未然形は複数あるのにいずれも単体で使うことがない
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>>97
> 草創期というのはそっちが言い出した話であって
>>88 が言い出した話。
歌でなければならないというのもそっちが言い出した話。
「あめつち」は歌ではなかった。仮定でなく事実。
> 今作れる歌は昔でも作れる、作れない理由があれば別だけどそんなものは提示されていない。
昔の歌と今の歌とが同じでないという事実が、理由がなくても昔は作れなかったことを示している。
事実、事実、事実。
> 他人の真似しかできない人はそもそも新しい歌なんて作れない。
すべての人が他人の真似しかできない。しかし完璧に真似することもできない。
違ってしまった所を「新しい」と称する。
「あめつち」も、「あめ・つち・ほし・そら、やま・かは・みね・たに…」と、単語を 4 個ずつ並べるスタイルは、
「天地玄黄」で始まる『千字文』の模倣だった。
> それこそ仮定だ。
今様が貴族の間でも流行していたという記述は少なくないのに、『梁塵秘抄』より前の実作は
いろは歌を除いて、1 首も残っていない。
事実、事実、事実。 >>92 なかったと思う。本土から入った事物は、ヤマトグチで「ショーボーシ」「センメンキ」と呼ばれていたはず。 >>98
>>88は「一般的でないのなら」と言っている。
つまり一般的でないから合理的でないと誰かに言われたから、
一般的でないの場合にもそれは不合理ではないと言っているにすぎず、
その前に一般的ではないと主張しているものがいたと考えるのが合理的だ。
ここまで書いたものの、最初に誰が言ったかはちゃんと確認していなかったが、
読み返したら実際、>>84がそう言っているので証明される。
あめつちの話も七五調が新しいと主張する>>79が出してきていて、
いろは歌は新しいという主張をしない方はあめつちが歌だなんて言っていない、
むしろ「歌にならない」と否定しているだろう。 >>100
> 一般的でないの場合にもそれは不合理ではないと言っているにすぎず
一般的になってから作られたと考えるのが最も合理的。
> むしろ「歌にならない」と否定しているだろう。
>>80。「どんなスタイルをとってもよい」 (>>79) を否定しているのだから、歌でなければならないと言っている。 >>101
合理的な証拠がなにも提示されていない。
100年の差は、むしろ一般的でない時に作られた証拠になる。
「いろは歌」が歌なのは当たり前だろう。 >>102
> 合理的な証拠がなにも提示されていない。
>>96。『吉野吉水院楽書』 (平安末期〜13 世紀中頃) には、「今様ノ殊ニハヤルコトハ後朱雀院ノ御トキヨリ也」とある。
後朱雀天皇は在位 1036-45 年。
> 「いろは歌」が歌なのは当たり前だろう。
「すべての仮名を 1 回ずつ使った言葉は、どんなスタイルをとってもいい」
↑
「それでは歌にならない。『いろは歌』が歌なのは当たり前だ」
支離滅裂。 >>103
>後朱雀天皇は在位 1036-45 年。
その時から一般的であったと主張する訳?
でも、その頃はおろか、その後1180 年頃まで、一首も残っていない(>>98)と主張するんだよね。
ここから言えることは、当時の人は歌を文書に記録する習慣がなかった、
或いはその記録が失われてしまったということだろう。
これでは仮に一般的になった後で成立したという仮定が正しいとしても、
記録されてないのか記録しなかったのか判断つけようがないから、
成立がいつ以前かはその記録からわかっても、いつ以降かは言えないということだね。 >>104
> これでは仮に一般的になった後で成立したという仮定が正しいとしても
11 世紀の半ばより少し前から、1079 年までの間ということになる。
『吉野吉水院楽書』の記述は、音楽家たちの記憶や伝承に基づくものであって、歌そのものの記録がないこととは関係がない。
今、後白河天皇のような天皇が現れたら楽しいだろうな。
私は本当は歌手 (それもポップスの) になりたいのだと言って、いきなり路上ライヴを始めたりしたら、日本中が明るくなるだろう。 >『吉野吉水院楽書』の記述は、音楽家たちの記憶や伝承に基づくものであって、歌そのものの記録がないこととは関係がない。
だったら書かれた時期が問題だな。
証言者が殆ど残っていない位の時間差があるとすれば、
具体的な年代を書いたとしてもそれは昔々と言っているのと大差ないだろう。 ・10 世紀末に今様が貴族に知られていたことは、『枕草子』の記述から間違いない。
「長くて癖がある」と、よい評価は与えられていない。
・『紫式部日記』1008 年 8 月 20 日過ぎの条に、道長の邸で、出産をひかえた彰子を慰めるために、管弦の未熟な若い貴族たちが今様を歌ったとある。
「彰子の気晴らしにはよい (下手な演奏を聞かされるよりまし)」とされている。
・>>96 に示したとおり、11 世紀末には殿上でも今様が歌われている。
『吉野吉水院楽書』の記述と特に矛盾する所はない。
『楽書』の記述を疑い、実際にはそれよりずっと前から今様は一般的だったとする主張は聞かない。
直接見聞きした人のいない伝承だからといって、不正確とは限らない。 >>107
「今様」なのだから、それらが共通する形式とは特定されない。
・4句が長いとは、どういう事なのか?
・「もしもピアノが ひけたなら
おもいのすべて うたにして
きみにきかせる ことだろう」 1句足りないな。
・無いものが流行ることはないが、古くからあるのであれば
周期的に流行っていたと考えられる。
仮に正確だったとして、問題は
それ以前はなかったという認識で具体的な年代を書いたのか、
少なくともその時代に流行っていたということで書いた年代なのかで、
それによって記述の意味が全く違うだろう。 >>108
> 「今様」なのだから、それらが共通する形式とは特定されない。
『梁塵秘抄』を見れば、確かに「今様」にはいろいろな形式があることがわかる。
しかし、いろは歌は間違いなく「今様」の 1 つだ。
> ・4句が長いとは、どういう事なのか?
さあ。「うた」と言えばほぼ短歌だったから、31 文字より長いということか、それとも旋律の話か。
> 古くからあるのであれば
この仮定が不要。 >この仮定が不要。
いつできたという記述でないかぎり、どうやっても仮定は必要。
流行ったという記述は、そのときまでに存在したということしか意味しない。 > いつできたという記述でないかぎり、どうやっても仮定は必要。
枕草子より古い記述はないのだから、出来たのはそれを大きく遡らない、と
1 つ仮定しておけば、「周期的に流行っていた」といった仮定は不要になる。
どうやっても君の負け。あきらめなさい。 流行が周期的なのは事実。
そうでなければ流行りも廃りも存在しない。 >>112 しつこいゾンビだな。
廃れたきり復活しない流行なんていくらでもあるぞ。
七五調の歌は原始時代から周期的に流行を繰り返してきたと?
記紀万葉にそういう歌は見えないから、院政期の前の流行は弥生時代だったのかな?
それとも、記録にないだけでとにかく流行してたんだ、文句言うなってことかwww
だいたい、「つねなら『む』」と作っているから古いと言うなら、どうして「え」と「江」は区別しないんだ? >>114
文句言っているのはあなたでしょ。
記録という証拠がない以上、あなたは仮説以外はなにも主張することができません。
>>115
> 文句言っているのはあなたでしょ。
当然だろ。君は「いろは歌はとにかく古いんだ。黙れ」と言ってるんだから。
> 記録という証拠がない以上、あなたは仮説以外はなにも主張することができません。
歌自体の記録はなくても、歌についての記述は残っている。
いちばん仮定が少なくて済む仮説の勝ち。 >当然だろ。君は「いろは歌はとにかく古いんだ。黙れ」と言ってるんだから。
勝手に記録を捏造しないでほしいな。
だから勝ち負けとか言っている人の仮説は信用できないだけの話。 > 勝手に記録を捏造しないでほしいな。
いろいろな仮定を重ねないと維持できないよと指摘しても、その仮説を捨てないのだから
「とにかくこうなんだ。黙れ」と言っているのに等しい。
> だから勝ち負けとか言っている人の仮説は信用できないだけの話。
「『勝ち負けじゃない』と言うのは、負けた側である」マルチナ・ナブラチロワ >いろいろな仮定を重ねないと維持できないよと指摘しても、その仮説を捨てないのだから
仮説を主張した事実はありません。
新しいという説を疑っていたら、実は流行したという記録しかない事が判明して、
やっぱり根拠薄弱でしたね。
> 仮説を主張した事実はありません。
それじゃ不戦敗じゃないかwww
> 新しいという説を疑っていたら、実は流行したという記録しかない事が判明して、
> やっぱり根拠薄弱でしたね。
いろは歌のような遊戯歌は、皆が知っているスタイルでやらないと、称賛されない。
十分な根拠だといえる。 勝利宣言をしても詭弁としか思われませんよ。
称賛されるためにつくったと主張するのですか? > 勝利宣言をしても詭弁としか思われませんよ。
「ガイドライン」で頭が埋まってるやつがそう思う。
米大統領候補は詭弁家なのかw
> 称賛されるためにつくったと主張するのですか?
「うまく出来てるだろ」と自慢できなければ意味がないだろう。
「あめつち」は千字文を模倣し、最終行を除いては、縁のある語を並べて、よく出来ている。
「たゐにの歌」は五七調の長歌風で、前半は万葉集第 1 番歌を意識しているが、後半の意味不明が甚だしい (無理があるのは仕方ないとしても)
いろは歌の完成度はやはり高い。 とりあえず、「勝利宣言」の意味が全く違いますね。
かたや、しかるべき機関の発表を受けてのもので、
なにも根拠がない勝利だからこっちのは詭弁な訳です。
苦笑)
ていうか、遊戯歌なんですよね?
仕方がないとか、そんなので称賛されるんですか?
素晴らしくても書き残されることは無かったというのに。 >>123
> なにも根拠がない勝利だから
根拠を否認してるだけ。いくら否認しても君の負け。
> 仕方がないとか、そんなので称賛されるんですか?
13 世紀末には既に、いろは歌は弘法大師が作ったという伝説があった (『釈日本紀』)
最大級の称賛だよね。
ちなみに、いろは歌にも無理をしていると思われる所はある。
「誰ぞ」は本来「誰だ?」「誰ですか?」の意味で、「誰が永久不変でいられようか」の意味なら
「誰か(は)常ならむ」と言うべきだろう。
> 素晴らしくても書き残されることは無かったというのに。
書き残されなければ今に伝わらないよwww >>125 していない。辞書でなく古典語のテクストを見て、「誰ぞ」がどのように使われているか調べること。 >>82
今頃思い出したが
カジマヤー「風車=風(カジ)+舞う(モーユン)」
ってのもあったな。
沖縄の長寿祝い行事の名だから戦前からあった名じゃないかな? わがよ(の春は)誰ですか?
そんなの続くわけなかろ ってそのまま読めばよくね?
だからこそ、千代に八千代に細石、な訳だろ、この国は。 >>127 それは本当に未然形なのか?
否定、使役、受動などで、「アラヤ(ー)」「マヤ(ー)」といった形は現れるのか? アラユン、モーユンの未然形はアララ、モーラ。
アララン (洗わない)
モーラン (舞わない)
アララリユン〜アララリーン (洗われる)
アララスン (洗わせる)
モーラスン (舞わせる) >>126
まー「誰が永久不変でいられようか」を逐語訳すれば「誰か(は)常ならむ」にはなるだろーがね。
「誰ぞ常ならむ」は「ぞ」で「誰」を強調した構文であり、特に「誰」という
疑問を表す語に伴う「らむ」は「(どうして)〜なのだろうか」という意味を持つ。
つまり「誰か(は)常ならむ」と細かいニュアンスの差はあれど本質的には変わらない。
> 辞書でなく古典語のテクストを見て、「誰ぞ」がどのように使われているか調べること。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%AA%B0&dtype=0&dname=0na&stype=1&index=11686900&pagenum=1
> 「これにて見苦しとは―も得言わじ」〈鴎外・舞姫〉
> 「嬢子(をとめ)ども―をし枕(ま)かむ」〈記・中・歌謡〉
「誰」そのものはそんなに特別なモンじゃない。「誰ぞ」は単に「ぞ」がついただけよ。 >>131
>>124の言いたいことは分からんでも無いがなあ。
>>124の疑問は、係り結び(とくに「ぞ」の係り結び)の本質に関わるもので、
「ぞの係り結びは倒置法起源である」という、やや古い説の考え方から生じる疑問と理解できると思う。
「ぞ」は、本来は言い切りの終助詞で(今でも名残が残っている【ぞ】w)、
「誰そ?」というのは「だれだ?」ということ。
「誰ぞ常ならむ」と言うのは、この上古語の空気感を強く残していて、
「どんな奴なんだよ?永久不滅なんて奴は…」
という意味に近い。こう考えると、結びが連体形になるのは、ごく自然な語感だということになる。
高校古文だと、>>131みたいな「強調ですが何か?結びはただのお約束ですが何か?」
と教えるんだけど、いろは歌は、この割り切りの矛盾が出てきている点だと思う。
俺は、>>131より>>124に、言語的なセンスを感じる。 大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校で暴力やいじめを受け続けて、心も身体も
壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
僕をイジメた生徒や教師の名前をここで書きたいけど、
そんなことしたら殺されて、天王山に埋められるかもしれ
へん。それで誰にも発見されへんかったら、永久に行方不明のままや。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。
>>132
>>128じゃダメなの?
とりあえず、「上古語の空気感を強く残して」いるのは認められる歌なんだよね?
後は、歌が後世の研究による擬古文なのか、
仏教典等の例のように文字化されたものが長らく広まらなかったのかの問題。
前者は、賞賛されれば問答無用で内容が即保存されるという仮説で成り立っている。
しかし、これは成立していない。
そもそも捨てられなければの話であって、値がつかないものは誰も保存してなくて
自分が持っていたものを失って、探した時にはもう見つからないということはよくある。
ドラえもんなんか、たかが漫画だったのでああいう下品も放置されていたけど、
今や日本を代表するカルチャーだからダメなんだろうな。
わかよたれそつねならむ
あさきむすめのさえすりも
春眠不覚秋儚(AKB仮名) >>129-130 「火消し屋」「面洗い屋」という意味だよ。
消防士はフィーチャシヤ>フィーチャシャー>フィーチャサー。沖縄の古い世代はサとシャ、ザとジャの区別が曖昧だ。
体温計はニチハカヤーと言うらしい。ニチ (熱) ハカイヤ (計り屋)>ニチハカヤー。
ハカユン (計る) の未然形は沖縄 (首里) 方言でもハカラだ。ハカヤーは連用形 (*ハカリ>) ハカイを含む形。
本土方言の語頭以外のリに対応する箇所で r が消えて、イとなる。 未然形と同じ形の志向形ハカラは「計ろう」という意味で使うね
「はからう」の語尾のウが落ちたものとされる
カジマヤーはカジマーヤー(風・回るもの)が短母音化したのでは?
>大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。僕のほかにも、イジメが原因で精神病になったりひきこもりになったりした子が何人もおる。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。イジメに加担する教師すらおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメはなかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな
>島本町って町は、暴力といじめの町なんだな
子供の時に受けた酷いイジメの体験は、一生癒えない後遺症になるなあ いろはにほへど、ちりぬるを、
わがよたれぞえ、つねならむ。
うゐのおくやま、けふこえて、
あさきゆめみじ、ゑひもせず。 >>136
フラー(愚か者)は動詞「(気が)触れる」の未然形由来だろうか? 動詞以外も同様の派生をする事や、
未然形と語形が一致しない事を考えると未然形由来とは考えづらい 結局次の形態素につなぐための挿入母音があるだけ
「活用」と思うのが間違い 確実にどんな人でも可能な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
時間がある方はみてもいいかもしれません
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
OYANU ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています