最近『が』の使い方がおかしい人が多いよね。
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>>46 そのとおり。「-てもらう」「-ていただく」は本来ヴォイス (態) の形式。
ただ、「て」が入るという特異な形をしているために、脱範疇化が起こり易い。 ヴォイスだけど受動というより使役じゃないかなあ。
動作の対象は「理解してもらう」人の「側」の何かなんだろうけど、その人そのものとは限らない。
その人が受益者となるわけだが、同じ受益表現の「〜てくれる」と比べると、
「幹事が三次会を中止にしてくれた」の場合は三次会の中止について話し手から幹事に対して
働きかけがあったとは限らないが、
「幹事に三次会を中止にしてもらった」の場合は何らかの働きかけがあったと思う。
「てくれる」には受動の性質があるのに対し「てもらう」には使役の性質が強いのではないかな。
>>47
日本語の場合ヴォイスやテンスやアスペクトには確かに助動詞的接辞か
いわゆる連用形接続の動詞由来の派生接辞によるものが多いが、
アスペクトやアクツィオンスアルトなら「ておく」「てみる」「ている」といったものがある。
「テ形+補助動詞」はヴォイスの中では特異だが、文法範疇全体から見れば特異でもなんでもないだろう。 >>48 「V-てくれる」は視点の取り方が特異 (「*私が V-てくれる」と言えない) だが、それ以外の例では
V の動作主と「V-てくれる」全体のガ名詞句とは一致する。ヴォイスではない。
「V-てもらう」が受身的か使役的かは確かに問題だ。ただ、V の対象が全体のガ名詞句である場合、
・太郎は次郎に {φ/?自分を} 助けてもらった。
・太郎は次郎に {φ/*自分を} 助けられた。
・太郎は次郎に {*φ/自分を} 助けさせた。
「V-てもらう」の振る舞いは、やはり使役より受身に近い。
「V-ておく」「V-てみる」「V-ている」いずれも、V の動作主と全体のガ名詞句とは一致する。
一致しない「V-てもらう」「V-ていただく」「V-てある」「V-てほしい」の特異性は動かない。 花子が太郎に結婚していただいて
花子が太郎に結婚されまして
花子が太郎に結婚されて
花子は太郎に結婚していただいて
花子は太郎に結婚されまして
花子は太郎に結婚されて 太郎が結婚する相手は花子ではない。その限りにおいてはどの文も適格。
日本語の「結婚する」は対象の「-を」「-に」をとらない。相互動作の相手の「-と」をとる。 娘は貴方に結婚していただいて幸せだったと思います。 >>54 相互動作じゃない、「貴方」の意思だけで決められる「結婚」なら OK かな?
現代では珍しいケースだと思うが、それでも「貴方と結婚できて」で十分ではないか。
「娘はあなたに一緒に遊んでいただいて……」のようなのは OK。しかし、「*-と一緒に結婚する」とは言えない。
やっぱり「結婚していただく」全体のガ格名詞句は「結婚相談所」だろうw むしろ「あなたが好きだ」を「あなたを好きだ」というように、
目的格に「が」ではなく「を」を使う傾向が欧米語の影響で強まっているのではないか?
欧米語の目的格の意識があるから、欧米語の目的格にあたるところには何でも「を」を使うのが正しいという意識が生まれる。
そして、そういう人は古くからある日本語本来の「が」を、「最近出てきた言葉の乱れ」のように非難する。 >>55
感謝だからだろ。
「貴方」に敬意を表している。
この場合の娘は、その辺のお嬢さんではなく、自分「の」娘であって、
結婚とは(親から見れば)娘を手放して相手と結ばせた事を意味する。
憲法のいう結婚が日本語の結婚ではないのは、その他の条件が健在なことでわかる。 >>57 そういう意図を表したいなら、「私共は貴方に娘と結婚していただいて……」となるだろう。
>>54 だと、結婚するかどうかは全く「貴方」の意思にかかっていて、「娘」には決定権がなかったことになる。 >>49
「〜てある」はアスペクト、「〜てほしい」はモダリティの中でそれぞれ「特異」だというわけだ。
ならばヴォイスの中での「〜てもらう」「〜ていただく」の持つ特異性「だけ」が際立っているというわけではないね。
「画が 掛けてある」/「[誰かが 画を 掛け]て ある」
「私は 君に 来てほしい」/「私は [君が 来]て ほしい」
「私が 国民の皆様に 理解していただく」/「*(私が) [国民の皆様が 理解し]て いただく」
特異性の内容は共通している。それぞれ斜線の右が脱範疇化した構文。
今のところ右下だけが非文法的ということになっているが、埋まっても理論的にはおかしくない。
ちなみに、「-てある」は「-ている」と違って、前に来る動詞がかなり限られている。アスペクトの体系の中にあるとはいい難い。
また、「-てほしい」はモダリティではない。「-てほしかった/-てほしく ない/-てほしい だろう/-てほしい か?」等、
普通の形容詞と変わらない振る舞いをする。 >結婚するかどうかは全く「貴方」の意思にかかっていて、「娘」には決定権がなかったことになる。
娘が結婚したがっていたら、当然「貴方」の意志一つ。
しかし、この場合「幸せだった」と思っているのは娘でないので関知しない話だ。
結婚が事実として存在すれば問題ない。 > 娘が結婚したがっていたら、当然「貴方」の意志一つ。
過程はどうあれ、最終的には互恵ととらえられるから、一方的な恩恵を表す
「?(ガ格主が自分と) 結婚して {もらう/いただく}」という表現は成り立たないと思う。 貴方がどうとらえたかなんて関係ないんだよ。
親から見たら自分が結婚を認めた時点で結婚だ。
駆け落ちなんて誘拐同然といえる。 個人のとらえ方なんて関係ない。
「結婚する」という動詞が相互動作というカテゴリに入れられた時点で、この語自体に文法的に設定されたとらえ方だ。
「>>54 のようなことを言いたい」と主張しても、「意図はわからなくもないが、変」としか反応されない。文法が優先する。
そんなことで責任をとって結婚して "いただいて" 女性が幸せだと思うか?
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2008/0428/180905.htm
陣内や周囲、果てはメディアまでやたら紀香を持ち上げて、「結婚していただいた」みたいな状態になっていたのが、不自然極まりなかったです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1242860312
あえて変な言い方をしているから引用符が付いている。正常な語感といえる。 >そんなことで責任をとって結婚して "いただいて" 女性が幸せだと思うか?
「貴方」自身がそう疑っていたからこそ、彼女の親がそれを否定したんだろ。
まあ結婚する時に貴方が、彼女を僕に "ください "と言ったかどうかは知らないけども。 >>60
アスペクトやモダリティといった文法範疇の有無の認定はその機能
意味によるのであって、形式が文法化されているかどうかによるのではないよ。
英語で「〜てほしい」や「〜たい」に使われるwantは普通の動詞であって法助動詞の形式ではない。
「てある」の制約はそれが文法現象と認められている以上、汎用性の狭さは関係ない。 >>67
> アスペクトやモダリティといった文法範疇の有無の認定はその機能
> 意味によるのであって、形式が文法化されているかどうかによるのではないよ。
形式が文法化されているかどうかによる。
例えば英語の法助動詞には、人称変化せず、過去形が過去の事態を表さないという明確な文法的特徴がある。
> 英語で「〜てほしい」や「〜たい」に使われるwantは普通の動詞であって法助動詞の形式ではない。
だから want をモダリティと考える英語学者はいない。
> 「てある」の制約はそれが文法現象と認められている以上、汎用性の狭さは関係ない。
「-u」「-ている」と対等に体系を組むとはいえない。
英語の現在進行形は現在形とほぼ対等だが、'be going to-不定詞' や 'be to-不定詞' はそうではない。 「娘はあなたに娶っていただいて……」と言えば、文法的には問題がない。「娶る」は「-を娶る」で相互動作ではないから。
英語の 'have to' は、意味が原義を離れ、機能は must や should (shall の過去を表さない過去形) に近づき、音形も崩れている ([haeft∂])。
しかし、人称変化を保ち (he has to...)、'had to' が過去の事態を表すなど、まだ文法化していない。それで「準助動詞」と呼ばれることがある (らしい)。 >>68
wantはムード(文法化されたモダリティ)形式でないというだけで、
そこにモダリティが存在しないとまで言う英語学者は存在しない。 「結婚する」は、一夫一婦制が採用された近代以降に広まった語だ。それで相互動作 (「別れる」「戦う」「喧嘩する」「-合う」等) のカテゴリに収められたのだろう。直接受身「*結婚される」はとれない。
この制度は、互いに独占的にセックスする権利を意味するから、互恵的と解釈される。一方的な恩恵を表す「*結婚してもらう」も言えない。 >>70 英語学ではふつう、動詞に含まれるムード (Mood) と、助動詞によるモダリティ (Modalities) とを明確に区別する。
だから、"I want money." の want は直説法 (Indicative Mood) で、この文にモダリティはない。 先頃結婚された王子は大変満足された様子で帰っていきました。 娘は貴方に結婚していただいて幸せだったと思います。
(私は)貴方に結婚していただいて娘は幸せだったと思います。
ここまではいいよな?
(私が)「貴方」と結婚したわけじゃない。
「結婚して」は、男側なら「嫁にきて」とか、女側なら「お嫁にもらって」と言い換えることができる。
「一緒になろう」という意味の「結婚しよう」と勘違いしていないか?
あとは、「嫁にやった」立場として、嫁に「もらっていただいた」と言い換えられるような婿だと
思っているかどうかで、言えるかは決まる。 「娘」と「貴方」しか登場人物がいないなら、直接受身だな。
>>76
> (私は)貴方に結婚していただいて娘は幸せだったと思います。> ここまではいいよな?
ダメ。
まず、「私は『……』と思います」の「……」に、「貴方に結婚していただいて」は入るのか、入らないのか。
入るのなら、「貴方に結婚していただいて娘は幸せだった」と、カギ括弧の中には 2 人しかいないことになる。2 人の間で「*結婚して {もらう/いただく}」は不可。
入らないのなら、「貴方に娘と結婚していただいて」と、「娘と」を出さなければならない。
「私は、貴方に娘と結婚していただいて、『娘は幸せだった』と思います」
しかし、「私は、あなたに……ていただいて、『 X 』と思います」の X として予測されるのは、「私自身が幸せだ (った)」という趣旨の表現だ。「娘は幸せだった」は適しない。 最小不幸社会は国民の皆様に理解していただいて実現したいと思います。
(私は)国民の皆様に理解していただいて最小不幸社会は実現したいと思います。
この文が示しているのは手順だよね。 実現の前に理解がある。 (私は) 「国民の皆様に理解していただいて最小不幸社会は実現したい」と思います。
まだ理解されてない。 カギ括弧なんか無くても理解できるんだよ。
おかしな法則に縛られてなければね。 カギ括弧は自動的に付いている。
さもないと、本当にあったことと、思うだけのこととの区別ができない。
「結婚する」は (「-てもらう」も含めて) 直接受身はとれない、間接受身はとれるが「-と」が残る、と考えれば
簡単に説明がつく。 自動的に付いているのなら暗黙に区別できるので付ける必要が無いということだ。
意味がとれないということは、そこに区切りがあるのがわかるということ。 > (私は)貴方に結婚していただいて娘は幸せだったと思います。
どこに区切りがあるのか考えなければならない。意味がとれないから。
要するに、釣り合いのとれない結婚だったってことだろ。
娘は劣っていて、婿は優秀だったと。
しかし、娘にとって屈辱的な言い方をする親は、もうあまりいないんじゃないか。 屈辱的ってなにが?お嫁さんに「していただいた」事?
むしろ謝りにでもきた婿を逆に慰めている感じだけど。
まあ、「娘は幸せだった」と過去形で言う意味だよな。 まあ、そういう演出をして遜るという表現法が日本語にはあったけど、
駆け落ちとともに今は流行らないよ。 後席はシートが後ろに倒せない
↓
後席のシートが後ろに倒せない
の、「後席の」を主題にしただけなので無問題
「後席のシートを後ろに倒せない」とも言える。
「後席は後ろにシート {?が/を} 倒せない」なら (「後ろに」に焦点がある) 「を」のほうがいいような気がする。 シートが後席は後ろに倒せない
「後」が被るから順番入れ換えたんじゃないの? 「シートが後席は後ろに倒せない。?前にだったら倒せる」この語順では「後ろに」に焦点を置きづらい。
「後席のシートが…」から「後席の」を主題化したと考えるなら、「後席は」が文頭に出ず「シートが後席は…」になっている、という説明にはやや無理がある。 >>88
可能形を対格で表現しちゃうぞ派の人か。
俺は能格派なんで「倒せる/倒せない」などの可能動詞がくる場合は「が」をとってしまいたくなる。
ので、「後列のシートが」に違和感を感じない。
ちなみに「見える」とかの感覚動詞も対格で表現しちゃう派の人?
「山を見える」とか「犬を怖い」とか >>93
> 可能形を対格で表現しちゃうぞ派の人か。
対格も主格も使う。
> 俺は能格派なんで
日本語には能格的現象はあるが能格はない。「シートが倒れる」「人がシートを倒す」であって、「*シートを倒れる」「*シートが倒す」とは言わない。
> ので、「後列のシートが」に違和感を感じない。
「シートを 後ろに 倒s-」の「後ろに」のような、語幹だけにかかる副詞類があって、そこに焦点が置かれていると、語幹のとる格補語「-を」を残して、「[後ろに シートを 倒s] eる」と言いたくなる。
> 「山を見える」とか「犬を怖い」とか
「見える」の語幹は「見え-」であって「*見-」ではない。「見え-」は「-を」をとらない。
形容詞語幹「怖-」は「-を」をとらない。 >>94
可能や希望の表現を能格的表現で表すのを能格派って読んでるんで、ま、通じるんならいいでしょ。
94は見えるや怖いなどの感覚動詞は対格をとらないらしいんだけど、
むちゃくちゃ進歩してる日本語使ってる人は使うよ。
そこまでいかなくても希望の表現「〜たい」に対格を使う人は、もうちょっと多い。
「私は水が飲みたい」←→「私は水を飲みたい」 しかも国文法の定義で細かく言うと、可能動詞は独立した単語であり自動詞だから
「倒せる」は本来対格をとらないはずなんだけどな
国文法の分類自体がまやかしだといえばそのとおりなんだけど >>95
> むちゃくちゃ進歩してる日本語使ってる人は使うよ。
2 重ガ格の忌避だな。一方で 2 重ヲ格禁止規則は緩んでるから不思議だ。
> 「私は水が飲みたい」←→「私は水を飲みたい」
可能「-e-〜-られ-」の場合と似た特徴を示す。
語幹「飲m-」だけを修飾する副詞類に焦点があると、語幹がとる格補語「-を」が残りやすい。
「水 {を/*が} がぶがぶと飲みたい」 (森山卓郎『ここからはじまる日本語文法』に類例あり)
>>96
> しかも国文法の定義で細かく言うと、可能動詞は独立した単語であり自動詞だから
「自動詞」とは定義していないと思う。 >>97
> 「水 {を/*が} がぶがぶと飲みたい」
* は間違いだった。不可とまではいえず ? ぐらい。 >>97
>「自動詞」とは定義していないと思う
そうなの?
でも可能動詞「倒せる」の語幹を「倒s-」とは分析しないはず ちょっと話がそれすぎた。
本題にもどると、
動詞「倒せる」はガ格をとるのが一番ニュートラルな形なので
「後列はシートが後ろに倒せない」っていう文の「が」の使い方は別におかしくない
「後列はシートを後ろに倒せない」って言う文は、むしろ特定の意図を持った言い回しの時にしか現れない
やや特殊な形
>>99
> でも可能動詞「倒せる」の語幹を「倒s-」とは分析しないはず
そりゃそうだ。学校文法はローマ字を読めないから。
つまり、ガ格は完全にニュートラルで、どんな場合にも使えるのか、それともヲ格のほうがよい場合 (ガ格も不可ではないが) があるのか、という問題。 「名古屋とラインが持てる」も可能動詞のガ格の問題か。
つまり両方とも可能動詞にヲ格をとるのが標準で、ガ格をとりたくないって感じる人が増えてきたって証拠なんだな。
>>1を筆頭に。
何が原因なんだろう?
二重ガ格の忌避が原因にしても、両者の例文で二重ガ格なんて出てきてないし。 >>101
>> でも可能動詞「倒せる」の語幹を「倒s-」とは分析しないはず
>そりゃそうだ。学校文法はローマ字を読めないから。
「○行××活用」の「○行」というのは語幹の頭子音を反映したものなのだから、
実質上は「倒s-」のような分析をしていると考えるべきだろう。 >>102 格は動詞が潜在的に支配するもので、日本語の場合、文脈でわかれば省略が自由だ。
「名古屋とラインを持t」u 動作主、「後列のシートを後ろに倒s」u 動作主は、いずれも潜在ガ格 (X ガ) だから、
「(X ガ) 名古屋とラインが持てる」「(X ガ) 後列のシートが後ろに倒せる」と解釈されれば、2 重ガ格になる。
そうでなくて、「持てる」「倒せる」は潜在ガ格をニ格に転換する、すなわち「(X ニ) 名古屋とラインが持てる」
「(X ニ) 後列のシートが後ろに倒せる」と解釈されれば、2 重ガ格ではなくなるが、
「??誰に英語が話せますか」はほとんど不可で、「誰が英語が話せますか」あるいは「誰が英語を話せますか」のほうがはるかによい。
>>103-104 「語尾」の「頭」子音と言った時点でダメ。語幹末子音なのだから。 >>105
なるほどねー。可能動詞や希望の表現が感覚動詞からだんだん離れて行ってる過程なのか。
「誰に山が見えますか」「誰が山が見えますか」は、まだ普通なんだけどな。
「見る」←→「見える」に対して
「話す」←→「話せる」の方が同単語の異形態だという認識が強まっているのかもしれない >>105
103-104 だが、あわてて変な事書いたw
そうそう、語幹末子音と言いたかった。 >>106
> 「見る」←→「見える」に対して
> 「話す」←→「話せる」の方が同単語の異形態だという認識が強まっているのかもしれない
「話す」と「話せる」とは意味が違うから異形態ではない。渡辺実氏と同じ誤りだ。
普通、「見える」は辞書の見出しに立つが、「話せる」は立たない。
もともと別物だと直観されている。比較すべきではない。
>>107 学校文法はあくまで「語尾」ととらえている。
「倒s-」という分析はしていない。 >>108
「話す」と「話せる」は異形態ではない ... 「話せる」は独立した単語だという認識
「話せる」は辞書の見出しに立たない ... 「話せる」は独立した単語ではないという認識
どっち? >>109 どっちも間違い。
「話せる」は 1 語ではないという認識。 >>110
ああなるほど、「話す」に仮想的な可能形接辞「eる」のよなものが付属したものって認識か。
じゃあ異形態じゃなくて、「仮想的な接辞追加」とでも読み替えてくれ。趣旨は同じだよ
>>111 仮想的ではなく実在し、生産的なので可能動詞はいちいち辞書に載せない。
「異形態 (Allomorph)」とは、同じ語または形態素が持っている複数の形を言う。
当然意味や機能は同じでなければならない。 >>112
そうか、じゃ、こんな感じな。
「見る」←→「見える」は異なる単語という認識だけど
「話す」←→「話せる」はそうではなく、
単語「話す」に実体を持った接辞「eる」が付属された形だと認識されるようになった
主たる動詞「話す」と接辞「eる」の結合力がだんだん弱くなったので、
「後列のシートを後ろに倒す」+「eる」という結合を取る人が多くなって
「後列のシートが」+「後ろに倒せる」という結合を不自然に感じるようになった
そして>>1の質問に到る、と。 シートの認識の差じゃないの?
布切れなのか椅子なのか >>28
「寂しさが感じた」とか「服が売っている」というのは、自他の区別が崩れてきているんじゃないのか?
新しいサ変動詞には、自他両用のものが少なくない。
「近似する」という面白い例もあって、これは普通は自動詞として使うが、科学技術関係の文脈ではもっぱら他動詞として使う。
そのせいか、「ハードディスクが認識しない」などと言ってしまう人が少なくない。
OSが周辺機器を認識するということの意味を知っている人であれば、たちどころに非文と感じる用例だが、
意味不明の専門用語として使っている人は、「認識する」が自動詞でも不自然に感じないのだろう。
>OSが周辺機器を認識するということの意味を知っている人であれば、たちどころに非文と感じる用例だが、
あなたがわかってない。
OSは下請けで、主の命令に従うものにすぎない。
つまり、地方が(総督を)認めないというようなもの。 >>116
スレチだけど、まさかOSが周辺機器の下請けだとでも思ってる?
ユーザーやアプリケーションソフトウェアから見れば下請けと言える面が大きいけど、一方で特権と責任を持っているのも事実。
まして周辺機器から見れば、割り込みをかけるのが精一杯だ。 主が誰で地方が誰で総督が誰のアナロジーなのかはっきりさせてくれ 主=オペレータ
総督=オペレーティングシステム
地方=ハードディスク 何をどう誤解しているのか何となく見えてきた。
OS(とデバイスドライバ)は、周辺機器に信号を送ってみて、どんな機器が接続されているか調べようとする。
ところが、OSの知らない識別コードが返ってきたら、そのデバイスをどうやって動かせばいいのか分からない。
ひどい場合にはデバイスの存在自体を検出できないこともある。
あるいは、あるデバイスが別のデバイスを隠してしまうこともある。一昔前はよくあった。
これが「○○を認識できない」ということ。 >>121
総督の言葉が通じていないから、植民地が上手く経営できないのさ。 結局、誤解をしているというのが誤解そのもの。
蟹とドーナツの食べ方位はわかるよ。 >>115
「ハードディスクが認識しない」と言う人は「ハードディスクが認識する」との言い方もしているのかな? 同じ服が(安く)売っている
ハードディスクが(全然)認識しない
寂しさが(ひとしおに)感じた
とりあえず(ビールを)飲んだ 助詞の使い方には言語に対する感性出るな
>>1の言う感覚の違いを全然わからない人が増えてる
小説家にでもなるんでなければ、別に構わないとは思うが 状態を表す言葉の前に「〜が」が付くな。
「ラインが持てる(状態にある)」
「シートが倒せない(状態にある)」
「ピーマンが好き(な状態にある)だ」
「国語が得意(な状態にある)だ」
「頭が痛い(状態にある)」
「将来が楽しみ(な状態にある)だ」
名詞や形容詞には違和感なく「〜が」で済む。
動詞も可能な“状態”を表す可能動詞なら「〜が」でOKなんだろう。 >>7
逆のような気もする。
「シートが後ろに倒せない」における文意の力点は「シート」、
「名古屋とラインが持てた」における文意の力点は「ライン」、
「象は鼻が長い」における文意の力点は「鼻」にあるんじゃないかと。
>>129
> 「名古屋とラインが持てた」における文意の力点は「ライン」
焦点は「名古屋と」にありそうだから、「ラインを」のほうがいいように感じる。
「ラインが」がダメだとまではむろん思わないが。 を持てた だと、なんかモノを持ってる感が出るんじゃないかなあ?
が持てた なら、なんかモテモテ感がするみたいな。 「彼とテレビが見られる」「彼とテレビを見みられる」
の二つの表現の意味の違いを説明できる日本人はいるの?
後者はテレビを見ているが、前者はテレビを口実に彼をみている。 最近では、「が」よりも「を」のほうに「焦点」があると感じる
日本語話者が多くなってきたのかなあ。 かれとてれび◯ みられるの
かれとてれび◯ みられるわ
「が」は自動的、自然発生的
「を」は他動的、人為的、意思的 「見られる」を例にするのはやめてほしい。
40台半ば東京出身だが、おれは既に(昔から?)
可能の表現は「見れる」じゃないと違和感を覚えるようになった。 「見られる」と「見れる」では意味が多少違うという説もある。
「見れる」はおっしゃるとおり可能と能力を表す。
「見られる」も可能を表すが、能力というよりは「享受」を含意している。
>>132 それは確かに難しいね。ただ、
「本当にテレビ {を/(?)が} 彼と見られるんですか?」
やはり、「テレビが」以外に焦点がある場合は、「テレビを」としたくなる。 >>139
面倒をみる機会を与えられて享受できるというニュアンスか? >>140
「彼とテレビが見られる」が普通で「テレビが彼と見られる」が変なのは、
「テレビ」と「彼」とに焦点が二重化してボヤけてしまうから? >>143
1 彼とテレビが見(ら)れる=彼と「テレビが見(ら)れる」
2 テレビが彼と見(ら)れる=テレビが「彼と見(ら)れる」
3 彼と見(ら)れるテレビが=「彼と見(ら)れる」テレビが
「が」の後ろには可能の表現が期待される
2は「テレビが」と「見(ら)れる」の結び付きが弱く感じられる 英語はS+V+O+Cという文法要素が動詞で決定されるから文中の位置が重要
日本語は助詞で修飾関係を表すが修飾語は被修飾語の直前に置かれる鉄則があるので距離が重要 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています