★★★リアカーは引くもの? 押すもの?★★★2
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>>548
>間接受身の場合は*が付かないと念を押している
「間接受身の場合は*が付かないとことわっている」と言うべきだった
誰も突っ込まないけど訂正
花子が太郎の娘で,太郎の遺産相続人は花子しかいないはずだったのに,太郎が誰かと結婚した,というときに
「花子が太郎に結婚された」
と言えるか考えてみた。小説などで,「花子」と「太郎」との関係が規定されている場合,どうだろうか
しかし,間接受身を使うということは,迷惑を被った花子の立場から描くということだから,やっぱり
「花子が父の太郎に結婚された」「花子が父親に結婚された」
などと言うのが自然だと思う
その文自体が壊れているのを「非文法的」として*を付け,文自体は壊れていないが,ある文脈の中でおかしいのを「不適格」として#を付ける,ということをやる言語学者もいるようだ
ただ,寺村氏の時代には区別しない人も多かった
非文でも不適格でも誤用には変わりない 著者の都合により非文としたいときは*でなく#を使えと言うのね 結局,全部著者都合だよ
大多数の人の判定と一致しなければ,この著者は語感がおかしくてダメだと言われるだろうね 編集者が著者に無断で直すのは著作権侵害で不法行為だが、著者には直されずに出版に値する原稿を提出する義務がある。
出版に値するかどうかを決める権限は編集者にある。だから、著者が直さなければ出版しないと編集者が言うのは不法行為ではない。 >>568
独占契約を結んでおいて、難癖つけて金を払わないって話? 編集者には書き手を育てなければという使命感がある。だから、納得できるまで著者に書き直しを求める。
あるいは、適当なところであきらめてそのまま出版する。当然原稿料もちゃんと支払う。
しかし、その著者は自分の見込み違いだった、実力なしということで、 2 度と仕事を頼まない。
プロの作家や学者にダメ出しを重ねることはあるが、編集者が勝手に直すことは絶対にしない。
他方、ゴーストに書かせているタレントや評論家の原稿は、編集者が直すこともある。
当人たちはプロとしての自覚がないので、誰 1 人文句を言って来ない。 やり直しを求めるのと修正点を指示するのは違うよね。 あまり違わない。
論理的な文章の場合は、普通は○○ではなく△△と言いますがとか、ここは文がねじれています、「……」のようにしてはどうですかとか、代案を示すこともある。
小説などは難しい。この箇所の趣旨・意図はかくかくしかじかですか、もしそうなら印象が弱いのでもっと濃密に、違うなら誤解を招くので別の表現に、といった感じになる。 >>572
ここわかんないから書きなおしたほうがいいと言うのと、これは間違いだからこう直せというのがあまり違わないってこと? (アンカーが変だけど) 違わない。どう直せばいいか編集者にわかっている場合と、編集者にもわからない (内容がわかりにくいことはわかる) 場合とがあるだけ。
作家・学者先生を説得して直させるのが編集者の仕事だ。
彼らは想像力・思考力は並外れているが、日本語の表現が完全なわけではない。 同じことがわからないのに、何故違わないと言えるんだ? >>571
> 同じことがわからないのに
「同じであることが……」の誤りだろう。
編集者は最初の読者として、納得できる文章にしてもらえればいいわけだから、その点は、直し方がわかっていてもわからなくても全く同じ。
著者が編集者を信頼していれば、修正要求にはたいてい応じる。
内容がわかりにくかった場合、編集者が何となく予想していたのと大きく違う、すばらしい書き直しを著者がして来ることがあって、そういうときは、流石だ、この本は売らねばと思う。 >「同じであることが……」の誤りだろう。
その表現と等価であることがわかるのであれば、誤りではないことになる。 >>573 実際には誤りと見なされ、修正が求められる。
こんなつまらないことに抵抗する著者はいないと思うが、わかるんだからいいだろうと言われたら、「事柄」「事態」「出来事」などと言い換えられない「こと」の前で「同じ-」は使えず、「同じである-」「同じだという-」などが正しいと説明する。 誤りであるとは本人が認めない限りわからないので誤りだとするのは誤りである。 表現されれば本人の手を離れるので、本人の意図と関わりなく解釈され、解釈された内容に表現が合わなければ、誤りと見なされる。
もっとも、編集者は一方では著者本人のことをよく知っており、一方では 1 読者の立場にも立てる。
実績のある編集者に従うのが著者にとっていちばんいい。 意図が不明なのだから、誤りと言うことはできない。
解釈通りの意図である可能性を否定することは誤りだ。 >>577
> 解釈通りの意図である可能性を否定することは誤りだ。
「解釈通りの意図でない可能性を…」の誤りだろう。
出版されてしまうと、著者は解釈に対する抗弁権を一切もたない。
解釈どおりの意図でない可能性は、否定はされないが (できないので)、無視される。それでよい。 解釈通りの意図であれば誤りではないから、誤りだと言う人の説明は誤りである。 著者の意図どおりの解釈を導く表現がなされていなければ、誤りである。
つまり、表現に誤りがあっても著者の意図を解釈できる人でなければ、編集作業はできない。 表現を正しく解釈できるなら、その表現は誤りとはいえない。 >>581 偶然正しく解釈されただけであって、そうならなかった可能性も十分あった。ex. >>571,>>577.
常に正しく解釈されるように表現を直すのが、編集者の仕事といえる。
これで伝わらなかったら読み手の方に問題があると、自信を持って言えなければならない。 つまり、誤りだという表現は、常に正しく解釈されないので表現を直すべきだね。 >>583 読み手の方に問題があると自信を持って言えるので、直す必要はない。 >>585 出版する気はないが、匿名であれネットで全世界に向けて発信する以上、出版するのと同じ気持ちで書いている。
少なくとも私はね。 編集者も査読者も居ないんだから一体何の話をしていた訳? >>587 編集者や査読者が居るつもりでなければ、誤用とか正しいとかいう概念はおそらくない。
しかし、出版する気がないなら「誤用」など存在しないと主張しても、誰も納得しないだろう。
つまり、表現するということは、その時点で相手のチェックを受ける覚悟があるということなのだ。
正常な日本語の読み手は、>>571 や >>577 には誤りがあると判断するか、意味不明として解釈を放棄する。 書き手 あれがクニマスだというのは間違いだ。
編集者 間違いだとは言えない、そこはわからないとか断定はできないと書くべきだ。
こういうことだろ? >>589 語法の誤りはない。
書き手が間違いだとする根拠をもっていて、編集者が読んで納得すれば、そのままでよい。 >>591 しつこい。
編集者が、自分でなければ書き手の意図がわからない人がいるだろうと思ったら、誤用なのだ。
表現することは、相手に意図を伝えようとすることだから、自動的に相手の「査読」を受ける。
そういうことを意識しないのは子供の間だけ。 正常な日本語の読み手は、>>588や>>592には誤りがあると判断するか、
意味不明として解釈を放棄する。
つまり自動的に相手の「査読」を受けない。 >>593 どういう誤りがあるのか絶対に指摘できないし、意味がわからないのは >>593 だけ。
つまり全く「正常」ではない。
「誤用」というものは存在しない、あるいは、話者の意図が聞き手にわからない表現のみを誤用とするという考え方は、異常である。 >>588の説明によればそれが正常だろう。
「意味不明として解釈を放棄する」のと「誤りがあると判断する」のは両立しないからこそ併記されている。
つまり、意味不明な表現の誤りを指摘できることが異常である。
問題は、矛盾があるだけのことを誤りがあると表現していると解釈できる点にある。 >>595
> 「意味不明として解釈を放棄する」のと「誤りがあると判断する」のは両立しないからこそ併記されている。
>>571,>>577 については、誤りがあると判断し、誤りを指摘できれば意味がわかり、誤りがないという前提を動かさなければ、意味がわからない。
誤りがあるかどうかと、意味・意図がわかるかどうかとは、互いに独立している。 矛盾があるから意味がわからない人がいる。
しかし、誤りがあれば矛盾が成立しない。
>>597 誤りがあるからこそ、誤りがないものとして読んだとき (普通の読者の読み方)、矛盾が生じる。
もともと誤りがなければ、矛盾は生じない。
(意図自体が矛盾している場合は別だが) 誤りがあると仮定していたら読み手に矛盾は生じない。
つまり、矛盾を指摘して本人が認めるまでは誤りはない。 >>599 「つまり」が役割を果たしていない。
誤りがないと仮定すれば矛盾が生じ、誤りがあると仮定して具体的に誤りを正したとき矛盾が消えるなら、書いた本人と無関係に誤りがある。 具体的に、矛と盾のどっちが誤りか、言っている本人に聞いてみないとわからないし、本人も多分知らないだろう。
わかったら矛盾ではない。 >>601
> 本人も多分知らないだろう。
つまり趣旨に矛盾があり、読むに値しない、どだい意味不明ということだなw
>>571 は、「同じこと」すなわち「同じ事柄」とは何のことかわからないので意味不明。
>>577 は、だれも「解釈通りの意図である可能性を否定」していないから、「誤りだ」と言われても意味不明。 矛盾がある表現の方が面白いから読む価値があるだろう。
日本人じゃないならわからないかもしれないけどさ。
っていうか意味不明と言ってるんだからわからないことはわかるんだよな。 ネイティブじゃない習得者は、自信がある程、自分にわからない表現を認めたくないんだよな。
たとえば日本人が英語でわからない表現があれば、それは自分の語学力が足らないことになる訳で。
だから教わらなかった表現はわからないと素直に言えば角が立たないのに、あえて相手を間違いだと言ったりするんだろう。
それでとっちめられてもここは匿名だからそれ以上の損害はないし、自分が納得できるように解説してもらえれば儲けもの。
というか、2chで素直にわからないなんて言ったらバカにされて、意地悪されるだけで教えてもらえなかったのかもね。
間違いだと言い切れば、それが確信犯でもわからない奴にはわからないから、間違いがわかる凄い奴だと錯覚させる。 1600レスにおよぶ議論の末
スレタイの問いへの答えはどうなったのか
議論に参加していた各人のこれまでのまとめを報告してください >>606
「ひく」を使うか「おす」を使うかは、現状では伝統的な「ひく」が優勢。
しかし「おす」を使う人もそれなりにおり、それに対する肯定意見も否定意見も
互いに相手を納得させるだけの決定的なものは未だに出ていない。
まあこれが生きた言語というものの最前線の一つなのだろう。 >>606 「押す」を使う人もいるらしいことは認められるが、割合が小さすぎて、誤用の域を出ない。
編集や校正をくぐり抜けて出版物や放送原稿に残った「押す」の例は、まだ報告されていない。 スレタイの問いに「どちらが誤用か」などという文はない。
スレタイの質問文だけでは質問者の意図はわからず答えることはできない。
というのが唯一できるまともな答え。
「引くもの? 押すもの?」から「どちらが正しいのか」という問いだと解釈することは無理ではない。 「どちらが正しいのか」という問いだと解釈したのなら
「言語学ではどちらが正しいのかを決定しない」と答えるのがまともな人。
「あなたは、もしくはあなたの地域ではどちらを言うか」という
言語学的なリサーチを目的としたアンケートという解釈だってできる。
むしろそちらのほうが言語学的だ。 まあアンケートだったとしたら、2ch でやるのは明らかに間違ってるけどなw > 「言語学ではどちらが正しいのかを決定しない」と答えるのがまともな人。
「まともでない」言語学者がウヨウヨ、 * を付けまくってるから。
OK? # でも同じことだよ。正しくないと言ってることに変わりない。
それとも、「リヤカーを押す」というフレーズ自体は日本語として壊れていない、という答が得られれば十分なのか? >>608
割合が小さい、単なる少数という意味しかない場合に、これを誤用と表現されたものが編集をくぐり抜けて出版されたという例は、まだ報告されていない。 言語的に言えば、
rearなのに押すとは此れ如何に
と言った所ではないか? >>618
そう。
だから状況的には“押す”事がメインで使われるのは不自然。 >>619
後部に車輪があるだけで、なんで前部を押すのが不自然になるんだ? 後部に車輪があるから前部に握り棒があって、それを中から押してるんだって説明じゃなかったか? リヤのつかない人力車ならどうなるの。
それに名前からどう行動すべきか決めるなら
靴下は靴を履いてその上から履かないと不自然てことになるな。
いやまてよ、そうしても靴下の一部は靴の上や横にあるな。
それに普通の履き方でも靴の甲の部分の下にはあるから靴下という名前の通りで不自然じゃないのか。
だったらリヤカーの取っ手の部分は押しているから、普通の操作で押すと言うのも問題ないってことになるな。
どちらの名称も一部に関する状態しか言及してないから。
靴下を本当に名前通りの状態下に置くなら、靴を履いて靴下全体を踏んでいないとだめだな。 後ろが重ければ「引く」「引きずる」だ
中に入ってようと前にハンドルがあろうと関係ないだろ >>622
リヤカーはサイドカーに倣ってつけた名前。
それならサイドカーは『横に車輪がある車』という馬鹿げた解釈になる。
リヤカーは『後ろに位置する車』の意味。
人や自転車等で“牽引する”物。
リヤカーを引いてた人を手助けして、後ろから押してあげた
というような状況じゃない限り、押すのは不自然だろ。
>>1のように聞かれれば、何の迷いもなく『引く物』と答えて間違いはない。 久しぶりにあがってると思ったら、グッチーが自演前の口調にしれっと戻っててわろたw >>625
横に車輪があるのは事実じゃないか?
別に解釈はいくつあってもいいけど、倣ってつけたとか由来がそうだというなら文献出してくれないか? >>627
つ語源由来辞典
それに対して疑問が残るなら、語源由来辞典を作成した人に質問してくれ >>628
由来辞典ならなおさら拠典が載っていなきゃおかしいだろ。 >>616
> これを誤用と表現されたものが
「これを誤用と表現したものが」の誤り。
そんなあたりまえのことをストレートに述べても意味がない。
http://clsl.hi.h.kyoto-u.ac.jp/~kkuroda/papers/kuroda-terasaki-nlp16-paper.pdf
http://yoshikawacademia.com/papers/jass26.pdf
これらの論文からは、使用者が圧倒的少数でかつ社会的有力者でもない場合は「誤用」だという趣旨が読み取れる。 読み取るのはあなただからどうでもいいよ。
どう書いてあるかを示しててよ。 そんなあたりまえのことをストレートに述べても意味がない。
正確に読み取った自信がないから示さないのかな? >>629
だからそれを直接当人に言ってくださいな。
ただ、あの内容の何を疑うか疑問だが。 >>634
サイドカーから派生したというのは未確認。
確認できるなら命名者が居ることになる。 >>633 十分意味がある。自分で読んだ方が早い。
長くもないし、難解でもない。
直に読んでわからなければ、説明されてもわからないだろう。 2chから虎が出てくる訳がないじゃないか。
そうか、虎が居るのは2chの外部ってことか。 >>635
サイドカーのように、横に最初はつけてた、
ってのは理解できる?
まぁ、その事実がないとあの辞典には載らないんだが。
何度も言うが、疑問が残るなら、直接向こうに問い合わせて下さい。
貴方が知りたいんでしょ? >>635
リヤカーを発明したのが日本人で、命名したのも日本人
日本人が付けた和製英語
しかし発明者は不明
リヤカーを多く製造してたのは東京、秋葉原
町の発明家がサイドカーの便利さに触発され、大八車の要素も取り入れて作ったのが自然と広がった
サイドカーのようにしては運転しにくいから、サイドではなくリヤに取り付けたためリヤカーと命名
と、調べた限りここまでだな
辞典やリヤカー博物館とか色々見たが
違うと思うならその違うと思う根拠と資料を出してくれ
根拠は100%はっきりしないから
じゃ駄目だぞ
それを覆す位の根拠とソースを持ってきてから、この説を否定してくれ >サイドカーのように、横に最初はつけてた、
意味不明、サイドカーって言われても普通ハーレーみたいなバイクしか想像できないと思う。
アレを後ろにつけたって所謂リアカーとは別物に思える。 最初は人が引くためのものではなく、単車や自転車で牽引するためのものだった。人が枠の中に入ることはもともと想定されていなかった。 じゃあ単なる同名の別物だね。
そうじゃないとすれば、横に付いていたものなら自転車と同じで押せるものということになる。 曖昧でなく、よりわかりやすくいうなら、
どのあたりに視点を持っていきたいかによって、
「リヤカーを引く」か、「リヤカーのハンドルを押す」のどちらかになるが、
「リヤカーを押す」という表現で、「リヤカーのハンドルを押す」、
延いては「通常の操作方法である、ハンドルを内側から押してリヤカーを移動させること」の意味を
文脈に頼る形で曖昧に表すことに、さほど不自然さを感じない人もいることは想像できる。
「エプロンの腰紐を結んで」と言いたいときでも「エプロン結んで」と曖昧に言う人は、ちらほら見つかる。
その表現を「エプロン全体をひも状に絞って結ぶこと」を意味しない限り
一般に誤用と言うのか、のような前提定義の曖昧な問題は、私のあずかり知るところではないけど。 「リヤカーのハンドルを押す」=「リヤカーを引く」、しかるに「エプロンの腰紐を結ぶ」には言い換えが存在しない。
「リヤカーのハンドルを押す」:「リヤカーを押す」=「エプロンの腰紐を結ぶ」:「エプロンを結ぶ」という比例式は不成立。 「エプロンの紐を結ぶ」の言い換えは「エプロンを着る」。
「エプロンの紐を解く」の言い換えは「エプロンを脱ぐ」。
当然「リアカーのハンドルを推す」の言い換えが「リアカーを牽く」でもおかしくはない。 >>642
リヤカーを発明した人が、そんな想像力しかない人ではなかったって事が分かったね^^
あと、何度も言うけど不明な点は語源由来辞典の製作者に問い合わせてね。
その位出来る能力はあるよね? >>643
まぁ、でも大八車の要素を取り入れた事から、大八車のように使うという発想になるのも自然だよね。
発明とは得てしてそういうもの。 リヤカーの発明者
静岡県富士市
望月虎一
ソースもしっかりしてきたので、そろそろサイドカーに倣った事に対して文句ある馬鹿はいなくなるだろう いや、別に興味もないけど、このスレ内だけで異論が無くなれば満足なのかよ。
まあサイドカーに倣えば押すもので解決だけど。 サイドカーは押すとも引くとも言わない
「後ろにつき従わせる」という意味の「引く」を使用語彙に持っていない人が出て来て、「リヤカー/人力車を押す」と言うようになったのだろう
「牛馬/舟/橇/犂を引く」場面は確かに減った。トレーラーや列車なら「牽引する」と言うことが多い >>647
> 「エプロンを着る」「エプロンを脱ぐ」
腰から下だけを覆うものについて、「着る」とは言わないだろう。「脱ぐ」は「?」
関西の人は帽子・マフラー・手袋などを「着る」と言うことがあるから、前掛けも「着る」かもしれないが >>652
サイドカーを押すには二輪車本体の横に付いてハンドル握って押すしかない。
つまりハンドルが本体だ
>>653
ベベは着るで前掛けは付ける。
結局、脱ぐでも取るでも外すでも意味はわかるわけで、語感の問題だな。
腰から下とか変な限定は要らん。 エプロン脱ぐも着るも言うだろ。
自らは言わないまでも、聞いて不自然だと感じる人は少なくないと思うがね。
着ける外すのほうがより一般的だという感じはするけど。 ウヱブ上での會話だつて「書く」「喋る」「話す」等普通に使はれるのだから、細かい事は氣にするな。 胸まで覆う (頭からかぶってつける) エプロンは「着る」「脱ぐ」でもよいが、「エプロンを結ぶ」が「エプロンの紐を結ぶ」の代わりになりうるエプロンは、前掛け型だと思う。 新明解国語辞典より
お・す【押す】
抗し難い・力(勢い)で、じわじわと対象を向こうへ・動かす(動かそうとする)
ひ・く【引く】
(その物の一端を掴んで)自分の手元へ近付ける。
引きずりながら(持ち)進む。
けんいん【牽引】
引っ張・る(って自分の方へ引き寄せる)事。
つまり押す場合は押す物がその“対象”となるわけだ。
リヤカーの前から出ている棒なりハンドル(と呼ぶのか?)を握り押した、というのはリヤカーという“対象自体”を押している訳じゃない。
そしてここで疑問だが、押す方がしっくりくるという人は、
例えばリヤカーの前部分に二人の人が横に並んで入り、お互い自分の脇にある棒を掴んでリヤカーを動かした場合、
それは果たして“リヤカーを押す”事になるのだろうか?
ハンドルのどの部分を握り進もうが、リヤカーを引く、牽引する、とした方が不自然ではないと解釈出来るね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています