塔碑が晩年顔法より影響大。例えば市河米庵の楷書(↓)。
https://blogs.yahoo.co.jp/shoumenban/36972649.html
教育面では長三洲や日高秩父のが多宝塔碑の路線。瘤が巻菱湖系統より不評だったとか。
顔法の晩年様式については貫名菘翁を経由する見方もある。やがて田代秋鶴や上田桑鳩。
臨書の系譜から、どの様に学ばれてきたかが分かる。そうして見方の差異の交点を探る。
そこから古典の影印や翻刻に向かう。尤も品第論とて悪くはないし、昔からあるけれど。
>>175
自分という秘部を彩る表現形式や隠蔽手段の比喩。これがないと路上詩人は全裸に近い。
古典の香りがないと恥ずかしい。双雲の香りがないと恥ずかしい。どれも学びではある。
しかし学書行為と審美眼は無関係。「恥ずかしいパンツ」(例?↓)を見た時は驚いた。
http://www.daddo.jp/?p=11584 >>177
だからって、上手いか下手かを言ってはいけないということにはならんでしょ >>179
つっかかるな。 >>167 にも一理ある。上手い下手を語ることの利点を挙げればいいんだよ。 酔中夢書2018更新しました。
タイトルは「比田井小琴と筆草(ふでくさ)」
海岸に生えている筆草(弘法麦ともいう)は、尖端が筆の穂のように見えますが、実際はかたい「根」。
筆で書いた作品と異なり、筆草の作品には独特「渋み」のような味わいが生まれています。
ttp://www.shodo.co.jp/blog/hidai2018/2018/07/11/post-647/ >>181
つっかかってすまない
上手くなりたいから、上手いか下手かを気にしてしまうと言っても良い
上手い作品を参考にしたい一心
当然考証もしなければならないことはわかっている 上手いは褒め言葉だから使い道は多い
下手は侮蔑的と取られることがあるから、使うときは慎重になる必要がある。
よって「上手い / 下手」を技術レベルの違いとして使うのは間違いとなることが多いのではないだろうか。
思うのは自由だが、言葉に出すのはまた別のことと思える。 エチケットを忘れずに、という意見は大いに結構だが
それがどうして「よって〜」と3行目の言葉に受け継がれているのかがどうしても理解できない
というか3行目そのものがよく理解できない
技術レベルの高低が取りも直さず上手い/下手ということにならなければ言葉の定義までがお茶を濁したように不明瞭になりはしないか
意味不明の言葉を用いてなんとなくやり取りするうちに双方にストレスがたまり
かえって険悪になるようなケースもしばしば見られるように思う
ただし技術レベルの高い人が敢えて雑に書くこともあればその逆もあるので
ひとりの人の技術レベルを総合的に見極めることは極めて難しく、軽率に断定すれば衝突を招きかねない、そのような主旨であればよくわかる >>189
なぜお茶を濁すのですか? 技術レベルを的確に表す言葉は他にいくらでもありますよ。 >意味不明の言葉を用いてなんとなくやり取りするうちに双方にストレスがたまり
>かえって険悪になるようなケースもしばしば見られるように思う
これは、意味不明な言葉を使って会話しようとすれば、たいていの場合会話は成立しないと思います。
書道や古典鑑賞の際に限って起きることではないと思いますが、いかがでしょうか?
人間関係が険悪にならないよう、努力されるのが良いかと思います。 技術の面で言えば、蘇軾はそこまでよくないと言われるけど、どう思う?
個人的には、クセはあるけど、技術に関してはあるほうだと思う >>170
宋代の臨模という説があるね。
たしか孫承沢だったと思う。 独特な人って…たぶんコスプレ卒業式やる美大生ほどではないだろ
ゲイ術…まず董其昌を殺せ…最晩年でも女装…
上手と下手を巧拙と言い換えれば、拙は褒め言葉みたいで巧は曖昧 独特というか…こだわりが強いというか
特定の人や物事に執着しやすいのかな?
芸術とかには必要な部分もあるかもだが… 蘇東坡の赤壁賦は貫禄十分 規範性の高い書きぶりでもないのだが、、
いろいろ考えてみると、安っぽいとか薄っぺらいような仕上がりにならないことが
技術のひとつのモノサシになるのかも知れないと思い至った 「独特」の一言にショックを受けるほどデリケートな感性の持ち主が書道をやる。
見ろ、みんな沈黙してしまったではないか。まるで女みたいだ。ただし昔ながらの。 お元気ですか
日程6.30から始まり7.15に7.21と
今年も書道教員採用試験のあるところ
受験の旅人は全国各地
さすらい続けているのですか
次は東北4県ですね
頑張ってください
応援しています 蘇軾について、意見ありがとう
>>203
確かにそれはそのとおりだと思う
格調と同じようなものかな?
よく蘇軾と比較して語られる、黄庭堅についてはどう思う?
個人的に、草書については抜群だと思います 藍田たんが修行中のころ、山谷は枝に蛇が垂れ下がり、東坡は石につぶされたヒキガエルのように、と教わったそうじゃ
両名ともそうした自然の中に見えるある種グロテスクなほど強い生命力を
文字の書きぶりの中へ投影していくことで、完成度においてピークを極めた唐代の書を超えようとした。
唐代に山水が描かれるようになり、しだいに文人画として書画一体の世界が徐々に形成されたことと無関係ではなかろうが
注意しなくてはならぬのは山谷も東坡も画家であるまえに文豪であり
書そのものの立ち位置はもとより画よりも文学との結びつきを強く持つものである
ここのところを誤解が、文学性を無視する立場としての前衛書道の発生を余儀なくさせた。 >>210
そんな崇高な話しじゃなくてただお互いを笑いあっただけ 藍田!藍田!藍田!
綺麗な藍田、素敵な藍田、
藍田!藍田!
https://www.youtube.com/watch?v=6nnUM85dhNA
酔っ払った時そう叫んだら、友達が呆れ返ってたのを思い出した 藍田と宋代は結びつきにくかったけど、昭和三十年頃のを見てビックリ
松井如流編『條幅扁額の研究』(二玄社)、殿村藍田「横物について」 毎日展見た? 痴呆みたいなのが増えてないか? お前らはどう思う? 酔っ払いのオッチャンがロンドン!ロンドン!に似せて巻き舌にしてはしゃいでるのを想像した刹那
意に反して鼻が勝手に笑った >>221
「字源研究」というのが何かわからないが、そもそも文字学にそんな分野はないと思う
文字学のゴールは文字を読むことだが、それは完全なゴールではなくて、例えばその結果を史学に渡すことによって過去の歴史を知ることができるようになる、のようにすべての研究は実際はゴールの先がある
字源というのはそれを知ったところで、今ここにある例文が読めなければ意味がないわけで、結局その先がない。ゆえに字源を知るのがゴールの研究はないと考える。 ちょっと浅いな
文が読めることが全てじゃないだろう
文字の成り立ちとして絵画から図象文字への変遷を解き明かすだけでも
それ自体が立派な過去の歴史だ いちども解き明かされないままでは意味がないが
いったん解き明かして、資料として保存されることには意味がある
次世代につなぐ、滅亡させない、たとえば絶滅危惧種の保護をする、、などなど
ある程度の年齢にいってない人間だとこういう発想はないと思うが 字源について横から失礼。例えば「仁」の変体仮名をどう見るか。読みの問題ではない。
今の教科書では「尓」の扱いでも、幕末版本では筆脈上どう見ても「丹」だったりする。
それを古文書系の本は釈文を「尓」にしたりしてるけど、疑問を持たないのだろうか。
草略の字源と筆脈は誤読を防ぐ免疫装置。漢字は更に複雑。それだけ効果も上がる。 >>224
どんな学術体系にも、基礎研究の分野は分野として立派に存在するし
それに一生を捧げる人もいるってこと。
そこでは知識を網羅することが使命なんで、役立ててもらってナンボだなんてカッコつけたことは言わない。使わないからという理由で解明されていない元素記号があったらまずいでしょ?
そういう意味で、こりゃ確かに厨二病だ。
>>225
「へ」「つ」「そ」の字源も諸説ありという感じです
自分はそこまで知識がないけれど、秋萩帖などをみると「つ」は鬥じゃなくてやっぱり川だよねって思うし、、
平安中期から写経の字体が崩れていったことを考えると「尓」の続け書きは不自然ではなく、幕末〜大正あたりの指導書は逆にちょっと怪しい部分があるような あとほら白という字の字源が頭蓋骨の形でもともとは物騒な字なんですよとか
面白おかしくコラム化するのも良いけれど、
本来その字が書かれるようになった時代背景や当時の宗教観、生活様式を探るための
資料としてはそれらの見識だけで十分に役立てうる。使う人次第の問題であって
「結局その先がない」なんて断定できてしまうのは視野が狭いからこそであろうかと思う。
まぁそんなのが基礎研究というものなんだけど。 >>227
「亜という字は墓のかたちからきてるから、子供の名前に使う前によく考えて!」とか言ってる高校教師がいたぞ。
亜希子さん、亜矢子さん… いっぱいいる。亜を名前に使ってる人たくさんいるけど、墓をイメージして使ってる人はいないと思うし、墓を想像する人もいないと思う。
基礎研究を間違った使い方してる人が出てくるのはしょうがないのかね? ちと悲しいんだよね。 墓というのは初耳
だけどまぁ「亜」は、読みを辞書で引いたら「あ、つぐ、みにくし」だし
亜種というのも特にいびつな形に進化した種を指すし 意味自体がダークサイド
自分だったら名付けには用いない そして、名付けなら辞書くらい引いて意味を踏まえて使いなさい、という指導は間違っていないと思う、、
キラキラネーム全盛だけど、良識を疑うようなのも少なくない
ただ、すでに名付けられてる人に対して配慮はいるねぇ
むかし塋さんという中華料理屋が近所に店だしてたんだけど塋も「はかば」だって
栄の変字かなにかだと思ってた 苗字はしゃーない 幸子はよくても辛子はだめでしょ
なんでそんな単純なことまで否定するの >>232
名前にはネガティブな歴史のある字は使えないのか?
文字ひとつひとつに忌まわしいとか、穢れてるとか言い出しそうで怖いわ。 >>232
そのお名前はどこから出てきたのでしょうか? 「幸」という字について「これは手かせ(≒手錠)の形なのだ」とおいう説もあるんだよね。
※諸説ありますw スレの主旨に戻して
魏晋の小楷で、信頼のおける拓本って何だと思う?
小楷の拓本には怪しいものがたくさんあると聞く >>239
先に怪しいと聞いた拓本を挙げてください >>240
薦季直表、楽毅論、黄庭経など
碑がいくつもあるものもある
一つも真筆はないので、どれが一番真筆に近いのかなという疑問 黄庭堅のはなしはどうなった?
蘇軾→黄庭堅ときたから、次は米芾あたりかと思ってたんだけど、いきなり魏晋に飛んでった。
…なんで? 複数の話題が並行で進んでもよろしいがな
黄庭堅は、あのイメージに反して小字行書での品のよい書きぶりも残ってる
やはり当代一流と見てよいね 小楷については、みんなあまり感心がないのかな
>>244
黄庭堅は癖があるけど、しっかりとした技術の上にあることは間違いない
当代一流というのはそのとおりだと思う
それでは、次は流れを汲み取って、米フツについてどう思うか聞こう
個人的にはやはり技術で右に出るものはいないと思う
比較的大きい字のものの方が良い作品が多いと思うのだが、どうだろうか >>247
すみません
どう思うか聞かせていただけませんでしょうか 米元章の大字では群玉堂帖の述学帖が一番の出来かな、あと呉江船中詩巻も良い
以前有隣館から中国に売られてしまった研山銘は今ならもっと高値がついたかもな 視覚効果抜群のデフォルメ、緩急自在の運筆、たまに常識外れに太い線、大きい字を入れるセンス
いわゆる超絶技巧家なんだけど、超絶技巧家っていうレッテルは超絶技巧家以上の評価にならない損な面があるよね
リストやパガニーニのように…
そんな計算が先だってしまって、どうも習うのを敬遠してしまう人 >>109
“石碑の欠けた字をそのまま臨書した” とあるが、双鉤填墨とは書いてない。
どこから双鉤填墨となったのか知りたい。
双鉤填墨が素直な感性というのも理解しがたい。 >>253
書くという事には筆路の問題が先立つ一方、模倣のアプローチにも臨書以外のがある。
似せようとする形臨とか、似ても似つかぬ意臨とか。臨書にも色々あるが、それ以前。
教育現場では「俺のは意臨」も、極端な「似せればいいんだろ」型の筆路無視も困る。
特に後者は筆順崩壊型の「見た目」優位指向が強い。つまり書くのではなく、似せる。
双鉤填墨といっても本格的なのではなく、書を字でなく絵の様に見れば自然そうなる。
字と認識できないまま臨書する現実がある。古典は国語でも書道でも見るのが初めて。
素直な感性とは、徹底した無知状態の感性を意味する。それが保存されたまま、授業。 >>254
返答なのか、違う話しをしてるか、何を言いたいのかがわかりません。 昔CDの広告を見たらジャケ写の背景、黄庭堅の諸上座帖だった。ただし上下さかさま。
こんなのが書を字と見ていない例。文と見ていないのは二千円札、源氏物語の下カット。
デザイナー感覚だと「見た目」優位になったりする。読む必要なく、雰囲気あれば十分。
文字レベルでこうなら、点画レベルはどうか。字と認識できる場合でも、細部はどうか。
蘭亭叙の「幽」字末。普通の筆順は折れの次に縦だが、横の次に左右の縦かもしれない。
そこまでは細かく見えなくてもおかしくない。それなりに似て見える生徒もいるだろう。
当初は字や書と認識できない。子供の時、掛軸の白文印が迷路模様に見えなかったか。 米フツについての意見、ありがとうございます
ちょっと話がそれているようなので、話題投下します
蘭亭序について、一番良いと思う手本はどれだと思うか教えてください
私は張金界奴本が良いと思います
不自然な書き方でなく、字形の変化も良いと思っています 去年あたりいばり散らしてた連中はどこ行ったんだ? 和なんとか? >>259
複数の話が並行してるのはいいんでしょ? 前に言ってませんでした? >>262
個人的によくわからない話をしているので,話題投下したまでです
気を悪くしたならすみません
>>254
教育現場では,筆路を教えれば,臨書は可能となるということですか?
事実ばかりを書いているような書き方で,自分の意見を書いているので,
結局何が言いたいのか伝わりません 蘭亭叙に思うのは、書である以前に文なんだって事。だから先ず文として書かなきゃ。
何度書き直しても最初のがよかったのは、文の前に稿としての性格が強かったからでは。
こうなると真似できない。でも真似て八柱や定武に形は残す。つまり形だけなのが難点。
それを自覚するために形臨があり、形臨の断念から意臨という「自分の世界」が始まる。
だから好きな本より、自分の世界に近いのを択ぶ手もある。他人の字に懸想しても無理。
敢えて異質な本を択ぶ手からは自他の差異が学べる。そこが却って面白いから、厄介だ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています