日本語が簡単過ぎて泣けてくる
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
文法は単純で簡単、発音も簡単、文字も言うほど難しくない
こんな簡単な言語は日本語くらいだろ 國語教育に関する質問主意書
昭和六十一年十二月四日提出
質問第二五号
國語教育に関する質問主意書
右の質問主意書を提出する。
昭和六十一年十二月四日
提出者 滝沢幸助
衆議院議長 原 健三郎 殿
國語教育に関する質問主意書
凡そ教育は國の存立の基本を培ふものであり、ことに國語教育こそはその基本である。世界の殆ど総ての國がこれに全力を尽してゐる所以である。
然るに我國においては、戦後の教育制度の改革に當つて、漢字の制限、假名遣ひの改變など、むしろ國語の傳統を中断する傾向があつたことは洵に残念なことと言ふべきである。
即ち、今にしてこの弊を改め、本來の國語を恢復する爲の教育を確立することは、國政の急務である。
よつて、其の方針について質問する。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a107025.htm 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>624
同意。
草の生えたレスってロクなものはないよね。
でも、お前のレスは草生えてないのにロクでもないレスですよ。 まっ
ガチのアスペに関しては旧仮名ガイジがチャンピオンなんですけどねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww IDも出ないししょせんみんな人格のない名無しなんだから
むなしいプライドなんか守るより事実を確認しあってためになる話をしないか?
何の脈絡もなくアスペルガーっていう言葉を言い出した人がアレなのはわかったけど
それがどこの誰かなんて誰も興味持っていないんだよ たいそう、言語について勉強してるのはわかった!
でもその知識を披露する場所が5ちゃんしかないという小者感が笑えるw 旧カナガイジが旧カナやめてて草wwwwwwwwwwwwwwwwwww 日本語は音便形があるせいでドイツ語やロシア語のように若干屈折的。
子音末を持つ動詞(五段動詞)の語幹の部分が完全な語幹にならない。
ただし音便形がある程度規則的で例外が多くないというのが救いのようだね。 いや、自分の専門分野のテーマは別の学会とかで発表し、
専門以外の特に新しくない基本的なこと、普通に誰でもたどり着けるようなことは
ここで書くのが普通だろ
物分りの悪いアホがすごく大物ぶってるけど >>638
行成り如何爲た不細工褌君?十八番の舊假名舊漢字は辭めたのかね?
贋物の日本語しか遣へない貴樣は結局何文字を遣へども滲出る愚鈍さを隱す事は出來ないのだよwwwwwww 「あっちを見ろ」を「あっちを見れ」と言うのは方言?
一段活用動詞の命令形がもしも-reだったら
kak-u
mi-ru
kak-anai
mi-nai
kak-areru
mi-reru (ら抜き)
kak-aseru
mi-seru
kak-imasu
mi-masu
kak-itai
mi-tai
kak-e
mi-re
kak-e ba
mi-re ba
kak-oo
mi-yoo
などとなって統一的で語呂がいいw ごめん。
kak-ereru
mi-reru (ら抜き)
にならないといけなかった。実際にはkak-eruか。
で、「書けれる」という方言はあるんだろうか? kak-areru
mi-rareru
kak-eru
mi-reru
でもいいわけか。ってことは命令形だけが例外。
「着れ」「見れ」「食べれ」を普及させよう!
2ちゃんねー用語だったかな。 東北方言で「来(く)る」の命令形が古語と同じ「来(こ)」なの趣があって好きだ 「國學とは、歴史を研究して國の成立沿革を察し、文學を研究して國民好尚の歸趨を察し、言語を研究して國民思想の發表方法を察し、
~話傳説風俗習慣を研究して其の性情を察し、道コの過去現在を研究して將來の指針を立て、國法を研究して其の當否を察し、
音樂美術を研究して其の情操の赴く所を察して將來の歸趨を考ふる如きゥを以ての學なり。」
山田孝雄博士謹述「大日本國體概論」詞セより拔粹。
*其等ゥを以て宣明せしものこそ國體なれ。 外国人向けの日本語の辞書には、
動詞の単語ごとに自動詞か他動詞かが明記されているのだろうか?
日本人向けの国語辞書には明記されていないことが少なくない。
音素を見ただけで判断できるかもしれないと思ったが、
共に-eruの形を持っているのに自動詞と他動詞、両方の場合があったりする。 例えば、
折れる oreruは自動詞
折る oruは他動詞
しかし、
開ける akeruは他動詞
開く akuは自動詞
逆のケースがある。 >>648
その二つの-eruはもしかして上代特殊仮名遣いまで遡ったら別の起源がある? 開くakuと同じ意味でakaruという自動詞を持つ方言があるよ 五段活用動詞「見る」
見る
見ない
見ず
見られる
(見れる)
ご覧になる
見させる
見れば
見ろ
見た
見たら
見て
敬語形「ご覧になる」だけが屈折している。 「見られる」も尊敬語として成り立つし、それは独立した活用をする
「ご覧になる」だって別の活用をする
活用と派生をごっちゃにするな >>652
「見る」は五段活用じゃないだろってところじゃなくて
そこにツッコミ?
じゃあその「ご覧になる」の活用はどうなる?
「ご覧になる」は動詞の人称変化に近いかもしれないね。
I isやI areと言えないように「私がご覧になった」とは言えないから。
もっといえば、日本語式のポライトネスにもとづく動詞の活用かな。
それから日本語の動詞の活用は階層構造を持つんじゃないかな? 方言によって尊敬語として「られる」の形が好まれる地域と
「お・ご**になる」の形が好まれる地域とがあるらしいね。
「られる」の形が好まれる地域で「ら抜き言葉」がいち早く発達した
という説があるようで。 >>653
ご覧にならない、ご覧になります、ってバカみたいに復唱させるのかwアホだなこいつ
これについては派生でもなく語彙的に別の動詞だ
そして尊敬語は人称変化ではないしそれに「近い」と言った所で同じ文法用語でまとめられるものでもない
敬語、中でも尊敬語と謙譲語には、語彙的なものと文法的なものがある
「見る」から「ご覧になる」への取り換えは語彙的な尊敬語、「見られる」への取り換えは文法的な尊敬語だ
英語のto beの人称変化が特殊なのは、一般動詞の-es, -edのような膠着的な形態に依らず、
またhave→has, do→didのような不規則な融合形だけでもなく、「補充法」suppletionによるものだからだ
この補充法という手段は、語根レベルで語彙的な違いだったものを一つの活用表に文法的な変化形として共存させるものだ
印欧祖語に遡れば 英語の「be動詞」は、am, isは*h1es-、 beは*b?uH-(原義「育つ、成る」)、
was, wereは*h2wes-(原義「生きる」)、 areともう使われないartは*h1er-という
おそらくは*h1es-の変化型、合計4つの語根に由来する語形で成り立っている
https://en.wikipedia.org/wiki/Indo-European_copula
日本語の1人称主語は普通体と謙譲語(記紀には1人称尊敬語がある)、2人称と3人称の主語は
普通体と謙譲語と尊敬語のすべてが使える以上、人称と敬意はまったく重ならないね >>652
活用と派生とやらの厳密な区別ができるならそれを説明してよ。
>>655
補充法になるものだって、それは活用か活用じゃないかとは関係がないでしょ。
それがどういう道筋で形成されたかということと、共時的システムとを混同したらだめだよ。 >>651はこういうのをどう考えるんだろ
くう、たべる、めしあがる、いただく 敬語体系が崩壊して、主格対格に呼応する人称変化でも生まれたら面白いんだけどな。 >>658
屈折でも活用でもなんでもない
別個の単語 言語学的には日本語は屈折語だと分類する学説もあるらしいね。 「お*になる」「ご*になる」の形式がすべての動詞に当てはめられれば、
簡潔になるんだけどね。
「お見になる」よりも「ご覧になる」のほうが語呂がいいんだろうか。 >>657
お前が大きめの図書館へ行って『言語学大辞典 術語編』を読めばいいだけ
概略をここで紹介すれば?それとも文盲なの?図書館使えないの? 最近対格のヲの代わりにガが使われるケースをよく耳にする
もちろん文章では絶対にそんなミスしないだろうし口語故の咄嗟の間違いなんだろうけど
おそらく文の焦点マーカーという意図で話者の口を突いて出てしまうのだろう >>664
よく耳にするっておまいの個人的経験かよwwwwwwwww
間違えてる奴が単にタスマニアたけしみたいな言語障害者だか日本人じゃないかなんじゃねーの? >>665
その現象は最近目立つよ
気がついていないお前はテレビすら見ない引きヲタニート確定だわ >>666
目立つとか目立たないとか個人的感想はどうでもいいんで
具体的なソース出して、どうぞ
(てか引きヲタニートだったらいつも家にいるからテレビ見放題だろjk) 引きヲタニートはTV番組なんか見ないって5chいればわかる
だからとぼけたって無理
「本が売ってる」「違和感が感じた」「バイトが始めた」「服が買った」
いくらでも言ってるよ
引きヲタやお年寄りとはお互いギャップがひどすぎて
普段からろくに会話もしないだろうから気が付かないだろうな
文脈上のフォーカス、新情報の名詞は「が」を付ける、
という新ルールがそこらじゅうを漂っている
トピックの「は」と対になろうとしているかのようだ 「本が売ってる」「服が買った」
これは文脈によってはあり
「うちの買ってってよ」
「これ欲しい」
「それは売り物じゃないよ」
「どれが売ってるの?」
「本が売ってる」
こういう状況だと「売ってる物」の「物」を略して言える
「違和感が感じた」「バイトが始めた」これはないわwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
日本語として完全におかしいだろ
具体的にどういう文脈で使われたのかちゃんと例示しろ
それで判断する >>669
最初は笑うだろうが、そのうち草も生えなくなる
愕然とするぞ
お前が聞いたことないだけ >>669
そもそもお前はもう使って育っているのかも知れないが、
「本が売っている」は90年代になってはじめて聞かれだしたものだ
当時の30代以上は存在すら知らなかったし、話しても信じてもらえなかった
お前の下4行と同じだ
テレビのインタビューで若者がよくそういう言い方をする
なお俺(>>666)は>>664とは別人の横レスだ
全然わかっていないようなので足しておく だいいち、「本が売っている」自体が
「対格のヲの代わりにガが使われるケース」に相当しているじゃないか
それでもなんで>>665はアホな草を生やしていられるんだよ
これが矛盾しているじゃないか
あと>>669は「服が買った」がOKってマジか?
逆に驚きだわ
もう1つ、ガ格目的語自体は前からあって、今回問題になっているのはそれ以外の例だ(ろう)。
問題にならないのは、
1)「がわかる」などの自動詞が起源で意味的には他動詞であるもの
2)可能動詞、可能の助動詞など可能の意味が加わった他動詞「が買える」「が入手できる」など
3)「がほしい」など意味的には他動詞、形式上は形容詞であるもの
などだ まだ項目があったと思うけどとりあえずこれだけ挙げておく >>670-672
馬鹿の話は必ず長い
「〜を売っている」問題は調べたらここに突っ込み入れてる人がいたから読んでくれ
これは助動詞「いる」とその対義語「いない」の用法の問題であって、決して助詞「が」を「を」の代わりに使ってる訳ではない
http://www7b.biglobe.ne.jp/~w3c/kotoba/kokugo/kotoba/Utteita.html
「違和感が感じた」「バイトが始めた」「服が買った」が「違和感を感じた」「バイトを始めた」「服を買った」と同義だとする日本語母語話者が存在すると主張するのならまずインフォーマントの住所年齢性別と使用状況を示せ
俺がアナウンサーや声優の養成所の偉い人なら、自分とこに本当にそんな助詞の間違え方してる奴いたら張り倒してるところだわwwwwww >>669
御前の表記も日本語として十分にをかしいから(嗤)。 >>673
馬鹿のサイトは読む価値なし
否定しようがしまいが「〜が売っている」を使う使わないが変わることはない
若者はとっくに「(物)が売っている」を使うようになっている
昔は20代だったが今は繰り上がって40代にはなっている
お前が外に出ていないだけ な〜んや
ガイジの正体は旧表記ガイジだったかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
発狂すると日本語モドキやめて別の日本語モドキつかうのな(すっとぼけ)
「違和感が感じた」「バイトが始めた」「服が買った」とかいうのが何ソースなのか示さない時点で負けだゾ 頭のおかしい人の特徴
知ったかぶってソースもなしに事実と反することを言う 草ガイジが旧字旧仮名の自作自演だろ
頭の程度が同じ
ソースはテレビのインタビューな
あとは外に出て実際に聞け引きヲタ草ガイジ そんな変な文も、そのうちもっと普通に聞くようになる
その頃にはここのガイジどもはスレごといなくなっている
昔はおかしかった「本が売ってる」と同じように、それを当たり前のように使っている テレビしか見てなくてリアルに人間と話さないせいでテレビのインタビューとやらがソースだとかほざくブーメラン壁トークの引きこもりガイジがなんだって? ソースがテレビのインタビューってwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
教養の低さ丸出しwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwガイジwwwwwwwwwwwwwwまさにガイジwwwww発想がヒキコモリのそれwwwwwwwwwww
ガガイのガイ♪wwwwww >>681
古い春歌をパクっただけのそれの何が面白いの 動詞の受身の問題を格助詞のせいだと誤解するガイジがまともな訳ないんだよなあ 旧仮名ガイジくんには日本語が難しすぎた様だなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 我愛中華
I love china.
我は中華を愛す。
日本語は「我愛中華」に對して多種多樣の表現が可能。 ガイジがまた見えない敵と戦ってるwwwwwwwwwwwwwwwwww 支那語の「我愛中華」には日本語にあるやうな辭の話し言葉としてのニユアンスが存在しない。
だから支那語は「詞」中心の言語世界なのである。 「映画が見れる」は正しい?
もちろんどちらも可能の意味だよ。=「映画が見られる」 中国語でVOがOVに逆転したときにSVと受け取られてしまう危険はないんだろうか?
「本が売る」とか「服が買う」ということは常識的に考えにくいのだから
そのよう「常識上」の解釈でもって文法的に意味が選択されるんだろうか? 「売っている」にはおおざっぱに二つの意味あるように思う。
1. ある人が商品を売る一連の行為をまさにその瞬間に観察している
2. ある商品が店頭に並べられたりして売られていること
「本が売っている」はおそらく2.の意味で使われている。 >>695
それは>>672の2)に相当し、以前からあったものだ
その意味では「本が売っている」を誤りとする立場から見ても、正しい さっきフジテレビのニチファミ!という番組の旅行スペシャルで
「時間がなったら門が閉まるんだ」と言っていた
今増えているのはこういう「とりあえず『が』で新情報を提示する」というものだ >>697
だったら「本が売られている」でいいだろう
実際昔はそうしていた
何がいけない?あるいは何がいけないことになった?
ちなみに昔は「本を売っている(主語なし)」でも全然問題なかった
「誰が」は言わなくていい情報として省いていた なぜそうしない?あるいはなぜそう言わなくなった? >>699
さすがにニ格をガに置き換えるのは初めて聞いた
人間の先験的な感覚というのはすごいな >>699
戸が閉まるは何も日本語としておかしくないだろいい加減にしろ!
閉まるは自動詞だぞ >>699
>>702
違うだろ
この場合は「時間」が主語
時間が「(決められた時刻に)なる」ものであると定義されてんだ >>701
この「が」は「とっさに」「とりあえず」出てしまうものらしい
「は」と同じように、情報構造の役割をになっていて、格助詞と交替可能な存在のようだ
最近までの規範的な文法は、旧情報が主題になるとき「は」が付き
格助詞は消えるかハと連なってニハ、デハのようになり、
ガはヲと同様に消えるほうの格助詞の一つだったが、
今度の新興の文法では新情報が「焦点」として文の中心となる時新係助詞「が」で提示され
焦点はいったんほかの格助詞を取らなくなるということらしい
格助詞のガも生きているから当面は混乱が続きそうだ そういう自由研究ではなくちゃんとした言語学者の論文でのソースをどうぞ 「時間になる」という慣用表現に対して「時間がなる」という表現の方が時間(時刻)が特定の状態になるという実態に即しているから標準的でない口語において許容されているというだけで
「に」が新しい用法を持った「が」に置き換わったのではないな いずれ論文になるよ
「本が売っている」だってそうだった 「オッサンのケツに糞まみれのチンポをつうずるっこんでやったら糞とションベンでずるずるして気持ちがええ」を
「オッサンのケツが糞まみれのチンポをつうずるっこんでやったら糞とションベンでずるずるして気持ちがええ」と変えると
「何が糞まみれのチンポをつうずるっこんでやったら糞とションベンでずるずるして気持ちがええって?」という質問への返答にはなりえ
「「オッサンのケツは糞まみれのチンポをつうずるっこんでやったら糞とションベンでずるずるして気持ちがええ」と言い換えることもできる
「時間になったら門が閉まるんだ」を
「時間がなったら門が閉まるんだ」にしても
「何がなったら門が閉まるって?」という質問が日本語として不自然であり
「時間はなったら門が閉まるんだ」はもはや非文である
「時間になる」が一つのイディオムであり不可分なのだからこれは当然
原因は「(特定の)時間になる」という慣用表現の代わりに「時間が(特定の状態に)なる」と言ったからであって
助動詞「いる」の挙動を原因とした「(誰かが)本を売っている」→「本が売っている(状態にある)」とは異質なものだよ G.J.Ramstedt氏によれば、日本語の文法はどちらかというと簡単なほうらしい。
ただし読み書き、特に漢字を除けば。
彼の母語がおそらくはフィンランド語であり、ウラル語族やアルタイ諸語に詳しかったという理由もあるだろうが。
それはさておき、細部を見れば、日本人でも説明に困ることがある。
http://lang-8.com/528751/journals/30244112888845415096903846427142343891
では英語の母語話者と思われる人が「日本語はわかりたい」という文を作っている。
それに対して日本語母語話者と思われる人が
「日本語がわかりたい」
「日本語をわかりたい」
「日本語を理解したい」
と修正している。どれも正しいのだろうか?
あるウェブページでは、「わかる」という動詞は意志を表さない自発の意味があるので、
「わかりたい」という形を作ることができないと説明していた。これが正しいのだろうか? また、五段活用動詞の自発・受身・尊敬は「わかられる」だと思うのだけれども、
この形を作ることはできないという説明もあった。
もちろん可能の形「わかれる」という形も作ることができない。
じゃあ「わかることができない」はどうだろうか?
似たような意味がある「理解できる」を作ることができるのはなぜなのか? 「本が売っている」は「時間がなったら」と違ってかなり普及した言い方だと思われるので、
一時的なヒューマンエラーだとは考えにくい。
ら抜き言葉と同様になんらかの合理性や日本語の動態的構造(変化の法則)とも関係があるのかもしれない。 「本が売っている」に関しては格側の問題というより述語側の問題のような気がするが >>712-713
「わかる」はガ格目的語を取る動詞であり>>672の1)に相当する
ガ格目的語を取る動詞は日本語を学ぶ外国人の教科書にも載っていて、
日本にいる外国人も当然よく知っている
>>714
だがこういう人も日本語教科書に決して載っていない「本が売っている」は話さないだろう
これは日本の若い人とよく会話するような人が、日本語学校の教室の外で習得するものだ >>711
ただし今ここで挙がっている「日本語の難しさ」は、表記法の複雑さのように一目瞭然のものや
ラ抜きのようにバカの一つ覚えで繰り返されるお決まりのテーマではなく、
日本人自身も内省だけでは上手く説明できない現象や、
変化しつつあり立場によって「乱れ」とも取られる現象の最先端だ
>>715
述語側の問題としては
1) 日本語の受け身文には、被害(殺された・盗まれた)・報奨(表彰された・褒められた)といった
動作内容の意味上の制約がある
2) 1)と関係なく、硬い表現では欧文直訳体の無制約な受け身文がよく用いられる←こういう文
3) 1)の制約と同時に日本語のガ格主語は本来は非義務的であり、省略可能な範囲が広い
(かつての「あそこで本を売っている」は「誰が?」と突っ込まれるような文ではなかった)
以上のうち1)だけが残って2)3)の情況が変化して無くなったのだが、
3)に対して新たに「ガ格の義務化」の傾向が生じているのではないのだろうか 「本が置いてある」と同形の「本が売ってある」が普及せずに
「本が売っている」のほうがむしろ普及したのはなぜだろう? >>712
ラムステッドの時代には形態論のほうが盛んで、日本語の統語論に踏み込んだ研究は
あまり盛んではなかったし、いつの時代だろうとプロの言語学者が
「日本語の難しさ」なんていう曖昧で主観的なテーマをそれほど掘り下げることもないからそこは雑談レベル
>>713
意味が似ていても「わかる」は非意志動詞、「理解する」は意志動詞だからね。
非意志動詞とは「死ぬ」「ころぶ」のように動作主の意志で操作できない動作を表す動詞だ。
だから非意志動詞には原則として「たい」を付けられない。
ただし「わかる」を、「理解する」と完全に同じ意味の、意志動詞として使うこともあり、
(これは別の「わかる」と考えてもいい)
その時は目的語の格助詞に「を」を使い、願望の助動詞「たい」を付けることもできる
非意志動詞の特徴は、語によって程度の差はあれ「動詞らしくない」ことで、
「わかる」に「れる/られる」が付けられないのもその例だろう。 >>718
「が+他動詞+てある」は、
・壁に絵が掛けてある
・洗濯物が干してある
・自転車が駐めてある
のように、何かの瞬間的な動作を行った、その「結果」の状態が継続していることを表すが、
本を置いてそれを販売しているという状態の「売る」は動作自体が継続しているからだろうか
「干す」をあくまでも瞬間の動作とみなせばそういうことになる を分ける が分かる
を開ける が開かる(が開く)
をかける がかかる
を預ける を預かる
を授ける を授かる
が負ける を負かす
をどける をどかす
が乾く を乾かす
が空く を空かす
が泣く を泣かす
一定しないが、辞書に自動詞と他動詞の区別が明示してあるとは限らない。
インターネット上の電子辞書には明示されていない。
例文でかろうじて分かるが、その例文でも分からない語もある。
国語文法では自動詞・他動詞の区別が軽視されてきたようだ。 日本人(日本語ネイティブスピーカー)向けの学校教育では
日本語の標準化・統一化ということが大きな目的だった可能性があるので
「本が売っている」やラ抜き言葉を«あえて»教えないというのは分かる。
しかし外国人向けの実用日本語講座ではそういうわけにはいかない。
こちらは外国人が日本人と言語コミュニケーションする実用性を目的としているので
日本語でかなり普及している語用が学校教育によって正統化・統制化されていないからと
言って省くわけには行かない。それは親切な日本語教育ではない。 >>722
それだけ「本が売っている」が、それを子供の頃から使っている世代が意外に思うほど、
歴史の浅い現象であるということ
たぶん平成の歴史と同じか、少し短いくらい
放っておいてもより規範的な言い方に淘汰されるかも知れない
それほど文学性の高い小説や、学術論文や、新聞記事や教科書の本文でも見かけない
そもそも論理的ですらないし、このまま温存して日本語にとって何かメリットがあるとも思えない 「ら抜き言葉」も最初は盛んにそう言われていたが、
のちに方言としてすでに定着していた地域があったことが分かった。
そしてそれが広まっていることも、
日本語の構造となんらかの整合性をもっていることもわかった。
そもそも言語は太古から変化していないわけではなく、
変化は地理的に均一に起こるわけでもない。
変化がいけないとみなすのはイデオロギーを言語学に持ち込むことである。
そうではなく、そのような規範価値付与現象をも客観化すること。
それが言語学が科学である証拠。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています