正統表記を用ゐると云ふ縡の考察 [無断転載禁止]©2ch.net
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☆表音主義の過
「明治以來の言語學者は西洋の體系をそのまま鵜呑にして、大きな間違を犯してゐる。
大體西洋ではまづ言葉があつて、といふのは音の集合體があつて、それを文字に書き表すこを思ひ附き、ローマ字のやうな表音文字を發明した。
ところが日本ではなるほど原始生活をそのまま反映した和語はあつたが、それを文字に表さうとは思ひつかないうちに支那の文字と言葉とがはひつて來て、
しかもそれが言葉よりは文字を中心に取入れられ、擴がつて行つたのである。
つまり文字がそれも表意文字が先にあつて、その音を日本化した言葉が後に生じたのです。
從つて漢字を追放することは「螢光燈」を「けい光燈」に變へてしまふ場合のやうに漢語を追放することになる。
言語文字のさう云ふ發達の歴史が間違つてゐるの何のと云つても、千年にわたる宿命的事實はどうしやうも無い。
文字は言葉を寫すものといふ西洋の公式一で國字改革を企てる表音主義者にはその事實の意味も重みもわかつてゐないのである。」
(sc恆存、言葉と文字・X・一一七)
☆語意識
「言葉は生き物です。けふ使はれる言葉はすべて生きてゐるのだし、過去に使はれた言葉もすべて生きてゐるのです。
從つて語意識も生きてゐる。
人がみづからそれと氣附かぬ場合にも生きてゐる。
さう云ふことに國語改良論者はもつと謙?にならなければいけません。
第一他人の、この私の語意識を勝手に判定し、藪醫者ではあるまいし、生きてゐるのゐないのと無責任な判斷を下すなど、以ての外の僭越であります。
さうではありませんか。
「ひざまづく」は「膝」と「突く」だと意識してゐるものに對して、「ひざまずく」と書けと云ふのはその生きてゐる語意識に死を宣告、或は暗示、命令するやうなものです。」
*語意識とは單語を單語として意識すること。
(sc恆存、私の國語ヘ室・W・四五四) 〜で(主に口語に用ゐる)→「〜にて」の約《つゞ》まりし辭。
〜にて→「〜に(あり)て」の「あり」の省略せし辭。
〜とて→「〜と言つて」「〜と思つて」の意。
〜なり(斷定)→「〜にあり」の意。?面的斷定。
〜たり(斷定)→「〜とあり」の意。外貌的斷定。
〜たり(完了)→「〜つあり」の意。完了「つ」に意は似たれど、其の用は更に汎し。
「〜と云ふ〜」と云ふ可き處を「〜なる〜(斷定「なり」の連體形)」とする誤?あれども、雙方の意雜り易けれども、互の辭の意は相違するなりとす。
參照、山田孝雄博士?「日本文法學?論」より。
http://ja.scribd.com/doc/110781580/ (嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤) 現代表記主義?の論理的傾向
一、現代表記が絶對。
二、表記は單に思想傳達の道具。
三、正字正假名は文語にて使用す可き。
四、己で讀み難き表記の自由を認めぬ。
五、假名遣の本質を理會せず
六、自己中心的。
七、假名遣、文語を混同す。
八、現代表記成立の經緯を知らず。 (嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤) (嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤) 山田孝雄博士箸「日本文法學概論」は本當に讀んだはうが宜い。
http://ja.scribd.com/doc/110781580/
日本語の理會が劇的に變る。 (嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(噬)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)
(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(噬)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤) キジも鳴かずば打たれまい と 虎穴に入らずんば虎子を得ず
という諺についてどう思う? >>13
慎重に行かばこそ危険を避けて長壽を得ん
勇気を以て斷行せずんば何者をも得られず
二つはいづれが決定的に生存上優位なるか造物主にも判然とせぬ所あり
依りて、人も動物も一定の性向の者が産まれ來るには非ず
性格に幅を持たせて生存数を揃え置くこそ、其時其時の条件に從つて生き殘る方が生き殘る
全て絶滅するやうな事も無からんとぞ 現代表記への改惡に邁進せしカナモジカイは今も現存してゐる。
http://www.kanamozi.org/ 打たれはせぬとは言へど、打たれせんとは如何なる物言ひぞ >>24
「打たれせん」とは誰一人として云はざりき。 そも、いでたる杭に横風いどど當る様を言ひしかど、風もて杭を打つとは言はざりき >>26
後にて斯有る縡な云ひそ。
何ゆゑ>>20にて然る縡をや疾く云はざりき。
後附の言分は要らぬは。 「要らぬは」の「は」は、「わ」とするが慣らひに成りて最早千年になんなんとす。
「は」とは餘に守舊に過ぎて尚及ばざるが如く新奇なり。
廿一世紀若年者の書記癖を見る心地して違和覺ゆ。 >>28
「は」とは格助詞。「わ」と云ふ格助詞あらず。 >>28
之「係助詞『は』」を用言の連體形に附屬せしめて終止することあり。
此の時は強く主張する意をあらはすに用ゐらる。
例
げに面白かりけるは。
そは我も知り候は。
此の形は平安朝の文に頗る多くあらはれたり。
而して現代の口語にても多く用ゐらるゝものなり。
こは感動をあらはすが如くに見ゆれど、なほ然にあらずして、述語の下につき辨別する意をあらはせるなり。
例
銀行が年々殖えるは。
みんな濟んだは。
これは重いは。
參照、山田孝雄博士?「日本文法學?論」より。
http://ja.scribd.com/doc/110781580/ 近時、現代かな遣にて終助詞としての「わ」を「は」と表記するをインターネツト上にて屡見掛るに就ては如何。 (嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤) (嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤) >>33
「は」を終助詞と云はるゝは何如ぞや。
一説には係助詞「は」をば感動詞と云はるゝもあり、然るに然るは混乱の極なりと言はざるを得ず。 (嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤) (嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤)(嗤) \ /
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`γ"゙ヽ从//. ( っ(⌒)
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\ Oradano明朝フォントについて
http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/freefonts/Oradano-Mincho/
最新版(十年半ぶりのアップデート「第二弾」バージョン):
二〇一六年四月廿七日版TTFフォント(フォント内部バージョン表記:0.2016.0427) 常用漢字表
・昭和五六年一〇月一日内閣告示第一号。
1 この表は、法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである。
(略)
2 この表は、科学、技術、芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。
(略)
4 この表は、過去の著作や文書における漢字使用を否定するものではない。
5 この表の運用に当たっては、個々の事情に応じて適切な考慮を加える余地のあるものである。
(略)
現代仮名遣い
・昭和六一年七月一日内閣告示第一号。
・この告示により、内閣告示「現代かなつかい」(昭和二一年一一月一六日付)は廃止された。
(略)
3 この仮名遣いは、科学、技術、芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。
(略)
8 歴史的仮名遣いは、明治以降、「現代かなつかい」(昭和二一年内閣告示第三三号)の行われる以前には、
社会一般の基準として行われていたものであり、今日においても、歴史的仮名遣いで書かれた文献などを読む機会は多い。
歴史的仮名遣いが、我が国の歴史や文化に深いかかわりをもつものとして、尊重されるべきことは言うまでもない。
また、この仮名遣いにも歴史的仮名遣いを受け継いでいるところがあり、この仮名遣いの理解を深める上で、歴史的仮名遣いを知ることは有用である。
付表において、この仮名遣いと歴史的仮名遣いとの対照を示すのはそのためである。
↑以上、内閣告示に依つて、正字正假名遣ひは規制されてをらず、亦、新字新假名遣ひも強制されてはゐない。 天壤無窮の御~敕因敕皇孫曰、豊葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之驕A當與天壤無窮者矣。(日本書紀卷第二~代下第九段一書第一)
豊葦原の千五百秋の瑞穗國は是吾《あ》が子孫《うみのこ》の王《きみ》とますべき地《くに》なり。爾《いまし》皇孫《すめみま》就《いでまし》て治らせ。
行矣《さきく》、寶祚《あまのひつぎ》の驕sさか》えまさむこと天壤《あめつち》と與《とも》に窮《きはみ》なかるべし。
昭和天皇、昭和元年十二月廿八日
天壤無窮の寶祚を扶翼せよ。
天壤無窮の御~敕聯綿と受繼がれたり。 現代表記主義?者の論理的傾向
一、現代表記が絶對。
二、表記は單に思想傳達の道具。
三、正字正假名は文語にて使用す可き。
四、己で讀み難き表記の自由を認めぬ。
五、假名遣の本質を理會せず
六、自己中心的。
七、假名遣、文語を混同す。
八、現代表記成立の經緯を知らず。
占領法改正派に於ける論理的傾向
一、國體破壞の容認と無視
二、五箇條の御誓文の無視
三、天皇大權及び統治權の無視
四、皇?皇宗の御遺訓の無視
五、皇室の自律と自治との侵害
六、國體論が絶無
七、國民主權に因る傲り高ぶり
八、日本人たる矜持無し
九、近代泰西思想に對する疑が希薄 「訳」とは、正字の「譯」の手書きの際の略字に過ぎず、印刷字體として「訳」の字は元來無い。
詰り作家が原稿で手書きで「翻訳」と書けば、印刷屋は「飜譯」と拾つて吳れる。
「訳」といふ活字が無いから當然。
「訳」とは、詰り「門」の略字「冂の上部にノ」と同じ手書きの勞を嗇む爲の略字に過ぎない。
而して「訳(譯)」とは、「やくす」といふ意味であり、「わけ」といふ字義は無い。
大和言葉の「わけ」とは、動詞「わける」文語「わく」の連用形が名詞化した物で、
物事をわけて(分析して)說く事は、理由や由來を說明する事から、理由や由來を「わけ」と云ふ。
だから「わく」の自動形「わかる」が其の儘「理解出來る」の意になる。
要するに、「わけ」にあてる漢字は、分解、倍析の意であればどの字をあてゝも良い。
分、判、別、理など・・・。
「訣別」、「永訣」の「訣」も、「わかれ」、「別離」の意味であるから、「わけ」の字に用ゐられる。
而して此の「訣」と「譯」の手書字の「訳」が似てゐる爲に「わけ」と訓まれ、序に正字の「譯」迠も「わけ」と訓まれるやうになつてしまつた訣だ。
因みに「譯」の旁である「睪」が「尺」と手書きされるやうになつたのは、「釋」が始り。
僧侶の書く物には、「釋」の字が良く出て來る。
面倒であるから同音の「尺」の字に濟ませる。
「帝釋天→帝尺天」、「釋尊→尺尊」等。
「釋」は「尺」をやゝ丁寧に書いた物。
其が以後廣まつた物である。
此字の間違ひの說明は、「新明解國語辭典」に載錄されてをり、森歐外の「鸚鵡石」にも載錄されてゐる。
森鷗外曰く――
「倂し僕には飜譯の「譯」の字に、何故「わけ」という義があるか分からない。そこでこんな字はなる丈假名で書きたいのだ」
森鷗外の「鸚鵡石」は、靑空文庫で普通に見附かる筈だ。
訳がワケとは訣が解らぬ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gengo/1303264090/ ―― 其は法的規律ばかりではなく、文法のやうな他の社會的規律にも適用せらるべき原則であつて、
例へば文法に就いて云つても、現に多數の人が實際に慣用してをる所が必ずしも常に正しい文法では無く、
時としては實際の慣行が甚だしく紊れて、正しい文法の内容が社會の多數の人々の意識する所となつてをらぬ縡が有得る。
日本の現在に於ける「かなづかひ」などは其の一例として擧げる縡が出來るものである。
併し假令實際には正しい「かなづかひ」が寧ろ少數の有識者に依つてのみ知られてをるに過ぎないとしても、
猶一般の社會意識に於て、權威ある國語國文の學者に依つて、歴史的に古くから用ゐられ來り、
現に猶用ゐられつゝあるものが正しい語法であり、文法であると云ふ縡が認められてをり、
此の一般的の承認に本づいて、個々のかなづかひ其の他文法の内容に就いては社會多數人の意識する所では無いにしても、
猶其が正しい文法として妥當するのである。―― ☆武士道とは何ぞや。
武士道は本朝固有の倫理思想を本とし、儒佛二道を加味して組織されし者にて、
鞏固(きようこ)なる意思の下に實行に上せられた。
而して此の武士道の分析的立場に立つて論述せば、忠孝、禮節、勇剛、質實、廉恥、信義、慈愛、~佛の八要素を以てゐて、
更には是を綜合的立場に立つて觀察せば、思想の純潔、氣力及び競爭心の旺盛、模範の切實、制裁の強き縡が上げらるゝ。
忠孝→忠→綜合親に對する自然の情→下と一致→
忠孝→孝→單位親に對する自然の情→上と一致→
→一致→宗祖-「考」の延長……祭政一致の基礎觀念。靈魂の不滅を觀念して祖先に致す敬慕の情。報恩の志祈願の念。
→一致→潔白-「良心」の実現……山水快美の觀念と善惡の觀念との結附。K(きたな)き心赤(きよ)き心。罪。禊。
→一致→勇敢-「尚武」の本源……島國民と進取との關係。簇制的境遇の影?。
→一致→慈愛-「同化」の力……殘忍性を持たぬ、温和なる風土の影響。血腥(ちなまぐさ)くない~話。歸化人に對する温情。世界を包容しうる同化性。
「忠」の大筋は元、
天皇に對する臣民の赤誠(僞や飾の無い心)を意味してゐた者だが、武士道に於てはやゝ変則的の發達を遂げて、主從の信義を重んずる意味となつた。
一意主君を奉じて、自己を其の中に沒して顧みぬ犠牲的沒我の拐~。斯くして死生相結託すると云ふ觀念が完成される。
「孝」は孝經の所謂「服從、愛敬、奉養、諫諍(爭つて迄?く目上を諫める縡)」以外には父祖の遺志を繼いで、父祖の仕へてゐた主家に忠?を勵む縡が上げらる。 43 名前:名無しさん@3周年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 11:02:34.95 ID:DjiZI+KP [6/6]
>>40
やはり副詞の意味が分かってなかったみたいだねぇ
「分かってなかった」と云ふ文法は存在しない。
「なかつた」とは形容詞であり、「分かって」と云ふ連用形とは接續しえぬ。
「ない」には形容詞と助動詞の二樣が認めらるゝが、「分かってなかった」とは則ち「分かつた」の否定として用ゐられたるは明瞭なれば、
用言の連用形に「ない」と云ふ形容詞を接續する用法は國語には存在しない。
況や助動詞「ない」が用言の連用形に接續するに於てをや。
通常の口語的用法としては「わからない」「わかつてゐない」が妥當であり、「分かってなかった」と云ふ用法は全く意味が通じない。
助動詞「ない」の特例として未然形に接續しない者として「する」の未然形である「しない」がある丈である。 「美人」は容貌美なるが上に美コあるを云ふ。
「佳人」は單に容貌の美なるを云ひ、「麗人」とは容姿服裝の美なるを云ふ。
亦、「美人」「佳人」は女子に限らず男子をも稱す。
「囘復」は元通りにする意なり。
「恢復」は元通りに大きくする意なり。
「本國・本邦・本朝」は内國自稱の詞なりて、「我が國・我が邦・我が朝」は他國に對する自稱なり。
「抵觸・牴觸・觝觸」は皆同じ。
「根底」に非ず「根柢」が正しい。 「譯」とは、正字の「譯」の手書きの際の略字に過ぎず、印刷字體として「譯」の字は元來無い。
詰り作家が原稿で手書きで「飜譯」と書けば、印刷屋は「飜譯」と拾つて吳れる。
「譯」といふ活字が無いから當然。
「譯」とは、詰り「門」の略字「冂の上部にノ」と同じ手書きの勞を嗇む爲の略字に過ぎない。
而して「譯(譯)」とは、「やくす」といふ意味であり、「わけ」といふ字義は無い。
大和言葉の「わけ」とは、動詞「わける」文語「わく」の連用形が名詞化した物で、
物事をわけて(分析して)說く事は、理由や由來を說明する事から、理由や由來を「わけ」と云ふ。
だから「わく」の自動形「わかる」が其の儘「理解出來る」の意になる。
要するに、「わけ」にあてる漢字は、分解、倍析の意であればどの字をあてゝも良い。
分、判、別、理など・・・。
「訣別」、「永訣」の「訣」も、「わかれ」、「別離」の意味であるから、「わけ」の字に用ゐられる。
而して此の「訣」と「譯」の手書字の「譯」が似てゐる爲に「わけ」と訓まれ、序に正字の「譯」迄も「わけ」と訓まれるやうになつてしまつた訣だ。
因みに「譯」の旁である「睪」が「尺」と手書きされるやうになつたのは、「釋」が始り。
僧侶の書く物には、「釋」の字が良く出て來る。
面倒であるから同音の「尺」の字に濟ませる。
「帝釋天→帝尺天」、「釋尊→尺尊」等。
「釋」は「尺」をやゝ丁寧に書いた物。
其が以後廣まつた物である。
此字の閒違の說明は、「新明解國語辭典」に載揭されてをり、森歐外の「鸚鵡石」にも載揭されてゐる。
森鷗外曰く――
「倂し僕には飜譯の「譯」の字に、何故「わけ」という義があるか分からない。
そこでこんな字はなる丈假名で書きたいのだ」
森鷗外の「鸚鵡石」は、靑空文庫で普通に見附かる筈だ。
譯がワケとは訣が解らぬ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gengo/1303264090/ 「訳」とは、正字の「譯」の手書きの際の略字に過ぎず、印刷字體として「訳」の字は元來無い。
詰り作家が原稿で手書きで「翻訳」と書けば、印刷屋は「飜譯」と拾つて呉れる。
「訳」といふ活字が無いから當然。
「訳」とは、詰り「門」の略字「冂の上部にノ」と同じ手書きの勞を嗇む爲の略字に過ぎない。
而して「訳(譯)」とは、「やくす」といふ意味であり、「わけ」といふ字義は無い。
大和言葉の「わけ」とは、動詞「わける」文語「わく」の連用形が名詞化した物で、
物事をわけて(分析して)説く事は、理由や由來を説明する事から、理由や由來を「わけ」と云ふ。
だから「わく」の自動形「わかる」が其の儘「理解出來る」の意になる。
要するに、「わけ」にあてる漢字は、分解、倍析の意であればどの字をあてゝも良い。
分、判、別、理など・・・。
「訣別」、「永訣」の「訣」も、「わかれ」、「別離」の意味であるから、「わけ」の字に用ゐられる。
而して此の「訣」と「譯」の手書字の「訳」が似てゐる爲に「わけ」と訓まれ、序に正字の「譯」迄も「わけ」と訓まれるやうになつてしまつた訣だ。
因みに「譯」の旁である「睪」が「尺」と手書きされるやうになつたのは、「釋」が始り。
僧侶の書く物には、「釋」の字が良く出て來る。
面倒であるから同音の「尺」の字に濟ませる。
「帝釋天→帝尺天」、「釋尊→尺尊」等。
「釋」は「尺」をやゝ丁寧に書いた物。
其が以後廣まつた物である。
此字の間違の説明は、「新明解國語辭典」に載掲されてをり、森歐外の「鸚鵡石」にも載掲されてゐる。
森鴎外曰く――
「併し僕には飜譯の「譯」の字に、何故「わけ」という義があるか分からない。
そこでこんな字はなる丈假名で書きたいのだ」
森鴎外の「鸚鵡石」は、青空文庫で普通に見附かる筈だ。
訳がワケとは訣が解らぬ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gengo/1303264090/ 昭和六十二年十一月十一日提出
質問第四号
國史と國語に關する質問主意書
右の質問主意書を提出する。
昭和六十二年十一月十一日
提出者 滝沢幸助
衆議院議長 原 健三郎 殿
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a110004.htm 〜で(主に口語に用ゐる)→「〜にて」の約《つゞ》まりし辭。
〜にて→「〜に(あり)て」の「あり」の省略せし辭。
〜とて→「〜と言つて」「〜と思つて」の意。
〜なり(斷定)→「〜にあり」の意。?面的斷定。
〜たり(斷定)→「〜とあり」の意。外貌的斷定。
〜たり(完了)→「〜つあり」の意。完了「つ」に意は似たれど、其の用は更に汎し。
「〜と云ふ〜」と云ふ可き處を「〜なる〜(斷定「なり」の連體形)」とする誤?あれども、雙方の意雜り易けれども、互の辭の意は相違するなりとす。
參照、山田孝雄博士?「日本文法學?論」より。
http://ja.scribd.com/doc/110781580/ 「体」字に「からだ」の意味は無し。
「からだ」とは「體」字「軆」字にて、「体」字は「笨(あらし・ホン)」字と同じ意味なり。「豊」字に「ゆたか」の意味は無し。
「豊」字は「禮」の古字にて、「ゆたか」とは「豐」字なり。「豊」字は「豐」字の略字に非ず全く別字なり。
「蟲」字は「むし」亦は「動物」にて、「虫」字は音キ「まむし」亦は「鱗介」の稱なり。混同す可からず。
「絲」字と「糸」字とは全くの別字にて、「糸」字は音ペキ「細し」亦は「細絲」の意味にして混同す可からず。
「黨」字と「党」字とは全くの別字にて、「K」字を「黒」字とするも亦全くの誤字なり。
「?(墨)」「點」「默」等々を以て推して知る可し。
「參」字を「参」字とするは誤にて、「參」字の俗略は「?(叅)」にて「参」字に非ず。
「惡」字を「悪」字とするは非なり。
「湿」字は「濕」字の俗略。「隰」「顯」字を以て推して知る可し。
「経」字は「經」字の誤字。
「鉄」字は「?(紩)」字の同じく音テツ「縫ふ」なり。「?」字は音シ「箭の先」亦「鏃(やじり)」なり。
俗に「鐵」の略字とするは不可。
「暦」字は「?(曆)」字の誤字。
「歴」字は「?(歷)」字の誤字。
「駅」字は「驛」字の誤字。
「髪」字は「髮」字の誤字。
「數」字を「数」字とするは非なり。
「樓」字を「楼」字とするは非なり。
「擔」字は「になふ」、「担」字は「拂ふ」にて、混同す可からず。
「澤」字を「沢」字とするは誤なり。
「燈」字は「ともしび」、「灯」字は「烈火」にて全くの別字なり。
「諫」字は音カン「いさむる」、「諌」字は音トウ「多言」にて、混同す可からず。
「猫」字は「?(貓)」字の俗字。
「?(鍊)」字は「ねる」、「錬」字は「田?(器)」にて、混同す可からず。
「醫」字と「医」字とは別字にて、「医」字は音エイ「ゆき・ゆぎ(靭)*矢を入れて背負ふ筒?の道具」にて混同す可からず。 昭和六十二年十一月十一日提出
質問第四号
國史と國語に關する質問主意書
右の質問主意書を提出する。
昭和六十二年十一月十一日
提出者 滝沢幸助
衆議院議長 原 健三郎 殿
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a110004.htm ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています