>>195の「押さえるところは押さえ走るところは走る」は実際、微妙な時間差となる
そこを先生の揮毫現場から読み取るには、少なくとも実用速度基準の動体視力は不可欠
さもなくば速さに流され骨抜きとなり、底流する古典的基礎性が失われてしまう
これが高校レベルの作品制作で、そこに墨色や潤渇などの変幻要素が加わる
つまり実用速度自体が現代では遅い方となる場合、そこが臨書練習と大きく違ってくる
古典臨書を平易化したものが手本臨書だと考えれば、師匠の役割が際立つだろう
そうした体験から、塾の師匠と学校の先生との違いも副次的に垣間見えてくる