「訳」とは、正字の「譯」の手書きの際の略字に過ぎず、印刷字體として「訳」の字は元來無い。
 詰り作家が原稿で手書きで「翻訳」と書けば、印刷屋は「飜譯」と拾つて呉れる。
 「訳」といふ活字が無いから當然。
 「訳」とは、詰り「門」の略字「冂の上部にノ」と同じ手書きの勞を嗇む爲の略字に過ぎない。
 而して「訳(譯)」とは、「やくす」といふ意味であり、「わけ」といふ字義は無い。
 大和言葉の「わけ」とは、動詞「わける」文語「わく」の連用形が名詞化した物で、
物事をわけて(分析して)説く事は、理由や由來を説明する事から、理由や由來を「わけ」と云ふ。
 だから「わく」の自動形「わかる」が其の儘「理解出來る」の意になる。
 要するに、「わけ」にあてる漢字は、分解、倍析の意であればどの字をあてゝも良い。
 分、判、別、理など・・・。
 「訣別」、「永訣」の「訣」も、「わかれ」、「別離」の意味であるから、「わけ」の字に用ゐられる。
 而して此の「訣」と「譯」の手書字の「訳」が似てゐる爲に「わけ」と訓まれ、序に正字の「譯」迄も「わけ」と訓まれるやうになつてしまつた訣だ。
 因みに「譯」の旁である「睪」が「尺」と手書きされるやうになつたのは、「釋」が始り。
 僧侶の書く物には、「釋」の字が良く出て來る。
 面倒であるから同音の「尺」の字に濟ませる。
 「帝釋天→帝尺天」、「釋尊→尺尊」等。
 「釋」は「尺」をやゝ丁寧に書いた物。
 其が以後廣まつた物である。
 此字の間違の説明は、「新明解國語辭典」に載掲されてをり、森歐外の「鸚鵡石」にも載掲されてゐる。

 森鴎外曰く――
「併し僕には飜譯の「譯」の字に、何故「わけ」という義があるか分からない。
そこでこんな字はなる丈假名で書きたいのだ」

 森鴎外の「鸚鵡石」は、青空文庫で普通に見附かる筈だ。

訳がワケとは訣が解らぬ
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