【奄美・沖縄】琉球語/沖縄方言【宮古・八重山】No.2
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前スレがdat落ちしたみたいなので。
政治的な話題はひかえてね。 616年、南島の夷邪玖(イヤク)(流求)人30名、大和朝廷に服属
630年、第一回遣唐使(奄美語通訳付)
698年、文忌寸博士ら8名が武装、南方新領土と新航路発見
677年、天武天皇、種子島島民を近江宮に招宴
681年、天武天皇、種子島島民を再び近江宮に招宴。多彌(タヤ)人(種子島人)、国の地図を
朝廷に献上
682年、九州南部の隼人を近江宮に招宴
688年、東北の蝦夷を近江宮に招宴
699年、種子島、屋久島、奄美、徳之島、、朝廷に宝物を献上(続日本紀)
714年、朝臣・遠健治(とおけんじ)が南島(沖縄)、奄美、信覚(石垣)、球米(久米)の人、
52名を連れ帰る
715年、元旦に元明女帝、奄美、屋久、徳之島、石垣、久米人らの貢物を受ける。蝦夷とともに77名に
位階授与。
720年、朝廷、南島人232名に位を授ける
735年、大宰府、小野高橋を南島に派遣し調査、各地に碑を建てる
753年、唐の高僧鑑真和尚、阿児奈波(オコナハ)島に漂着、16日間滞在、種子島、屋久島、薩摩
大宰府を経由して奈良に到着する
894年、遣唐使廃止。沖縄方言が古代日本語から分かれたのはこれ以降 >894年、遣唐使廃止。沖縄方言が古代日本語から分かれたのはこれ以降
違うだろぉ
琉球語は万葉集とかの上代日本語の子孫ではなく、その時点で既に別物だった
服部四郎の説によれば分岐が始まったのは2000〜1500年前
トマ・ペラールの見立てによればヤマト政権の出現が琉球語の分岐の原因
http://www.academia.edu/2374529/%E6%97%A5%E7%90%89%E7%A5%96%E8%AA%9E%E3%81%AE%E5%88%86%E5%B2%90%E5%B9%B4%E4%BB%A3 九州方言は本来は琉球語サイドと同系統だったと言うよね
そのうち方言連続体からどんどん本州サイドに引っ張られて本州方言化したけど 形容詞の語尾が「〜い(〜き/〜し)」じゃなく「〜か」なところは異言語感ある takaki が takai とtakakaに分かれても異言語感は無いけど いや九州の高かはカリ活用終止形「高かり」の「り」が落ちた形だろ
「であり」が「であ」になったり「たり」が「た」になるのと一緒の変化 沖縄語では 〜やさ 〜やんどー
と言うが、これを大昔は何と言ってたんだろ >>640
琉球方言と近畿方言は確かに1500年以上離れているかもしれない。
でも九州方言との距離になるとかなり近くなるんだよ
九州方言と琉球方言の分離は平安時代と考えるのが適切だ 近畿方言の起源が分からない
日本語の中でも近畿方言は特殊すぎる
関西弁と接するとラテン系の中で発音が特殊で言語障害の王様の言葉が平民化したなどと言われるフランス語を思い出してしまう イミフな事いうなや
近畿方言のアクセントは一番日本祖語に近いで
渡来チョンな訳ないやろ 東北や九州沖縄の奴は自分たちが栄えある縄文人の血を引く正統な日本人やと思ってるからな
関西人はシナチョンの穢れた血の混ざった偽日本人であり劣等民族だといつも主張してる >>650
そりゃあ近畿の言葉を遡って作ってるんだから当然そうなるだろ
それで想定される日本祖語は日本列島の土着語ではないんだぞ >>652
何言ってんだ
日本各地のアクセントは院政期京都アクセントから分化したことが証明されている
しかも日本語日本列島外部起源論とかウリナラファンタジーも大概にしろや
どうみても日本語は日本列島内部で3万年もの間独自に発展したものと考えなければ説明がつかない程近隣の言語からかけ離れすぎ! 近畿方言は弥生時代の大和地方で産まれた特集な訛りだろうな
出雲のズーズ弁と東北のズーズ弁は近畿方言の大和文化によって分断された
関東も九州も近畿方言に同化されて古の方言は消えてしまった
本土方言話者にとって琉球方言が分かりにくいのは、琉球の言葉が古の九州方言の一分枝だからだ
古代東国方言の直径子孫の八丈方言なんて、琉球方言と同じくらい標準語話者にとって意思の疎通が不可能
古代日本語の方言は、離島を除いて近畿方言の強烈な文化的パワーによって飲み込まれて同化されてしまったという事だ。 >>655
近畿を必死にチョンにしたい変な子さんよ〜
ズーズー弁って別に古代からズーズー弁だった訳じゃないんですよー
上古にあった甲乙2種類のイ段が合流する際に非ズーズー弁では甲種の方に合流したのがズーズー弁では一部(シ、ジ、チ、ヂ)で乙種の方に合流してそれがウ段に似てるので間もなくウ段とも合流した結果でしかないんですよねー
だから(弥生時代頃の言葉からの距離でいえばどっちも同じくらい離れててどっちが古いとかは)ないです >>654
縄文人と弥生人と渡来人が同じ言葉を話してると考える方がよほどファンタジーじゃないですかね >>657
文化と言語はかならずしも一致しない
それは白人と黄色人にまたがるテュルク諸語や白人と黒人にまたがるアフロ・アジア語族を見ても明らかなことだ
だいたい現代日本においてもY染色体ハプログループで見れば最多数は日本列島在来のD1bであり、異民族に乗っ取られたならこれが少数派に転落していなければおかしい
三国史記を見ると倭人が新羅の王の娘を嫁にするために要求してきた事が書かれており、一度目は差し出したが、二度目は拒否したところ攻め込まれて王都を包囲されたということが書かれている
また、日本書紀には新羅が大和朝廷で働かせる采女として女を貢いでいたことも書かれている(古代の慰安婦!?)
つまり倭人は自ら船を駆り大陸へ赴き、韓人女を徴用してきて日本列島に連れて行き混血したというのが真実だ
決して大陸の勢力が日本列島に侵攻して原住民を滅ぼしたのではない 日本の学会はナショナリズムが強いので学説が捻じ曲げられている。
世界的な潮流では、半島から渡来した先進文化人が日本列島の土民を支配した結果、今の日本語と日本文化が誕生したと解するのが普通。
いわゆる関西弁は渡来人訛りの日本語。
ノルマンコンクエストで今日の英語の原型が出来たのと同じで、コリアンコンクエストともいうべき過去の歴史があったのだろう。 \
 ̄ヽ、 _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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r' .ii i; i; ;i .ヽ
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./ iiiiiiiiiii; ii;;;;;;;ii ヽ と思うカービィであった
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半島が先進文化で兄の国だったらなんで劣った弟の国に何度も侵略されて支配されてるんだ
乳出しチョゴリとかトンスルやピョンシンチュムのどこが先進なんだ冗談は顔だけにしろや穢便器族
半島全土すら統一できないのに日本列島を支配とか笑わせんなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 朝鮮人側で書かれた記録ですら
倭人の方から女を要求した(断ったら翌年断交してきて更に翌々年には攻めてきた)と書かれている以上主導権は完全に倭人側にあるってはっきりわかんだね
パヨチョン兄貴は漢字読めないだろうけど以下が該当部分だから読んで反省して、どうぞ
三年 春三月 倭國王遣使 爲子求婚 以阿飡急利女送之
(中略)
三十五年 春二月 倭國遣使請婚 辭以女旣出 嫁 夏四月 暴風 拔宮南大樹
三十六年 春正月 拜康世爲伊伐飡 二月 倭王移書絶交
三十七年 倭兵猝至風島 抄掠邊戶 又進圍金城急攻 王欲出兵相戰 伊伐飡康世曰 賊遠至 其鋒不可當 不若緩之待其師老 王然之 閉門不出 賊食盡將退 命康世率勁騎 追擊走之
(『三国史記』巻2 訖解尼師今) 大和朝廷(天皇家)が奈良に現れて、元々いた出雲朝廷は政権を譲り出雲に移った。その代わりに壮大な出雲大社の建立。
大和朝廷の言葉であるとみるのも妥当だろうな。 類型論的には先進文明を持った支配者側の言葉が原住民に広がるパターンのが多くね?
支配者側が極端に少ない場合は英語みたいに庶民の言語の方がスタンダードになるけど
今の日本人の相貌を見ても縄文人を凌ぐかなりの数の弥生人が入ってきて混血したのだろうし
縄文人の言葉ってアイヌ語みたいなのだろ >>664
だったら何でどう見ても日本語族の一員な琉球語の分岐年代と分布範囲とが大和朝廷の成立時期と支配を受けなかった範囲とに見事に重なってるんですかね
しかも琉球諸島に稲作が伝わったのは12世紀のグスク時代の開始時であって、それまで渡来人(笑)の影響は一切受けなかったことになりますねぇ
この時点で日本語族日本列島外起源論はどう考えても成り立たないってはっきりわかんだね
だいたい琉球人は本土人よりも縄文要素濃いし、別にアイヌとて純粋な縄文人の子孫という訳でなく、(オホーツク文化を吸収した)北方の民族との混血なんだよなぁ アイヌ語が縄文語の後継なのか
オホーツク文化を吸収した時言語交替したのかで変わってくるな >日本語の標準語や他の宮古方言はだいたい 15 個くらいはあるが、大神方言が日本列島の中で最も子音が少ない。
>世界のなかでも子音が少ない言語といえる。その理由は大神方言では有声阻害音 b・d・g・z が無声化し、無声阻害音と合流した結果、子音の数が 3 分の 2 に減ったしまったからである。
>さらにめずらしいのは子音の連続である。日本語には子音の連続があまりないのに対し、大神方言には子音が三つ以上続く単語が多い。
>たとえば「人」/pstu/、「二日」/fkska/、「引っ張 る」/sapsks/のような例である。 もっとも珍しいのは次の特徴である。
>普通の言語では母音を中心に単語が構成されるが、大神方言はその原理に反する。すなわち、母音がまったくない、または声帯を振動させて発音される音も一切ない単語がある。
>これは非常に珍しい特徴で、世界の中でこのような言語は他にモロッコのベルベル・Tashlhiyt語とカナダのNuxalk(BellaCoola)語とHeiltsuk-Oowekyala 語という例しか報告されておらず、アジアでは他にない。
↑
これは驚いた
日本語族の中にここまでものすごい多様性があるということを日本人自体が知らなくて外人の学者に指摘されるとは恥ずかしい
宮古諸島は縄文文化の範囲外でオーストロネシアに近い文化があったというが、実はそれも日本語族話者だったのではないか
>日琉語の担い手は「原グスク文化」とともに 10 世紀前後に到来したと推定されている(安里・土肥 1999, 高宮 2005, Serafim 2003, Pellard to appear)。
>琉球祖語の担い手がその後平安時代まで本土にとどまり、10 世紀前後に琉球列 島へ南下して行ったと思われる。
↑
これは無茶があると思うんよねえ
南九州にはそこまで独自の言語を保てる様な地理的に隔絶された場所は存在しないし
何より上の様な強烈に独特な方言がある通り、琉球語派内での差異は本土との間よりも更に大きい
元々琉球諸島と同様に多様だった本土の日本語族の言語が大和朝廷の成立によって均一化されたが、
琉球諸島ではそれが起こらなかっただけなのだと考えた方が自然なのではないか ミスった書き直し
日本列島の言語の多様性:琉球諸語を中心に(トマ・ペラール)
https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-01289782/document
>筆者が 2007 年より調査している宮古語大神島方言(沖縄県宮古島市)の音韻体系が独特で世界の諸言語と比較してもめずらしい特徴を示している。
>まず、子音の数が非常に少なく、/p・t・k・m・n・R・f・s・V/ の 9 個しかない。
>日本語の標準語や他の宮古方言はだいたい 15 個くらいはあるが、大神方言が日本列島の中で最も子音が少ない。
>世界のなかでも子音が少ない言語といえる。その理由は大神方言では有声阻害音 b・d・g・z が無声化し、無声阻害音と合流した結果、子音の数が 3 分の 2 に減ったしまったからである。
>さらにめずらしいのは子音の連続である。日本語には子音の連続があまりないのに対し、大神方言には子音が三つ以上続く単語が多い。
>たとえば「人」/pstu/、「二日」/fkska/、「引っ張 る」/sapsks/のような例である。 もっとも珍しいのは次の特徴である。
>普通の言語では母音を中心に単語が構成されるが、大神方言はその原理に反する。すなわち、母音がまったくない、または声帯を振動させて発音される音も一切ない単語がある。
>これは非常に珍しい特徴で、世界の中でこのような言語は他にモロッコのベルベル・Tashlhiyt語とカナダのNuxalk(BellaCoola)語とHeiltsuk-Oowekyala 語という例しか報告されておらず、アジアでは他にない。
↑
これは驚いた
日本語族の中にここまでものすごい多様性があるということを日本人自体が知らなくて外人の学者に指摘されるとは恥ずかしい
宮古諸島は縄文文化の範囲外でオーストロネシアに近い文化があったというが、実はそれも日本語族話者だったのではないか
>日琉語の担い手は「原グスク文化」とともに 10 世紀前後に到来したと推定されている(安里・土肥 1999, 高宮 2005, Serafim 2003, Pellard to appear)。
>琉球祖語の担い手がその後平安時代まで本土にとどまり、10 世紀前後に琉球列 島へ南下して行ったと思われる。
↑
これは無茶があると思うんよねえ
南九州にはそこまで独自の言語を保てる様な地理的に隔絶された場所は存在しないし グスク文化の始まりは12世紀後半。
伝承通り沖縄人の起源は源平合戦から逃げてきた人達だろう。
尚氏の起源譚では源氏の末裔となっているが、実際は九州の平家水軍の移住では無かろうか。
源平合戦の後、平氏の水軍勢力が跡形もなく九州から消えている。
琉球に逃げたならば合点がいく。 いやいや
平家の人間が得体の知れない古墳時代以前に分岐した言語を話してるのはどう考えてもおかしな設定だ
琉球語の基層言語も日本語族だったと考える他ない 沖縄の土着は古い時代から住んでる日本語族
そこに源平難民が多数押し寄せて融合したのなら
分岐は古いのに語彙は新しい事の説明が付く 源平時代の九州水軍の水夫達なら言語は九州方言だっただろう。
琉球方言の有力な起源候補の一つ。 琉球神道の祭神に熊野権化が多いのは、
平安時代に京都で熊野信仰が流行っていた
影響では無かろうか?
尚氏を始めとする琉球王族や貴族たちが
平安時代の源平武将達の血を引いていても
おかしくはない >>672
京都の平安貴族の命令をきく位なら言葉が通じてないといかんだろ
それに与那国や宮古の言葉が沖縄本島とはまた大きく違ってることの説明がつかない
きっちりと本土・北琉球・南琉球との間で語彙の一致率がどれくらいなのか、調査するべき
もし北琉球と南琉球の間が本土と北琉球との間よりも大きく異なっていたならグスク時代の開始時に本土から初めて日本語族が南琉球にやってきたという説は成り立たなくなる 奄美方言→薩摩の影響
首里方言→源平難民の影響
南琉球方言→台湾の影響もしくは原琉球方言の直径氏族
こんな感じでは? 宮古語の異様な子音連続や与那国語で子音/j/が/d/に対応する現象がいつからあるのか検証しない限りはっきりは言えんな
ただ孤島だから言語の変化が速く進んだなんて理論はありえないだろう
それはオーストロネシア語族が狭い台湾島内で隣り合っているにも関わらず互いに通じない程大きな差で細かく分岐しているにも関わらずポリネシアでは遠く離れた島々で互いに通じ合うほど均一な言葉を話していることからも明らかだ 宮古語ではパ行が残とーが、最南端与那国語では残てぃーをぅらん。 日本祖語ではヤ行が/d/だったという話がある(アルタイ諸語との比較で/d/と一致する例が多いことからの類推による)
同様に与那国方言のダ行/d/は標準語のヤ行/j/だ
しかし[j]から[d]への直接の移行は非常に不自然さを感じさせる
だがもし本当の祖型が有声破裂音/d/ではなく流音/l/だったとしたら祖型の/l/が同じ流音だが構音点が少しズレた/j/にシフトしたという理論容易に説明がつく
(ベトナム語の漢字音でも同様に/d/が中古漢語での/j/に対応し、上古漢語では/l/であるからこれと同様)
そうすると与那国方言とその他の日本語族とが分かれた年代はマクロ・アルタイ語族(もし存在したとしての話)が日本語と分岐したよりも更に以前ということになる
まさか…な w > b, j > d の fortision は証拠もあったはず >>682
w > b
これは間にvやβが挟まれば自然になる
j > d
一体なんだこれは
中間形態何段階想定する必要があるんだ? 山形弁では語頭のヤ行はシャ行になるんだよ
「山形市」は「しゃまがだす」
d→dj→sh→j くらいならあるのでは? >>683
j (> ʒ) > dʒ は極めて一般的な変化。ロマンス語やギリシャ語での例は知ってるでしょ?
与那国語では、*dʒ > d の変化が、(*ʃ >) *tʃ > t という変化と並行して起こっている: kadi “風”, midu “溝”.
*j > d は借用語でも起こっている: dakkaŋ “薬缶”, ha-dasai “葉野菜”.
*j (> *dʒ) > d が与那国語において個別的に生じたことは明らか。
(*w > b は琉球語派で広く生じてる。
一般的には w > v > β > b もありうるし、 w > ɣʷ > gʷ > b という経路もありうるだろう。)
アルタイ“言語連合”や、それをなすテュルク“語族”、ツングース“語族”、モンゴル“語族”との関係性の証拠に与那国語の d を使うのは誤り。 細かい話は分からんが、
そもそもどの発音が元祖の形なのか証明って出来るの?
長い期間を経て発音が変わって、一周回ってまた戻ることもあるだろうし そういう話ではない。
日本祖語の *j の祖形が *d で、与那国語の d がそれを保存している、という説は不可能だということ。
日本祖語の *j の祖形が *d だ、という説は、そのさらに祖形が *j で、さらにその祖形が*d だという説同様、成り立つ(もちろん証拠がない)。
アルタイ語族? まずそれを立証しなさい。 しっかし摩擦音や破擦音が破裂音になってしまうとか聴覚印象が(摩擦音が一切ない言語が殆どの)オーストラリア原住民の言語っぽい 摩擦音も破擦音も普通にあるので全くそんな印象はない 琉球語派から本土方言が産まれた可能性は無いかな?
祖語の発祥地ほど方言が細かく豊かだから それはどうか分からないが縄文文化が存在せずグスク時代にはじめて日本語族が入ったとも考えられている南琉球において
大多数のO12b(図中ではO2b、日本内地と朝鮮半島とにまたがって分布する)とわずかなD2(ほぼ日本固有の縄文系)とで占められているのは何を示すのだろうな?
https://i.imgur.com/NOpAtsz.jpg
O12bは弥生系のハプログループだといわれているが、八重山を含めた琉球諸島の人々の遺伝子並びに形質は縄文系が強い筈
これはどうしたことか? Yハプロは権力強い方が残りやすいんだから
多数のDを少数のOが支配したら
YハプロはOが多いのにDによく見られる形質が強いという結果になるだろうよ まあ遺伝子の話を言語に持ち込むのは好きな論法じゃないな 関連性が全くない話じゃないわけだし
嫌ならスルーすれば? もっと精緻な議論が出来るのならまだしも
「遺伝子」という非常に繊細で扱いづらいツールを
よく知りもしない門外漢が自説の都合の良いようにそれを使って
牽強付会の主張をするのがどうかと思うという話
まあこんな匿名ネット掲示板の議論なんて誰もまともに取り合わないから
実害は無いんだけどね 馬鹿の話は必ず長い
長文書いてまで何かと戦ってるのは決まっておバカちゃんンゴwwwwwwwwwwwwwwwww 鹿児島弁では「ようこそ」が「ユクサ」になるって、
ここだけ見れば琉球諸語と同じ音韻変化だな。 薩摩人は古の隼人の末裔
薩摩弁は琉球方言と本土方言のピジン言語かもしれない
隼人と言われていた時代の薩摩っ子は原琉球方言を喋っていたのかもしれない 頭のことをカシラでもツブリでもなくビンタっていうのはなんで? 八丈方言でも、九州のカ語尾のように
楽しきゃ 嬉しきゃ と言うし、
九州の こげん、そげん のように こごん、そごん も使う 八丈方言の形容詞終止形のキャは連体形ケに終助詞ワが付いたものだから、
カリ活用由来の九州諸方言とは異なるがな 近世には京坂で「そがいに」、「あないに」などと言われるようになり、今でも全国でコネェ、ソゲェ、アゲンのような言い方がある なるほどのう。そないいうたらそうやのう。
元々そがい言うとったんか。
nに移行しとるだけやのに全然ちゃう感じがしとったわ。
あと、九州の「と」も、いかにも九州独特の疑問符という印象があって、
単純に「の」の変化だということを理解したのはつい最近のことだった。
西日本じゃ普通「ん」になるもんとしか考えてなかったから。
だから九州の「〜と?」圏の人って、その他の西日本人より関東弁の「〜の?」をスムーズに使い易いとかもしれんな 「と」は「の」から変化したのとは違うと思うんですが(凡推理) 高知、石川富山辺りだけ使う「が」はさらに一聴すると意味を理解し難い。〜するが?みたいに言われたら、疑問文なんだなと分かるけど
疑問文以外に「が」入ってくるとね。
こっちは音韻変化ではなく、今も共通語としても使われる「が」と「の」入れ替え可能なものが、本来違う部分にまで適用されてしまった形ながか。
そがい考えると、大昔は日本全国「の」がはっきりと使われちょった言う証になるがか。
この「が」は、九州の「と」は使えない範囲にまで使われるね。 「証なとか。」 とは、言わんやろ。
しかしその代わりに名詞に直接くっつけて 「証とか。」と言うがかな?
名詞に直接付けて「◯◯と?」は聞いたことあるっちゃけど、かなり砕けた言葉なのか、昔から正しい言い方として使われてるのかは分からん >>710
ほうなん?では、どういう成り立ちやと思うとですか? 「行くとよ。」とか初めて聞いた時、変な区切りをして「とよ」って独特だなぁとか思ったもんだが
よくよく考えるとこれ、
普通に「行くのよ。」(=両豊方言での「行くんよ」)と同じで、「の」が「と」になってるだけなんですよねぇ
単純なのに新発見だったんだけど
違うのこれ? 「するの」=「するもの」=「するというもの」
「すると」=「すること」=「するということ」
こういった感じだろうか
これで疑問文もつくれる
「するの?」=「するというもの?」
「すると?」=「するということ?」
「する?」だと、単純にするのかしないのかと訊ねる感じだが、
「するの?」だと「するというものなのか」で、驚きや念を押して尋ねる感じが含まれてくる
「行くのよ」や「行くとよ」は、「(こういう理由で)行くということよ」と説明する感じ 喜界島で話されていた言葉が
おそらく琉球語のルーツの鍵なんだろうと思うが
じゃあその喜界島の住民はいつ頃九州から南下したのかなあ
城久遺跡の官衙では大宰府から派遣された役人が本土の言葉を使っていた可能性が高いが
住民はもっと古い言葉を喋ってたんだろう
琉球語が上代の特徴を残しながら中世の語彙が入ってるのはそのせいかもしれない 喜界島は奄美大島よりも北東にあるのに、何故か奄美語と比べ沖縄語的要素が強いからな 平安時代の京都の史書によると、朝廷が喜界島に命じて奄美など南蛮の賊を掃討させたとある。
恐らく実態は、喜界島の土豪たちが朝廷の許可を得て、太宰府の軍事援助で奄美を始めとする南島諸国を平定したというところだろう。
喜界島の太宰府出張所である城久(ぐすく)と同じ名称の城塞が南島にたくさん作られたのは喜界島住人が沖縄の支配階級になったという歴史的経緯によるのかもしれない。
そうなると琉球語の故地は喜界島という事になる
喜界島の言葉は恐らく隼人語の末裔だろう >城久(ぐすく)
なんで固有語の筈なのに語頭が濁っているのか
本当は頭にもう一音節あったのが取れたんじゃないの? グは新しい接頭辞で、日本語派を介したシナ語派からの借用。
それと、固有語でも語頭が“濁音”になることはある(この概念は使うべきものじゃないんだけど、とりあえず) 喜界島が琉球全域を支配するのは難しくないかね?
いくら何でも小さな小島だよ
西暦894年で遣唐使は廃止されるけれども、実は草の根レベルの大陸交易はその後もずっと続いている。
なぜなら薬草や香などは日本本土で賄えず、大陸からの輸入に頼らなければならなかったからだ。
その当時の九州商人の交易ルートは博多から喜界島、沖縄本島を経て呉越に至るルートが主だった。
喜界島に朝廷の出張所があって、本土と琉球奄美などとの交易や陳情の受付を行っていた。
この喜界島が近世までの日本の主権の及ぶ最南端。
琉球諸国は九州商人との接触や喜界島の政庁との交流で、訛りの強い九州南部の方言を受け入れたのではないかな。
ぐすくが城の意味になったのは喜界島の人たちに習って、政庁を示す一般名詞として言葉を取り入れたからに他ならない。 交流というより入植じゃないのかな
グスク時代には言語だけじゃなくて人骨も本土化していくしね
喜界島で交易や琉球石灰岩台地に適した農業が開発されて人口増加した結果
余剰人口を南に吐き出したんだろう ではなぜ奄美より北東にある喜界島が奄美大島と比べて沖永良部とかの国頭語に近いんだ?
元々奄美ももっと沖縄と同じような感じだったのが奄美大島、徳之島は薩摩言葉が結構広まって純粋な琉球系言語では無くなったが、喜界島はなんらかの理由であまり薩摩弁に侵食されずに元来の琉球語の形を残しているのか? 入植があって人口増加したんなら入ってくるのは薩摩方向からだろうし、謎だな… >>724
喜界島から沖永良部や与論島、沖縄に拡散して行ったから近いんだろうな
奄美大島は喜界島の勢力とは別個だったから土着の方言が残った
面白い事に喜界島・沖永良部・与論島は低島で琉球石灰岩の大地が多く
奄美・徳之島では高島で石灰岩が少ないので
喜界島の農業システムを奄美大島に適応するのは苦労するだろう >>721
おいこらまてい!(江戸っ子)
「グ」が新しい接頭辞で、日本語派を介したシナ語派からの借用だったら元々は何語のなんていう単語だったんだゾ?
もしそれが本当だったとしても残りの「スク」は一体何なんだゾ? >>726 ほう。
古代では大宰府と密接に繋がっていたことが、文献上記録されている。『日本紀略』長徳4年(998年)の記述として、大宰府が喜界島に対して、暴れ回っている南蛮人を捕えるように命じている。
ここで記述されている「南蛮人」とは、西に位置する奄美大島の島民を指しているものと考えられ、『小右記』長徳3年(997年)の記述から判断されている。
また、長徳5年(999年)に大宰府が朝廷に対して、南蛮人を追討したと報告していることからも、喜界島には、それだけの機関や勢力が存在していたと考えられている。
北部喜界島方言(小野津、志戸桶など)は奄美大島方言、徳之島方言とならぶ北奄美方言に属すが、南部喜界島方言(湾、阿伝、上嘉鉄など)は沖永良部島方言、与論島方言とならぶ沖永良部与論沖縄北部諸方言に属すとする説[5]が有力である。
喜界島に強い影響力があったんかね。 >>729
琉球人は縄文人ではなく百済人の末裔だった? >>728
徳之島で生産されてたカムィ焼きが
喜界島を拠点とした貿易体制の中で南西諸島一帯に流通していたようだから
喜界島南部と違って北部の豪族は奄美・徳之島との関係が深かったのかもね
だが喜界島北部の方言が一部集落に限られてるのを見ると
南部の方が元々の喜界島の言葉という気がする >>727
gu- はどう考えても中期中国語 *ngjoX ‹御¹› (> 古典日本語 *go-) からだろう。
suku はわからん。 >>733
いやまて
城久で「久(く)」が送り仮名的な部分なんだから
本体は「城(ぐす)」じゃないのか? 言語学には全くの門外漢だけどいいかな
御宿(ぎょすく)の訛りじゃない 役人や商人が泊まってる集落=御宿ってことかね
ありそうなところだが
漢語だと御塞(ぎょそく)説も捨てがたい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています