項羽と劉邦って言葉通じないよね?
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公用語みたいなもんがあったんかな?
そういうのがないと司馬遷もあんだけのもん残せないような気もするし ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E#.E4.B8.AD.E6.9C.9F.E6.BC.A2.E8.AA.9E
>秦の全国統一によって、中原の言語が各地に伝播した。
>当時、東・東南アジアにおける「国際語」的な地位になっていた。
>漢字の字体が統一され、規範的な字書が作られた。また、科挙試験によって、発音、字体、文法など、規範的な言語の使用が促進された。 >>4
つまり今でいう北京語みたいなもんが秦によって定められたかもたらされたか、
まあそんな感じ?
しかし多民族で言語も多数あるからして、その民族語と国際語のバイリンガルなわけか?項羽も劉邦も 通じないのは当たり前じゃねえの。
出身地が丸で違い、当時なら人種まで違うんだから。 中国は今でも6大方言って形で差異は残っていて
出身地域が違えば筆談しかできん だから、谷を隔てて大声で詈り合ったって逸話はウソだろう。
ウソでなければ、身振り手振りだけで言葉は勝手に言いっぱなし相手に意味はわからない。 「四面楚歌」って知ってる?
項羽が敗走するうちに劉邦の軍に取り囲まれた時
劉邦の軍の兵隊が項羽の出身地楚の歌を歌うのが聞こえた。
つまり曾ての項羽の部下が劉邦の側に付いた。
言葉が通じなければ劉邦の部下の将軍も楚の兵を指揮できない。
今の北京語と福建語ほどの差異はなかった、というのが結論だ。
せいぜい潮州語とアモイ語ぐらいの差だ。
昔シンガポールで日本語を教えてた時
福建人の家庭でも香港のTVドラマを広東語のセリフのまま視聴していた。
放送翌日の日本語教室ではドラマの話題で盛りあがったものだ。 >>12
楚語と楚の音律を楚から降った楚人を中心に何日かかけて練習したんじゃなかったか? >>13 が正解
項羽は「非母語話者発音、沛公之策」と気づかなかった 口頭では言葉が通じないけど漢字によってどの地域でも意思疎通が可能だったんだな。
ヨーロッパでいうラテン語みたいなもんだな。
明治から戦前までの日本語の文語体って、日本語をわざわざ漢文化してそれをさらに日本語に書き下したような文体でおもしろい。
当時の文語体って、仮名の部分をなくして残った漢字を少し中国語の順番に直すだけである程度中国でも通じる文章になるのな。
漢字文化というのは面白いお。 >>21
>中国語の順番に直すだけである程度中国でも通じる文章になる
異議有りだな。
それは漢文と中国語の違いを知らない浅薄な考え。
日本に入ってきた漢語は主として文言(中国の科挙で用いられる文学仮想言語)の語彙。
たとえば【左右】は
日本語で「みぎとひだり」
漢文で「王の左右に控えるもの・・・つまり家来」
現代中国語で「(あるまとまった数字の)右又は左・・・つまり大体、おおよそ」
と3つの異なる意味を持つ。
【敷衍】は漢文や日本語では「陳述其義而引申之=意味・趣旨をおし広げて説明すること」
中国語では
「辦事不切實,僅顧表面應付=することがいい加減、ただ表面的に対応する」
【検討】中国語では「自己批判をする」
【同志】中国語では「同性愛の仲間」
等等日本語と異なる意味で使われていて筆談は不可能
中国語の順番に日本で使われてる漢字語彙を並べても
双方に誤解を生むだけ。
ためしに水滸伝の原文を読んでみろ。
原文と幸田露伴訳『国訳忠義水滸伝』訓読のページ↓
http://kambun.jp/izanai/04-20mondaiten6.htm >>23
ちょっとだけ反論します
読む側の中国語人が古代中国語の知識を持ち合わせてれば上記の意味の違いによる誤解は少ないと思います
見るからに漢文のセンテンスの中に同志って書いてあってそれを同性愛の意で捉える人はいるだろうかということです
でもおおかた>>23のおっしゃる通りです
現代中国語の書き下しについて、正にURLにある幸田さんみたいなことも考えたことがあるけど、確かに無理がありますね
>見るからに漢文のセンテンスの中に同志って書いてあって
今高校卒業程度の中国人では漢文は理解できない。 で、日本語(漢語)は項羽と劉邦のどっちの言葉に近いの? 混ざってる? 項羽の時世の詩
力拔山兮氣蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可柰何
虞兮虞兮柰若何
劉邦の作ったとされる
大風起兮雲飛揚 大風起こりて雲飛揚す
威加海内兮帰故郷 威海内に加はりて故郷に帰る
安得猛士兮守四方 安くんぞ猛士を得て四方を守らしめん
どちらも「兮」という合いの手の辞が入ってるように
楚辞の形式で書かれている。
四面楚歌は漢の高祖が配下の兵に項王の故郷の方言を真似て
楚の民謡を歌わせたというが劉邦自ら楚辞を作ったのなら
項羽と劉邦の言葉、どちらも似たようなものだといえる。
で、上記の楚辞を披露した後に劉邦が言った。
「・・・其以沛為朕湯沐邑、復其民、世世無有所与。」
「キー(又はゴ)、沛をばチンの湯治場とする。そこの民は税金を免除してやろう。」
この劉邦の言葉の中で使われてる「其キ/ゴ」が史記の注釈では
集解風俗通義曰「漢書注、沛人語初發聲皆言『其』。其者、楚言也。高祖始登位、教令言『其』、後以為常耳。
沛人語初發聲皆言其・・・沛の県人の言葉は初めて声を発する時みんな「其キ/ゴ」と言う。
其者、楚言也。・・・・・「其キ/ゴ」とは楚の方言なり
とあって多少の方言はあるがにたようなものだろ。 つかさ、両者の出身地の沛と彭なんてどちらも徐州市で激近なんだが・・・。
話せても不思議じゃないと思うんだが。 劉邦の故郷である沛は、項羽の生まれ故郷の彭から北に40`弱
項羽の潜伏先の宿遷は、項羽の生まれ故郷の彭から東に50`弱
宿遷と沛は70`ないくらい
当時(今もだが)は、彭を中心に文化圏があっただろうから然程差異は無いんじゃなかろうか?
潜伏先で言葉が全く通じないとも思えんし。 客家人の集落なんてあちこちで小さな言語島作ってるだろ
50瓩や70瓩なんてたいしたことない。 >>33 バカなの?死ぬの?
福建人も曾ては中原に住んでいたが西晋の動乱などで
難民化して今の地に落ち着いた。
福建語の下位方言をしゃべる潮州人は広東省内に住んでる。 >>34
つか、項羽は中原ちゃうし、お前何言ってんの? 要するに川一つで言葉なんて変わるし移住しまくってるからワカンネって話? >>36
客家の移住が始まったのは秦時代以降。
当時はしまくってるような状況ではないけどな。 今は東南アジアに客家も潮州も粤も閩も移住して住んでるぞ。
こちらは経済難民だが。 そもそも >>1 はなんで言葉が通じないと思ったんだろう。
そっちのほうが不思議だ。
>>39
今の話をしても意味無いだろ。
城内に住むのが当たり前の都市国家だった当時とは事情が違うんだから。 >>39
客家の移住が本格化したのは後漢末期三国時代から西晋の動乱以後、華北で戦火が絶えず異民族に蹂躙されその戦火から逃れての話だからな。
そもそも項羽と劉邦とは時代が違う。 お互いに、
訛りのきっついやつやな思いながら、
話ができたんじゃないの。
できなかったら、地域差でなく階級差でないの。(一応貴族対どうみてもやくざ) >>30-31辺りで結果出たからじゃね?
それ以前は同じ地域出身ってこと無視して歴史的地理的背景なしに話が進んでたし 三国志の孫呉なんて全く通じなかったんじゃいの?
華北からの移住者もいただろうけど >>48
項羽も劉邦も同郷
孫策と周喩が言葉通じないって話か? どちらも楚王に仕えてたんだから何度も会ってるだろう。 孫呉の住民と華北の住民が言葉が通じたかってこと
話し言葉の発音は違うわけだから よく調べろって、既に無職のお前のおつむじゃ工場調べるだけ無駄だろ。
自然放射線か中国人作の餃子で項羽が死ぬって言うのかよ、その体型は教祖にもほどがあるだろ♪ >>52
どちらも孫呉の住民だから通じるだろ
二人とも楚国内で華北じゃないんだし そもそも彼の大陸は色んな民族の雑居地帯だからね
漢字族だけが黄河流域にいたわけじゃないし 諸葛亮と孫権が会見した時も言葉通じたのか怪しい
史記や論語の内容を鵜呑みにしてる人って痛い人に思えてしまう >>56
都市国家だった当時は城内に住んでりゃ、漢民族か漢化された異民族だよ。
>>57
統一国家があった時代だからな出世を目論む上流階級の人間なら双方とも訛りはあっても多少なりの朝廷での言葉は理解してるだろう。 城塞都市の内側に住んでた住人が
出自に関係なく夏華人と称してたわけか シナ語の上古音の発音て
モンゴル語やテュルク語みたい >>57
諸葛亮みたいな天下の秀才と仮にも王者の孫権が宮廷言葉がしゃべれなかったと申すか? 今のような中国語諸方言 (実際はシナ語族諸言語) に分かれたのは、隋唐帝国以降と考えられている。
それより前は意思疎通はできたんじゃないか。 前漢末〜後漢の文人揚雄が書いたと言われる『方言』について調べればいい。
「通語」という概念も出てくる。
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