>>726 ほう。

古代では大宰府と密接に繋がっていたことが、文献上記録されている。『日本紀略』長徳4年(998年)の記述として、大宰府が喜界島に対して、暴れ回っている南蛮人を捕えるように命じている。
ここで記述されている「南蛮人」とは、西に位置する奄美大島の島民を指しているものと考えられ、『小右記』長徳3年(997年)の記述から判断されている。
また、長徳5年(999年)に大宰府が朝廷に対して、南蛮人を追討したと報告していることからも、喜界島には、それだけの機関や勢力が存在していたと考えられている。


北部喜界島方言(小野津、志戸桶など)は奄美大島方言、徳之島方言とならぶ北奄美方言に属すが、南部喜界島方言(湾、阿伝、上嘉鉄など)は沖永良部島方言、与論島方言とならぶ沖永良部与論沖縄北部諸方言に属すとする説[5]が有力である。




喜界島に強い影響力があったんかね。