ある-ない についてはいろいろ興味深い。そこには日本語なりの理屈があるようだ

「存在」を動作と見るか状態と見るかで品詞が分かれるとして、
存在物が実体化していればそれを動作主に見立てた動作と見ることができるが
実体化していなければ「不在」は「欠如」という別の「状態」とみる、そういう立場のようだ
これが不在と存在と否定「*あらない」とせず独自の述語「ない」を用いる内在的な理由か

存在物の有生性が高まると一転して「いる/いない」の対立となるが、これは
存在自体を有生物の動作と見ることができるからだろう。この時「存在」は
品詞の分裂を起こす特別な述語ではなくなり、動詞「いる」の肯定/否定として
一本化して処理できるものとなるのだ