>>34
一定制約の元とは雖も主格「が」が存在することは否定出來ませんね。逆に謂ふと
用法が發展して主格用法が確立した訣ですから、現代のエゴ(英語の略)やロマンス諸語
には主格の格變化すら消滅したのでこの蠻族語と同等に扱ふのは歴史的事實にすら反しますね。
よくもまあ恥かしくないものだ。

私はコップにみづを注ぐ
лью воду стакану
I put water in a glass.

лью(注ぐ・主格の變化)=不定形лить
格變化がある露西亞語は如何なる語順にしても意味が通じる。
みづといふ意味のвода(女)は單數對格が上記の語尾だし
コップといふ意味のстакан(男)の單數與格は上記の如く書くので
どちらかを先頭に持つて來ても意味は「コップにみづを注ぐ」である。
吾が國語も「みづを私はそそぐコップに」と語順を替へても意味は通じる。
因みに主語のяは省いた。人稱變化毎に動詞變化もあるので論理的に省略が可能だからだ。

英語の場合は格變化消滅の代償で平叙文ですら無用な前置詞が必要になるし
頭にwaterを持つて來ると「みづが私をコップに注ぐ」といふ意味になつて滑稽となる。
また主語を省けば完全に命令形になつて「コップにみづを注げ」といふ意味になる。

飽くまでも事實を書いてゐるだけだ。不滿ならば語順を替へても意味が通じると論證すれば
よいだけだ。簡單なことなのだから脇道にそれたことを云つても笑はれる丈だ。
何の知識もない馬鹿は騙せても少々學のあるやつは騙せない。