【奄美・沖縄】琉球語/沖縄方言【宮古・八重山】No.2
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前スレがdat落ちしたみたいなので。
政治的な話題はひかえてね。 ミスった書き直し
日本列島の言語の多様性:琉球諸語を中心に(トマ・ペラール)
https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-01289782/document
>筆者が 2007 年より調査している宮古語大神島方言(沖縄県宮古島市)の音韻体系が独特で世界の諸言語と比較してもめずらしい特徴を示している。
>まず、子音の数が非常に少なく、/p・t・k・m・n・R・f・s・V/ の 9 個しかない。
>日本語の標準語や他の宮古方言はだいたい 15 個くらいはあるが、大神方言が日本列島の中で最も子音が少ない。
>世界のなかでも子音が少ない言語といえる。その理由は大神方言では有声阻害音 b・d・g・z が無声化し、無声阻害音と合流した結果、子音の数が 3 分の 2 に減ったしまったからである。
>さらにめずらしいのは子音の連続である。日本語には子音の連続があまりないのに対し、大神方言には子音が三つ以上続く単語が多い。
>たとえば「人」/pstu/、「二日」/fkska/、「引っ張 る」/sapsks/のような例である。 もっとも珍しいのは次の特徴である。
>普通の言語では母音を中心に単語が構成されるが、大神方言はその原理に反する。すなわち、母音がまったくない、または声帯を振動させて発音される音も一切ない単語がある。
>これは非常に珍しい特徴で、世界の中でこのような言語は他にモロッコのベルベル・Tashlhiyt語とカナダのNuxalk(BellaCoola)語とHeiltsuk-Oowekyala 語という例しか報告されておらず、アジアでは他にない。
↑
これは驚いた
日本語族の中にここまでものすごい多様性があるということを日本人自体が知らなくて外人の学者に指摘されるとは恥ずかしい
宮古諸島は縄文文化の範囲外でオーストロネシアに近い文化があったというが、実はそれも日本語族話者だったのではないか
>日琉語の担い手は「原グスク文化」とともに 10 世紀前後に到来したと推定されている(安里・土肥 1999, 高宮 2005, Serafim 2003, Pellard to appear)。
>琉球祖語の担い手がその後平安時代まで本土にとどまり、10 世紀前後に琉球列 島へ南下して行ったと思われる。
↑
これは無茶があると思うんよねえ
南九州にはそこまで独自の言語を保てる様な地理的に隔絶された場所は存在しないし グスク文化の始まりは12世紀後半。
伝承通り沖縄人の起源は源平合戦から逃げてきた人達だろう。
尚氏の起源譚では源氏の末裔となっているが、実際は九州の平家水軍の移住では無かろうか。
源平合戦の後、平氏の水軍勢力が跡形もなく九州から消えている。
琉球に逃げたならば合点がいく。 いやいや
平家の人間が得体の知れない古墳時代以前に分岐した言語を話してるのはどう考えてもおかしな設定だ
琉球語の基層言語も日本語族だったと考える他ない 沖縄の土着は古い時代から住んでる日本語族
そこに源平難民が多数押し寄せて融合したのなら
分岐は古いのに語彙は新しい事の説明が付く 源平時代の九州水軍の水夫達なら言語は九州方言だっただろう。
琉球方言の有力な起源候補の一つ。 琉球神道の祭神に熊野権化が多いのは、
平安時代に京都で熊野信仰が流行っていた
影響では無かろうか?
尚氏を始めとする琉球王族や貴族たちが
平安時代の源平武将達の血を引いていても
おかしくはない >>672
京都の平安貴族の命令をきく位なら言葉が通じてないといかんだろ
それに与那国や宮古の言葉が沖縄本島とはまた大きく違ってることの説明がつかない
きっちりと本土・北琉球・南琉球との間で語彙の一致率がどれくらいなのか、調査するべき
もし北琉球と南琉球の間が本土と北琉球との間よりも大きく異なっていたならグスク時代の開始時に本土から初めて日本語族が南琉球にやってきたという説は成り立たなくなる 奄美方言→薩摩の影響
首里方言→源平難民の影響
南琉球方言→台湾の影響もしくは原琉球方言の直径氏族
こんな感じでは? 宮古語の異様な子音連続や与那国語で子音/j/が/d/に対応する現象がいつからあるのか検証しない限りはっきりは言えんな
ただ孤島だから言語の変化が速く進んだなんて理論はありえないだろう
それはオーストロネシア語族が狭い台湾島内で隣り合っているにも関わらず互いに通じない程大きな差で細かく分岐しているにも関わらずポリネシアでは遠く離れた島々で互いに通じ合うほど均一な言葉を話していることからも明らかだ 宮古語ではパ行が残とーが、最南端与那国語では残てぃーをぅらん。 日本祖語ではヤ行が/d/だったという話がある(アルタイ諸語との比較で/d/と一致する例が多いことからの類推による)
同様に与那国方言のダ行/d/は標準語のヤ行/j/だ
しかし[j]から[d]への直接の移行は非常に不自然さを感じさせる
だがもし本当の祖型が有声破裂音/d/ではなく流音/l/だったとしたら祖型の/l/が同じ流音だが構音点が少しズレた/j/にシフトしたという理論容易に説明がつく
(ベトナム語の漢字音でも同様に/d/が中古漢語での/j/に対応し、上古漢語では/l/であるからこれと同様)
そうすると与那国方言とその他の日本語族とが分かれた年代はマクロ・アルタイ語族(もし存在したとしての話)が日本語と分岐したよりも更に以前ということになる
まさか…な w > b, j > d の fortision は証拠もあったはず >>682
w > b
これは間にvやβが挟まれば自然になる
j > d
一体なんだこれは
中間形態何段階想定する必要があるんだ? 山形弁では語頭のヤ行はシャ行になるんだよ
「山形市」は「しゃまがだす」
d→dj→sh→j くらいならあるのでは? >>683
j (> ʒ) > dʒ は極めて一般的な変化。ロマンス語やギリシャ語での例は知ってるでしょ?
与那国語では、*dʒ > d の変化が、(*ʃ >) *tʃ > t という変化と並行して起こっている: kadi “風”, midu “溝”.
*j > d は借用語でも起こっている: dakkaŋ “薬缶”, ha-dasai “葉野菜”.
*j (> *dʒ) > d が与那国語において個別的に生じたことは明らか。
(*w > b は琉球語派で広く生じてる。
一般的には w > v > β > b もありうるし、 w > ɣʷ > gʷ > b という経路もありうるだろう。)
アルタイ“言語連合”や、それをなすテュルク“語族”、ツングース“語族”、モンゴル“語族”との関係性の証拠に与那国語の d を使うのは誤り。 細かい話は分からんが、
そもそもどの発音が元祖の形なのか証明って出来るの?
長い期間を経て発音が変わって、一周回ってまた戻ることもあるだろうし そういう話ではない。
日本祖語の *j の祖形が *d で、与那国語の d がそれを保存している、という説は不可能だということ。
日本祖語の *j の祖形が *d だ、という説は、そのさらに祖形が *j で、さらにその祖形が*d だという説同様、成り立つ(もちろん証拠がない)。
アルタイ語族? まずそれを立証しなさい。 しっかし摩擦音や破擦音が破裂音になってしまうとか聴覚印象が(摩擦音が一切ない言語が殆どの)オーストラリア原住民の言語っぽい 摩擦音も破擦音も普通にあるので全くそんな印象はない 琉球語派から本土方言が産まれた可能性は無いかな?
祖語の発祥地ほど方言が細かく豊かだから それはどうか分からないが縄文文化が存在せずグスク時代にはじめて日本語族が入ったとも考えられている南琉球において
大多数のO12b(図中ではO2b、日本内地と朝鮮半島とにまたがって分布する)とわずかなD2(ほぼ日本固有の縄文系)とで占められているのは何を示すのだろうな?
https://i.imgur.com/NOpAtsz.jpg
O12bは弥生系のハプログループだといわれているが、八重山を含めた琉球諸島の人々の遺伝子並びに形質は縄文系が強い筈
これはどうしたことか? Yハプロは権力強い方が残りやすいんだから
多数のDを少数のOが支配したら
YハプロはOが多いのにDによく見られる形質が強いという結果になるだろうよ まあ遺伝子の話を言語に持ち込むのは好きな論法じゃないな 関連性が全くない話じゃないわけだし
嫌ならスルーすれば? もっと精緻な議論が出来るのならまだしも
「遺伝子」という非常に繊細で扱いづらいツールを
よく知りもしない門外漢が自説の都合の良いようにそれを使って
牽強付会の主張をするのがどうかと思うという話
まあこんな匿名ネット掲示板の議論なんて誰もまともに取り合わないから
実害は無いんだけどね 馬鹿の話は必ず長い
長文書いてまで何かと戦ってるのは決まっておバカちゃんンゴwwwwwwwwwwwwwwwww 鹿児島弁では「ようこそ」が「ユクサ」になるって、
ここだけ見れば琉球諸語と同じ音韻変化だな。 薩摩人は古の隼人の末裔
薩摩弁は琉球方言と本土方言のピジン言語かもしれない
隼人と言われていた時代の薩摩っ子は原琉球方言を喋っていたのかもしれない 頭のことをカシラでもツブリでもなくビンタっていうのはなんで? 八丈方言でも、九州のカ語尾のように
楽しきゃ 嬉しきゃ と言うし、
九州の こげん、そげん のように こごん、そごん も使う 八丈方言の形容詞終止形のキャは連体形ケに終助詞ワが付いたものだから、
カリ活用由来の九州諸方言とは異なるがな 近世には京坂で「そがいに」、「あないに」などと言われるようになり、今でも全国でコネェ、ソゲェ、アゲンのような言い方がある なるほどのう。そないいうたらそうやのう。
元々そがい言うとったんか。
nに移行しとるだけやのに全然ちゃう感じがしとったわ。
あと、九州の「と」も、いかにも九州独特の疑問符という印象があって、
単純に「の」の変化だということを理解したのはつい最近のことだった。
西日本じゃ普通「ん」になるもんとしか考えてなかったから。
だから九州の「〜と?」圏の人って、その他の西日本人より関東弁の「〜の?」をスムーズに使い易いとかもしれんな 「と」は「の」から変化したのとは違うと思うんですが(凡推理) 高知、石川富山辺りだけ使う「が」はさらに一聴すると意味を理解し難い。〜するが?みたいに言われたら、疑問文なんだなと分かるけど
疑問文以外に「が」入ってくるとね。
こっちは音韻変化ではなく、今も共通語としても使われる「が」と「の」入れ替え可能なものが、本来違う部分にまで適用されてしまった形ながか。
そがい考えると、大昔は日本全国「の」がはっきりと使われちょった言う証になるがか。
この「が」は、九州の「と」は使えない範囲にまで使われるね。 「証なとか。」 とは、言わんやろ。
しかしその代わりに名詞に直接くっつけて 「証とか。」と言うがかな?
名詞に直接付けて「◯◯と?」は聞いたことあるっちゃけど、かなり砕けた言葉なのか、昔から正しい言い方として使われてるのかは分からん >>710
ほうなん?では、どういう成り立ちやと思うとですか? 「行くとよ。」とか初めて聞いた時、変な区切りをして「とよ」って独特だなぁとか思ったもんだが
よくよく考えるとこれ、
普通に「行くのよ。」(=両豊方言での「行くんよ」)と同じで、「の」が「と」になってるだけなんですよねぇ
単純なのに新発見だったんだけど
違うのこれ? 「するの」=「するもの」=「するというもの」
「すると」=「すること」=「するということ」
こういった感じだろうか
これで疑問文もつくれる
「するの?」=「するというもの?」
「すると?」=「するということ?」
「する?」だと、単純にするのかしないのかと訊ねる感じだが、
「するの?」だと「するというものなのか」で、驚きや念を押して尋ねる感じが含まれてくる
「行くのよ」や「行くとよ」は、「(こういう理由で)行くということよ」と説明する感じ 喜界島で話されていた言葉が
おそらく琉球語のルーツの鍵なんだろうと思うが
じゃあその喜界島の住民はいつ頃九州から南下したのかなあ
城久遺跡の官衙では大宰府から派遣された役人が本土の言葉を使っていた可能性が高いが
住民はもっと古い言葉を喋ってたんだろう
琉球語が上代の特徴を残しながら中世の語彙が入ってるのはそのせいかもしれない 喜界島は奄美大島よりも北東にあるのに、何故か奄美語と比べ沖縄語的要素が強いからな 平安時代の京都の史書によると、朝廷が喜界島に命じて奄美など南蛮の賊を掃討させたとある。
恐らく実態は、喜界島の土豪たちが朝廷の許可を得て、太宰府の軍事援助で奄美を始めとする南島諸国を平定したというところだろう。
喜界島の太宰府出張所である城久(ぐすく)と同じ名称の城塞が南島にたくさん作られたのは喜界島住人が沖縄の支配階級になったという歴史的経緯によるのかもしれない。
そうなると琉球語の故地は喜界島という事になる
喜界島の言葉は恐らく隼人語の末裔だろう >城久(ぐすく)
なんで固有語の筈なのに語頭が濁っているのか
本当は頭にもう一音節あったのが取れたんじゃないの? グは新しい接頭辞で、日本語派を介したシナ語派からの借用。
それと、固有語でも語頭が“濁音”になることはある(この概念は使うべきものじゃないんだけど、とりあえず) 喜界島が琉球全域を支配するのは難しくないかね?
いくら何でも小さな小島だよ
西暦894年で遣唐使は廃止されるけれども、実は草の根レベルの大陸交易はその後もずっと続いている。
なぜなら薬草や香などは日本本土で賄えず、大陸からの輸入に頼らなければならなかったからだ。
その当時の九州商人の交易ルートは博多から喜界島、沖縄本島を経て呉越に至るルートが主だった。
喜界島に朝廷の出張所があって、本土と琉球奄美などとの交易や陳情の受付を行っていた。
この喜界島が近世までの日本の主権の及ぶ最南端。
琉球諸国は九州商人との接触や喜界島の政庁との交流で、訛りの強い九州南部の方言を受け入れたのではないかな。
ぐすくが城の意味になったのは喜界島の人たちに習って、政庁を示す一般名詞として言葉を取り入れたからに他ならない。 交流というより入植じゃないのかな
グスク時代には言語だけじゃなくて人骨も本土化していくしね
喜界島で交易や琉球石灰岩台地に適した農業が開発されて人口増加した結果
余剰人口を南に吐き出したんだろう ではなぜ奄美より北東にある喜界島が奄美大島と比べて沖永良部とかの国頭語に近いんだ?
元々奄美ももっと沖縄と同じような感じだったのが奄美大島、徳之島は薩摩言葉が結構広まって純粋な琉球系言語では無くなったが、喜界島はなんらかの理由であまり薩摩弁に侵食されずに元来の琉球語の形を残しているのか? 入植があって人口増加したんなら入ってくるのは薩摩方向からだろうし、謎だな… >>724
喜界島から沖永良部や与論島、沖縄に拡散して行ったから近いんだろうな
奄美大島は喜界島の勢力とは別個だったから土着の方言が残った
面白い事に喜界島・沖永良部・与論島は低島で琉球石灰岩の大地が多く
奄美・徳之島では高島で石灰岩が少ないので
喜界島の農業システムを奄美大島に適応するのは苦労するだろう >>721
おいこらまてい!(江戸っ子)
「グ」が新しい接頭辞で、日本語派を介したシナ語派からの借用だったら元々は何語のなんていう単語だったんだゾ?
もしそれが本当だったとしても残りの「スク」は一体何なんだゾ? >>726 ほう。
古代では大宰府と密接に繋がっていたことが、文献上記録されている。『日本紀略』長徳4年(998年)の記述として、大宰府が喜界島に対して、暴れ回っている南蛮人を捕えるように命じている。
ここで記述されている「南蛮人」とは、西に位置する奄美大島の島民を指しているものと考えられ、『小右記』長徳3年(997年)の記述から判断されている。
また、長徳5年(999年)に大宰府が朝廷に対して、南蛮人を追討したと報告していることからも、喜界島には、それだけの機関や勢力が存在していたと考えられている。
北部喜界島方言(小野津、志戸桶など)は奄美大島方言、徳之島方言とならぶ北奄美方言に属すが、南部喜界島方言(湾、阿伝、上嘉鉄など)は沖永良部島方言、与論島方言とならぶ沖永良部与論沖縄北部諸方言に属すとする説[5]が有力である。
喜界島に強い影響力があったんかね。 >>729
琉球人は縄文人ではなく百済人の末裔だった? >>728
徳之島で生産されてたカムィ焼きが
喜界島を拠点とした貿易体制の中で南西諸島一帯に流通していたようだから
喜界島南部と違って北部の豪族は奄美・徳之島との関係が深かったのかもね
だが喜界島北部の方言が一部集落に限られてるのを見ると
南部の方が元々の喜界島の言葉という気がする >>727
gu- はどう考えても中期中国語 *ngjoX ‹御¹› (> 古典日本語 *go-) からだろう。
suku はわからん。 >>733
いやまて
城久で「久(く)」が送り仮名的な部分なんだから
本体は「城(ぐす)」じゃないのか? 言語学には全くの門外漢だけどいいかな
御宿(ぎょすく)の訛りじゃない 役人や商人が泊まってる集落=御宿ってことかね
ありそうなところだが
漢語だと御塞(ぎょそく)説も捨てがたい >>735
suku の語形があって、それを前提にしている。
“宿”は意味的にも語形的にもありうるだろう。 おいおい、「西郷どん」で西郷は奄美に流されてついに奄美ことばが字幕付きで登場したのだが
奄美ことば指導はどんな指導をしたんだか…
最初に出てくるユタの「ヤーぬうとぅぬ、海ぬ向こうからやってきゅんどー」みたいなのは確かに奄美言葉、琉球言葉らしいのだが、
その後の島んちゅ同士ぬ会話を聞いてると全然余裕で薩摩ことばより普通に分かる日本語なんだが…
もちろん奄美言葉も入ってるんだが字幕付いてるのに言ってる言葉も字幕と同じそのまんまが多く、
「何」をヌーと言う時もあったが普通に「なに」と言ってたり、
「〜しとるわけ」だとか、「生きてるがね」だの、完全に現在の共通語が混ざっててさすがにおかしいだろ コレ
薩摩言葉の方が難解なのに字幕付いてないという不思議な状態になってたぞ。
一応村長みたいな人が薩摩の役人と話す時だけその時の共通語みたいな感じでしゃべって字幕が外してあったが、それにしては字幕付いてる時点から分かる言葉ばっかり喋ってるからあまり演出になってなかった http://www.miyakomainichi.com/2016/03/86315/
京都大学大学院博士課程在学中で宮古島の方言を研究しているセリック・ケナンさんが5日、
市中央公民館で自身が作成した宮古語電子辞書がインターネットで閲覧可能になったことを報告した。
同辞書を閲覧するにはグーグル検索で
「WWW.kagimyaaku.jp」。
この電子辞書は、紙ではなくインターネットで閲覧する音声付きの辞書。現在の語彙(ごい)数は約2500個で音声ファイル(発音)の総数は約1万個となっている。
同辞書について、ケナンさんは「消滅危機言語の宮古語を調査していく中で、その結果を整理して一般公開することが課題だったが、それを解決するのがこの電子辞書」と説明した。
さらに「この辞書の特徴は、紙の辞書ではないため、いつでもまたすぐに編集(更新、追加など)が可能。
現在は項目数・語彙数が少なく、間違いも多く含まれている可能性もあり、完成形ではない。多くの人の指摘を受けながら、この辞書を改善して内容を充実させたい」と述べた。
今後については、基礎語彙に対して例文を作成し、各方言で翻訳し辞書に掲載する。さらに、文献を参照しながら調査を継続して語彙数を増やしていくとしている。
そのほかにもケナンさんは、宮古方言は同じ言葉でも地域によってその意味が全く違うことも紹介した。
例として「みゃーらび」は、鏡原では「幼い女の子」。友利では「浮気」となっていることを説明した。
電子辞書には、それぞれの語彙について地域別の意味が記されている。
ケナンさんは「宮古語には多様性があり、意味に違いがある。その違いがあることに意味がある」と述べた。 >>714
古典文法の疑問文が連体形語尾、
または連体形と疑問の係助詞「か」との組み合わせであることを思わせる
連体形は「〜(する)もの/こと」という名詞形を作り、
「か」はその名詞を述語とする疑問文専用のコピュラで、会話文ではよく省略される
特に何・誰ほかの疑問詞が文に含まれる時に 結局、てめえが長々と愚にもつかねえ長レス垂れてる時はうっとり語るくせに
他人にもっと精密な考察を聞かされるとついてけなくて無視するカスw ここで政治的発言してる彼は
沖縄板でアナゴとか呼ばれてる人間です
ムーでも読み過ぎたんでしょう ハートネットTV「故郷の言葉を守りたい〜日本の“消滅危機言語”〜」
【17日夜】100年以内に、世界の言語の9割が消滅の危機にあるといわれている。愛媛県の漁師町で、聴者もろう者も使ってきた宮窪手話、鹿児島県の沖永良部方言…。
故郷の言葉を守る人々の取り組みを紹介し、言語の未来について考えます。[Eテレ]
出演者ほか
【ゲスト】国立国語研究所 副所長…木部暢子,【キャスター】中野淳
2018年10月17日(水) 午後8時00分(30分)
2018年10月24日(水) 午後1時05分(30分) (再放送) 沖縄での文字の普及には、本土と決定的に異なる「ある特徴」があることに気づいた
そしてそれが、琉球語の成立に重要な意味を持つのではないかと考えるに至った
日本の仏僧が来琉した最古の記録は1265年。つまりひらがなの普及はそれ以降だ
最初の中国朝貢は1世紀を経た1372年。使節は科斗文(ひらがな)の書を携えていた
以後、中国との関係の深さは本土より濃厚にもかかわらず、漢字の普及と定着は
むしろ遅れることになる。表音文字のひらがなは覚えやすく使いやすい。これを
使いこなした琉球人にとって、漢字の迂遠さは煩わしかったに違いない
つまり、本土ではまず表意文字(漢字)が入り、口語文が創りにくいことから補完の
ための表音文字(ひらがな)が派生したのにたいし、琉球人はダイレクトに表音文字
を最初に習得しており、表音文字の利便性に成れ親しむ時代があったことになる
さて。韓国では、ハングルオンリーにしたことの弊害(同音異義)が指摘されている
韓国文字も漢文から発生しており、言語分類的には表意文字ゆえの無理が来たのだ
いっぽう琉球は、表音文字が文字習得の入口となっている点が日本語や韓国語とは
重大な違いがある。スタートで表音文字体系に即した口語文の時代があったわけだ
「表音文字オンリー表記でもやっていける言語」として発達する可能性があった点
が、琉球語にいまなお影響を与えているように思われる http://www.haisai.co.jp/hyoukiron.htm
こういうところを見ると
琉球語も漢字かな混じり文がベスト
ただし本土日本語とは違う形が望ましいと読めるが 漢字なんてしかたなく使ってるだけで使わないほうが圧倒的にいい 漢語をみだりに使わなければ日本語でも仮名だけで不自由しないから
そもそも漢語の割合が現代日本語より低い琉球語で漢字を使う必要性があまり見出せない ちなみに、「琉球」という名称は中国による他称であり、琉球人自身は古来から沖縄
本島を「うちなー」と自称していた。ただし、「沖縄」というのはこれも日本による
当て字にすぎず、字義どおりに漢字を当てたばあい「大島」ないし「大国」となる
だが琉球人が「大島国」を称したことはなく、三山統一前からの自称「中山国」を
一貫して使っている。漢文は、社会への浸透はどうあれ中華文明と関わる王権には
不可欠だったといえよう。琉球最古の碑文「安国山樹華木之記碑」(1427年)は
尚巴志に仕えた中国人の宰相・懐機の起草だが、篆書まで混じった本格的漢文である >>758
カナ文字が文字導入の入り口だったにせよ、それを流用した時点で日本的な漢字混合文を習得する選択肢しか無かったとは思う
沖縄語の語彙は少なく、抽象的な概念語ほど言い換え作業は難しい。沖縄における詩歌の編纂は16世紀前半から、正史の初出は
17世紀半ばから。どう考えても遅い。独自発達するには、読者層と出版文化の規模が小さすぎた デマ小僧アナゴ
沖縄板に帰ってこいよ
バレバレだぞ 喜界島や沖縄北部には日本語の「カ」に対してkʰaが対応する場合とhaが対応する場合のある方言が分布しているが
前者のkʰaが対応するケースは他方言からの借用語であるという
たとえば喜界島阿伝方言ではカシラ(頭)をkʰḁʃiraというが、
hassa(カシラ)とj̃iː(ゲ←ケ(毛))の複合語で「頭髪」をhassaj̃iːと言う
琉球語派とはいっても首里方言の影響を受けた表層の下により古い日本語族の基層が見える ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています