スレチになりそうなのを強引に戻してみると、
日本語にしたって、AN祖語やアルタイ系の要素をすべて「借用に尽きる」と説明したら
それでも説明になりそうな気はするんだよね

・音韻は借用できる
・語彙は借用できる
・文法だって借用できる
接辞借用も可能だし、基礎語彙と呼ばれるものに関しても、数詞は借用可能じゃない?ってのは
漢字文化圏に住んでたら薄々感じられる話だし、
んじゃあ系統関係と借用の違いは何かって言い始めると、実はそんなものないんじゃないかと思う

今、日本語の起源が日琉祖語くらいまでしか遡れないのは系統関係と借用を厳密に分ける考え方によるものなんだけど、
これは比較的分岐の歴史が短い言語にしか通用しなくて、
この限界を突破するには日本語こそ「借用を取り払ったら中身はゼロ」の可能性を考える必要がありそう。

そういう意味(限界突破のために従来の比較言語学の手法にとらわれるべきではない)では
村山七郎のピジン・クレオール説も発想としては悪くないし、松本克己や安本美典あたりなんかも
切って捨てるにはもったいないとは思う。