正統表記を用ゐると云ふ縡の考察 [無断転載禁止]©2ch.net
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☆表音主義の過
「明治以來の言語學者は西洋の體系をそのまま鵜呑にして、大きな間違を犯してゐる。
大體西洋ではまづ言葉があつて、といふのは音の集合體があつて、それを文字に書き表すこを思ひ附き、ローマ字のやうな表音文字を發明した。
ところが日本ではなるほど原始生活をそのまま反映した和語はあつたが、それを文字に表さうとは思ひつかないうちに支那の文字と言葉とがはひつて來て、
しかもそれが言葉よりは文字を中心に取入れられ、擴がつて行つたのである。
つまり文字がそれも表意文字が先にあつて、その音を日本化した言葉が後に生じたのです。
從つて漢字を追放することは「螢光燈」を「けい光燈」に變へてしまふ場合のやうに漢語を追放することになる。
言語文字のさう云ふ發達の歴史が間違つてゐるの何のと云つても、千年にわたる宿命的事實はどうしやうも無い。
文字は言葉を寫すものといふ西洋の公式一で國字改革を企てる表音主義者にはその事實の意味も重みもわかつてゐないのである。」
(sc恆存、言葉と文字・X・一一七)
☆語意識
「言葉は生き物です。けふ使はれる言葉はすべて生きてゐるのだし、過去に使はれた言葉もすべて生きてゐるのです。
從つて語意識も生きてゐる。
人がみづからそれと氣附かぬ場合にも生きてゐる。
さう云ふことに國語改良論者はもつと謙?にならなければいけません。
第一他人の、この私の語意識を勝手に判定し、藪醫者ではあるまいし、生きてゐるのゐないのと無責任な判斷を下すなど、以ての外の僭越であります。
さうではありませんか。
「ひざまづく」は「膝」と「突く」だと意識してゐるものに對して、「ひざまずく」と書けと云ふのはその生きてゐる語意識に死を宣告、或は暗示、命令するやうなものです。」
*語意識とは單語を單語として意識すること。
(sc恆存、私の國語ヘ室・W・四五四) 〜で(主に口語に用ゐる)→「〜にて」の約《つゞ》まりし辭。
〜にて→「〜に(あり)て」の「あり」の省略せし辭。
〜とて→「〜と言つて」「〜と思つて」の意。
〜なり(斷定)→「〜にあり」の意。?面的斷定。
〜たり(斷定)→「〜とあり」の意。外貌的斷定。
〜たり(完了)→「〜つあり」の意。完了「つ」に意は似たれど、其の用は更に汎し。
「〜と云ふ〜」と云ふ可き處を「〜なる〜(斷定「なり」の連體形)」とする誤?あれども、雙方の意雜り易けれども、互の辭の意は相違するなりとす。
參照、山田孝雄博士?「日本文法學?論」より。
http://ja.scribd.com/doc/110781580/ (嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤) 現代表記主義?の論理的傾向
一、現代表記が絶對。
二、表記は單に思想傳達の道具。
三、正字正假名は文語にて使用す可き。
四、己で讀み難き表記の自由を認めぬ。
五、假名遣の本質を理會せず
六、自己中心的。
七、假名遣、文語を混同す。
八、現代表記成立の經緯を知らず。 (嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤) (嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤) 山田孝雄博士箸「日本文法學概論」は本當に讀んだはうが宜い。
http://ja.scribd.com/doc/110781580/
日本語の理會が劇的に變る。 (嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(噬)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)
(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(噬)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤) キジも鳴かずば打たれまい と 虎穴に入らずんば虎子を得ず
という諺についてどう思う? >>13
慎重に行かばこそ危険を避けて長壽を得ん
勇気を以て斷行せずんば何者をも得られず
二つはいづれが決定的に生存上優位なるか造物主にも判然とせぬ所あり
依りて、人も動物も一定の性向の者が産まれ來るには非ず
性格に幅を持たせて生存数を揃え置くこそ、其時其時の条件に從つて生き殘る方が生き殘る
全て絶滅するやうな事も無からんとぞ 現代表記への改惡に邁進せしカナモジカイは今も現存してゐる。
http://www.kanamozi.org/ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています