これらのうち、まず「未然形」には、すべて「未然」的な意味の助動詞が
接する。未然的な意味とは、「まだそうなっていない」ということであり、
「ず・む・まし・じ」などは、「未然的な意味」だけでは十分に分化を果た
し得ないことがらの、さらなる細分化 (再分化) の役割を果たしている。「まだそうなっ
ていない」ということは、実際には存在しないことがらであるから、ことがらを想定して
捉えている。「花、咲かず」といえば、「花が咲く」ということがらは存在しない。だから
いったん、「花が咲く」ということが想像的に思い浮かべられなければならない。否定と
いうのは、助動詞的な意味の中で最も重要な事柄で、人間の言語には何らかの形で必ず存
在しなければならない働きである。また、「咲かむ」というのは、判断の内容としてみれ
ば肯定的だが、「まだそうなっていない」ことがらの想像的な思い浮かべが必要な点では、
「ず」と同様である。「まし」は「反実仮想」と呼ばれて、成立不可能なことがらの思い浮
かべであるが、もちろん想像的である。こんな助動詞が「未然形」に接するものとして集
まっているので、「未然形」とは
「名は体を表す」適切なネーミング
である。……また、「受け
身」や「使役」の助動詞は未然形に
付くと言われるが、「咲かせる」 (現
代語) などは全体で一種の動詞と捉
えた方がよく、右の表からは省いて
いる。
 二十世紀の著名な哲学者に、J・P・サルトルがいる。サルトルは人間の持つ否定作用
に着目した。既述のように、否定には想像力が必要である。否定も想像もなければ、われ
われはただ「ある」ことを、べったりと追認するだけであって、自由も投企もあり得ない。
サルトルは、第二次大戦前に京都の日仏学館への就職を考えたことがあるそうである。来
日しても日本古代語を学んだかどうかはわからないが、否定「ず」と想像「む」が同一の
言語形式 (未然形) を共有する言語の存在を知ったなら、とても喜んだに違いない。