日本語が簡単過ぎて泣けてくる
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文法は単純で簡単、発音も簡単、文字も言うほど難しくない
こんな簡単な言語は日本語くらいだろ >>695
それは>>672の2)に相当し、以前からあったものだ
その意味では「本が売っている」を誤りとする立場から見ても、正しい さっきフジテレビのニチファミ!という番組の旅行スペシャルで
「時間がなったら門が閉まるんだ」と言っていた
今増えているのはこういう「とりあえず『が』で新情報を提示する」というものだ >>697
だったら「本が売られている」でいいだろう
実際昔はそうしていた
何がいけない?あるいは何がいけないことになった?
ちなみに昔は「本を売っている(主語なし)」でも全然問題なかった
「誰が」は言わなくていい情報として省いていた なぜそうしない?あるいはなぜそう言わなくなった? >>699
さすがにニ格をガに置き換えるのは初めて聞いた
人間の先験的な感覚というのはすごいな >>699
戸が閉まるは何も日本語としておかしくないだろいい加減にしろ!
閉まるは自動詞だぞ >>699
>>702
違うだろ
この場合は「時間」が主語
時間が「(決められた時刻に)なる」ものであると定義されてんだ >>701
この「が」は「とっさに」「とりあえず」出てしまうものらしい
「は」と同じように、情報構造の役割をになっていて、格助詞と交替可能な存在のようだ
最近までの規範的な文法は、旧情報が主題になるとき「は」が付き
格助詞は消えるかハと連なってニハ、デハのようになり、
ガはヲと同様に消えるほうの格助詞の一つだったが、
今度の新興の文法では新情報が「焦点」として文の中心となる時新係助詞「が」で提示され
焦点はいったんほかの格助詞を取らなくなるということらしい
格助詞のガも生きているから当面は混乱が続きそうだ そういう自由研究ではなくちゃんとした言語学者の論文でのソースをどうぞ 「時間になる」という慣用表現に対して「時間がなる」という表現の方が時間(時刻)が特定の状態になるという実態に即しているから標準的でない口語において許容されているというだけで
「に」が新しい用法を持った「が」に置き換わったのではないな いずれ論文になるよ
「本が売っている」だってそうだった 「オッサンのケツに糞まみれのチンポをつうずるっこんでやったら糞とションベンでずるずるして気持ちがええ」を
「オッサンのケツが糞まみれのチンポをつうずるっこんでやったら糞とションベンでずるずるして気持ちがええ」と変えると
「何が糞まみれのチンポをつうずるっこんでやったら糞とションベンでずるずるして気持ちがええって?」という質問への返答にはなりえ
「「オッサンのケツは糞まみれのチンポをつうずるっこんでやったら糞とションベンでずるずるして気持ちがええ」と言い換えることもできる
「時間になったら門が閉まるんだ」を
「時間がなったら門が閉まるんだ」にしても
「何がなったら門が閉まるって?」という質問が日本語として不自然であり
「時間はなったら門が閉まるんだ」はもはや非文である
「時間になる」が一つのイディオムであり不可分なのだからこれは当然
原因は「(特定の)時間になる」という慣用表現の代わりに「時間が(特定の状態に)なる」と言ったからであって
助動詞「いる」の挙動を原因とした「(誰かが)本を売っている」→「本が売っている(状態にある)」とは異質なものだよ G.J.Ramstedt氏によれば、日本語の文法はどちらかというと簡単なほうらしい。
ただし読み書き、特に漢字を除けば。
彼の母語がおそらくはフィンランド語であり、ウラル語族やアルタイ諸語に詳しかったという理由もあるだろうが。
それはさておき、細部を見れば、日本人でも説明に困ることがある。
http://lang-8.com/528751/journals/30244112888845415096903846427142343891
では英語の母語話者と思われる人が「日本語はわかりたい」という文を作っている。
それに対して日本語母語話者と思われる人が
「日本語がわかりたい」
「日本語をわかりたい」
「日本語を理解したい」
と修正している。どれも正しいのだろうか?
あるウェブページでは、「わかる」という動詞は意志を表さない自発の意味があるので、
「わかりたい」という形を作ることができないと説明していた。これが正しいのだろうか? また、五段活用動詞の自発・受身・尊敬は「わかられる」だと思うのだけれども、
この形を作ることはできないという説明もあった。
もちろん可能の形「わかれる」という形も作ることができない。
じゃあ「わかることができない」はどうだろうか?
似たような意味がある「理解できる」を作ることができるのはなぜなのか? 「本が売っている」は「時間がなったら」と違ってかなり普及した言い方だと思われるので、
一時的なヒューマンエラーだとは考えにくい。
ら抜き言葉と同様になんらかの合理性や日本語の動態的構造(変化の法則)とも関係があるのかもしれない。 「本が売っている」に関しては格側の問題というより述語側の問題のような気がするが >>712-713
「わかる」はガ格目的語を取る動詞であり>>672の1)に相当する
ガ格目的語を取る動詞は日本語を学ぶ外国人の教科書にも載っていて、
日本にいる外国人も当然よく知っている
>>714
だがこういう人も日本語教科書に決して載っていない「本が売っている」は話さないだろう
これは日本の若い人とよく会話するような人が、日本語学校の教室の外で習得するものだ >>711
ただし今ここで挙がっている「日本語の難しさ」は、表記法の複雑さのように一目瞭然のものや
ラ抜きのようにバカの一つ覚えで繰り返されるお決まりのテーマではなく、
日本人自身も内省だけでは上手く説明できない現象や、
変化しつつあり立場によって「乱れ」とも取られる現象の最先端だ
>>715
述語側の問題としては
1) 日本語の受け身文には、被害(殺された・盗まれた)・報奨(表彰された・褒められた)といった
動作内容の意味上の制約がある
2) 1)と関係なく、硬い表現では欧文直訳体の無制約な受け身文がよく用いられる←こういう文
3) 1)の制約と同時に日本語のガ格主語は本来は非義務的であり、省略可能な範囲が広い
(かつての「あそこで本を売っている」は「誰が?」と突っ込まれるような文ではなかった)
以上のうち1)だけが残って2)3)の情況が変化して無くなったのだが、
3)に対して新たに「ガ格の義務化」の傾向が生じているのではないのだろうか 「本が置いてある」と同形の「本が売ってある」が普及せずに
「本が売っている」のほうがむしろ普及したのはなぜだろう? >>712
ラムステッドの時代には形態論のほうが盛んで、日本語の統語論に踏み込んだ研究は
あまり盛んではなかったし、いつの時代だろうとプロの言語学者が
「日本語の難しさ」なんていう曖昧で主観的なテーマをそれほど掘り下げることもないからそこは雑談レベル
>>713
意味が似ていても「わかる」は非意志動詞、「理解する」は意志動詞だからね。
非意志動詞とは「死ぬ」「ころぶ」のように動作主の意志で操作できない動作を表す動詞だ。
だから非意志動詞には原則として「たい」を付けられない。
ただし「わかる」を、「理解する」と完全に同じ意味の、意志動詞として使うこともあり、
(これは別の「わかる」と考えてもいい)
その時は目的語の格助詞に「を」を使い、願望の助動詞「たい」を付けることもできる
非意志動詞の特徴は、語によって程度の差はあれ「動詞らしくない」ことで、
「わかる」に「れる/られる」が付けられないのもその例だろう。 >>718
「が+他動詞+てある」は、
・壁に絵が掛けてある
・洗濯物が干してある
・自転車が駐めてある
のように、何かの瞬間的な動作を行った、その「結果」の状態が継続していることを表すが、
本を置いてそれを販売しているという状態の「売る」は動作自体が継続しているからだろうか
「干す」をあくまでも瞬間の動作とみなせばそういうことになる を分ける が分かる
を開ける が開かる(が開く)
をかける がかかる
を預ける を預かる
を授ける を授かる
が負ける を負かす
をどける をどかす
が乾く を乾かす
が空く を空かす
が泣く を泣かす
一定しないが、辞書に自動詞と他動詞の区別が明示してあるとは限らない。
インターネット上の電子辞書には明示されていない。
例文でかろうじて分かるが、その例文でも分からない語もある。
国語文法では自動詞・他動詞の区別が軽視されてきたようだ。 日本人(日本語ネイティブスピーカー)向けの学校教育では
日本語の標準化・統一化ということが大きな目的だった可能性があるので
「本が売っている」やラ抜き言葉を«あえて»教えないというのは分かる。
しかし外国人向けの実用日本語講座ではそういうわけにはいかない。
こちらは外国人が日本人と言語コミュニケーションする実用性を目的としているので
日本語でかなり普及している語用が学校教育によって正統化・統制化されていないからと
言って省くわけには行かない。それは親切な日本語教育ではない。 >>722
それだけ「本が売っている」が、それを子供の頃から使っている世代が意外に思うほど、
歴史の浅い現象であるということ
たぶん平成の歴史と同じか、少し短いくらい
放っておいてもより規範的な言い方に淘汰されるかも知れない
それほど文学性の高い小説や、学術論文や、新聞記事や教科書の本文でも見かけない
そもそも論理的ですらないし、このまま温存して日本語にとって何かメリットがあるとも思えない 「ら抜き言葉」も最初は盛んにそう言われていたが、
のちに方言としてすでに定着していた地域があったことが分かった。
そしてそれが広まっていることも、
日本語の構造となんらかの整合性をもっていることもわかった。
そもそも言語は太古から変化していないわけではなく、
変化は地理的に均一に起こるわけでもない。
変化がいけないとみなすのはイデオロギーを言語学に持ち込むことである。
そうではなく、そのような規範価値付与現象をも客観化すること。
それが言語学が科学である証拠。 書き言葉、とくに上流階級や知識階級の人々による書き言葉は、
近代に外国語の影響を受けている可能性がある。
彼らは外国語を学び、外国語文法を学んでいるだろう。
そして脱亜入欧の視点から日本語を西欧的な文法で解析したり、
その合理性に合うように修正してきたかもしれない。 記述言語学はできるだけ「規範バイアス」というのを避けようとするはず。
理論の整合性が先にあり、それに合わない文例が見つかるとそれを排除してしまう。
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誠意をもってお答えします^^ 川端康成「雪國」
「國境の長いトンネルを拔けると雪國であつた。」
サイデンステッカー氏の英譯 ”Snow Country”
"The train came out of the long tunnel into the snow country."
同じ文章を飜譯してゐる筈なのに文章から受けるニユアンスは全く違ふ。
此れは主語を必要としない日本語と、主語が無いと文章が成立しない英語からくる相違である。
假に英語話者が表面的にでも日本語を話す縡が出來たとしても、「國境の長いトンネルを拔けると雪國であつた」を讀み、
日本人が讀んだ時と同樣の情景、ニユアンスが掴めないと本當の意味で日本語を理會したとは云へぬ。
日本語の有つ此の特有のニユアンスと云ふ者は他の言語には中々見られぬ特質である。 「本を売っている」という表現自体はかなり最近のものしか見つけられなかったが、受身での助動詞「ゐる」でのガ格の戦前での使用例は発見できたぞ
https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/files/1670_9712.html
『でも、京にゐたつて好いことはありやしないよ。それよりも田舍に歸つて、身をかためる方が何んなに仕合せか知れやしないぢやないか……。朝起きると、路ばたの草にも綺麗な露が置いてゐるのだもの……』
(田山花袋『道綱の母』)
この作品は昭和二年が初出である >>729間違えた
×「本を売っている」
〇「本が売っている」 「本を賣る」「本を賣つてゐる」。
「本が賣る」とは云はぬ。
「本が賣られてゐる」が正しい。(受身) 日本語が母語ではない出自不明の旧ガイジの偽日本語は日本語ではないんでそういうのはいいです >>724
それだと、ラ抜きの急激な増加や、
中高年以上で「本が売っている」と全く/ほとんど?言わない/言わなかったことの説明がつかない
その落差の原因は何なんだろう
そこを不問にして「昔からあった」だけじゃあ科学もへったくれもないんだよ 「葉に露を置く」自体が非常に興味深いイディオムだよな
「誰が?」と思わず言いたくなる
しかしこれだって当時は使っている人たちにとってガ格動作主を必要としない表現であり、
神かそれに近い存在の主語や、言い換え形の受け身文すら要らなかったんだろう 古文では「置く」は露や霜が対象の場合だけ自動詞になるようだ
https://kobun.weblio.jp/content/%E7%BD%AE%E3%81%8F
徒然草 一九
「霜いと白うおける朝(あした)」
[訳] 霜がたいそう白く降りている朝。 ラ抜き言葉の仮説の一つに、現在では広く行き渡っているが、
「-られる」との意味上の差をはっきりさせるため、というのがある。
そしてそれが地理方言学的にも「-られる」言葉が尊敬語として多用される地域と
重なっているとする指摘がある。 ラ抜き合理説をあざ笑うかのように、今は「レ入れ」が進行しつつある
「書ける」を「書けれる」と言い「書けれない」のように言う
また可能動詞「取れる」は自動詞「取れる」(いじっていたらボルトが取れた)
と紛らわしく、また動詞によっては可能動詞形にしか見えない「思える」が
可能用法ではなく自発用法(どう見ても私にはそう思える=思われる(自発))しかない
これらの混乱した現象について「ラ抜きは可能用法だけ」「ラ抜きは合理的」という立場の人は何も言わない
そしてどの地方の方言にも江戸時代にも、無いかほとんど無かった「一段ラ抜き」や
「カ変ラ抜き」についても「ラ抜き合理派」は一切触れずに無視し続けている
一段ラ抜き…出れる、食べれる、聞ける(自発用法があり自発の動詞「聞こえる」と衝突)見れる(同じく「見える」と衝突)
「得れる」もどこかで現れているかも知れないし、「射る」の五段化が見られるので「射れる」もあるだろう
無文字言語じゃないんだから、文字言語の単なる習得漏れに過ぎないものを神聖視して
どれもこれも放置する必要もないのではないか ら抜きの「急激な増加」の大きな理由の一つを挙げるなら
間違いなく『しゃべれる、食べれる♪』と歌った
コンビニ「ミニストップ」のCMだろうなあ
あれ最初は「わざと子供みたいな言葉遣いをして」みたいな感じで笑ってたけど
そのうち世間のほうがあれを冗談と思わないというシャレにならん状態になってきた >「書ける」を「書けれる」と言い「書けれない」のように言う
ら抜きが常態の甲州弁なんかだと
それも固定化しているね
「このペン書けれんじゃん」とか 五段の可能動詞化だって合理的でも何でもないね
不合理なレ入れを容認してるんだから kak-ar-eru
kak-eru
ik-ar-eru
ik-eru
omow-ar-eru
omo(w)-eru
tabe-r-ar-eru
tabe-r-eru
tabe-eru
mi-r-ar-eru
mi-r-eru
mi-eru
自発・可能・尊敬、受身という理論的分類モデルを疑ってみたことはないだろうか?
これらの分類を超えたところにその真の意味合いがあったのだろうか? 自発は自然にという意味らしい。自分の意志によらない作用ということだろうか?
可能には状況可能と能力可能がある。状況可能はそれを可能にする環境にあるということだろう。
尊敬は神(自然)への畏怖? 何か自分を超えたものへの畏敬の念か。
受身はやはり自分の外からの影響・作用を意味する。 ik-areru
kak-areru
ik-areru
kak-ereru
レ足しはaがeに変化したもののにも見える。
-ar-抜きは明治末期にはすでに愛知県を中心とした東海地方に定着していたようだ。 ミスった。訂正:
ik-areru
ik-ereru
kak-areru
kak-ereru 自分の意志を中心に置き、それを言語主体としよう。
自分の意志によらない作用が自発・受身であり、物事が可能になる状況・環境だ。
もしかすると
昔の人は個人の能力も神から授かった受身の作用と感じたのかもしれない。
尊敬も神への尊敬、自分の意志を超えた作用への畏怖の念と関連しそうではある。
まあ、類推に過ぎないが、これらがもともと一つの意味をもっていたとしても驚かない。
しかし現代人はこういう思考法を徐々に捨ててきたのかもしれない。
これらの意味が一つであることを不自由に感じるようになってきた。
omow-ar-eru
omo-eru
「思うことができる」とはどういう意味だろうか?
思う能力?
思うは考えると違って「心に自然に浮かぶ」といった意味合いがありそうだ。
心に自然に浮かぶ能力がある? 日本語の受身が「雨に降られる」という形を持っていることからも、
「神や自然の作用を被る」という意味合いをまだ残存させているように思われる。
自分の意志を源にしない作用はすべて-ar-というわけか? 日本語のヴォイスを追いかけていると、
自動詞−受け身−非意志的−状態
他動詞−使役−意志的−動作
という概念がそれぞれ強く関連しあっていることがわかるよ 五段活用動詞のokuru「送る」のar抜き言葉であるokureru「送れる」は
「遅れる」とかぶってしまうね。okurareru「送られる」だとそうならない。
ar抜き言葉がなぜに生じたのだろうね。 「本が売られている」というのは現代日本語ではもはや文語的な固い表現じゃないか?
日常会話では「本が売っている」のほうがごくごく一般的であるように思えるが。 >>749
「している」の形も状態をあらわすニュアンスがあって、
自発や受身に近い連想が話者に働いているってことなんでしょうかね? 「私は«料理名»にします」と言っている人はいても
「私は«料理名»だ」なんて言っている人に遭遇したことがない。
文法学者の書いた書物や論文でしか実際には遭遇しない珍しい文例に思われる。 「〜のほうがごくごく一般的であるように思える」
「〜なんて言っている人に遭遇したことがない」
そんな個人の半径3メートルの知見だけで語られても >>754
実際どういう会話、どういう文脈で「私はウナギだ」なんて言う?
そういう言い回しがゼロだと言わないけど、
特別なシチュエーションでのレアケースに限られないかい? >>751
馬鹿言語屋を基準に物を考へないでくれたまへ・ 「私はウナギで」とは言うけど
「〜だ」と言い切ったりはなかなかしないよな 飲み屋で店員が注文した数種の酒をもってきたとき
「おれはレモンハイだ」とか言うだろ 今の女性語は「だ」に対する嫌悪感が強めで、性別を問わない中立的な「だ」も避ける
女性のニュースキャスターから見かけるようになったが、
「〜べきと述べました」←女性語の引用文の「べき止め」は90年代にはあったが、
今は引用に限らず言い切りにも使い、男性にも波及した
(女性キャスターのこの言い方についての言及は高島俊男のエッセーで見た)
また「僕はウナギで」のように意思表示を「で」で止める言い方も以前はなかった
これによって「だ」の直言・明言を避けて、語調を柔らかくしようとする傾向があるのだろう
こちらは若いサラリーマンからよく聞いたのが最初だったが、あるいは女性が先かもしれない
どちらもだいたい平成に入ってからだろうか >>751
文語というか、明治以降に定着した「欧文直訳体」の書き言葉。
主語に「被害」「受益」のニュアンスのない、会話文らしくないとされる受け身文は、
学術論文のような固い文章だけでなく、動詞によっては広く使われている。←こういう例
>>752
「〜ている」と「〜てある」の違いを考える時、補助動詞「いる」と「ある」の由来の違いに気付かされる。
動詞「ある」は無生物の存在を表し、動詞「いる」は人間を含む生物を主語とする。
そこで>>720の「壁に絵が掛けてある」「洗濯物が干してある」「自転車が駐めてある」を見ると、
壁、洗濯物、自転車、と無生物名詞が主語になっていることがわかる。
これは「…が〜てある」が、「人間」が「物」に対して何かの処置(他動詞で表される動作)を行なって、
その結果が継続している状態を表す構文だからだろう。
対する「…が〜ている」は「生徒が泳いでいる」「おじさんが弁当を食べている」なら人間が主語だが、
「風が吹いている」「岩が転がっている」は無生物が主語だから、範囲がより広いとは言える。
しかし人間が主語になれる他動詞文なら、「*弁当が食べている」とは言えない。
補助動詞に状態的なニュアンスがあっても、人間を主語とする他動詞の後に付くなら
その時点で意志的・動作的になるはず。従来はそうだったが…という話。 「ナニナニだ」には強い語気があるので、念を押したり、
強く何かを断言したり宣言をするときにしか使いませんね。
注文するときには
「にします」や「でお願いします」のほうが普通です。
店員さんが注文したものとは違う料理を何度も運んできて
客がキレて
「俺はウナギだと言っただろう、ウナギだと」みたいに怒る
シチュエーションしか思い浮かばないです。 社会言語学者さんあたりが、実際に調査したり、アンケートをとったりして
データを集めたらいいんじゃないかな?
あなたが料理店で料理を注文するときに使う言葉遣いはどれですかと。
「私はウナギ(にします)」と答える人がもっとも多いはず。
その省略形として「私はウナギ」と言う人はいても、
「私はウナギだ」という人は極めて稀か、特別なシチュエーションでしか考えにくいです。 「ご注文は?」
「中華飯にします」
「私は天津飯」
「じゃあ私は五目ラーメンで」
こういう会話なら自然な日本語です。
「私は天津飯」と言っている人は
最初の人は「私は」を省略しています。
2番めの人は「最初の人と違って私は」を強調するために
「私は」と言っています。そして前の人の「にします」を
自明の言葉として省略して「私は天津飯・・・」だけで済ませています。 >>760
少なくとも現代日本語では「**が売られている」という言い方を
日常会話の中で用いる頻度は稀だと思うけどね。
書き言葉の中か、朗読調でスピーチする場面、ニュースを読むキャスターや
アナウンサーの間では頻繁に観察できるかもしれないけど、純粋な会話ではまずない。
日常会話や5ちゃんねるのようなざっくばらんなチャット型掲示板では
「あそこでAが売ってるよ」という言い方がもっとも自然で当たり前のはずで、
「あそこでAが売られてるよ」という言い方は極めて珍しいか、
形式張っていて論文調の書き込みでしか遭遇しないはず。
会話の中で「売られているよ」というと「売っているよ」とは意味が
少し違ってきちゃうように感じさえする。 「昔のゲームソフトってもう売ってないかなあ?」
「あ、あった、あった。売ってる、売ってる。まだ売ってたね」
「昔のゲームソフトってもう売られてないかなあ?」
「あ、あった、あった。売られてる、売られてる。まだ売られてたね」
後者のほうが不自然だし、言っている意味が少し違うんじゃないかなあ? 「ある、いる」の区別はちょっと微妙なところがあるね。
「ここに人が二人いる」とは言えても「ここに人が二人ある』とは言えない。
昔は言えたようだけど。
「ここに桜の大木が二本あります」とは言えそうな気がする。
もちろん伐採された木材のことではなく生きている桜の木について。
でも、「生えてある」「植わってある」とは言えない。
機械が主語でも「車が走ってある」「飛行機が飛んである」とは言えない。 「てある」はそもそも「ている」と主題の文法関係が違うから 売られているだと、売っているよりは、
その商品目線に立って、その商品がそういう境遇に置かれている
ようなニュアンスを若干感じる。
売っているは商品が現在進行形でお店に置いてあることを指している。 「ウナギ文」は言語学界がつくりだした大いなる虚構ではないですかねえ? A ご出身はどちらですか?
B 広島です。
A Cさんは?
C 私は仙台です。
こういうやりとりなら違和感ないけどね。 「〜だ」言い切りが実際の会話にほとんど現れないだけであって
「〜だよ」とか敬語の「〜です」なら出現頻度も低くない 「今日は雨ですよ」がウナギ文か? これは主題文(トピック-コメント文)だ。
「今日が雨ですよ」これが本当のウナギ文か?
この「が」格は主格なのか?
しかし雨は意味的には形容詞じゃないか? >>771
一般に、
格助詞が文や節の中に閉じたスコープを持つのに対して
係助詞・副助詞「は」は文を越えたスコープを持っていると言われているね。
「は」はその場で交わされた会話全体を支配することがある。
つまり、「注文は?」「ご出身は?」というと、以降の会話では「注文」や「出身」が
話題の暗黙の前提として働き、
その言葉を文に組み込まずに省略(というより簡易化された言い方が)可能になる。
日本語では頻繁に「発話の経済」「発話の節約」が働く。 >>769
本が賣つてゐる→「本が(何かを)賣つてゐる」と云ふ意味になり、文章としては曖昧であり、完結してゐない。
本を賣つてゐる→「本を(誰が)賣つてゐるのか」と云ふ點で文章は完結してゐないが、單文としては意味が通る。
本が賣られてゐる→「本を(何處で)賣つてゐるのか」と云ふ點で文章は完結してゐないが、單文としては意味が通る。
格助詞「が」とは單文の主格を示す者。
格助詞「を」とは動詞に對して用ゐられる語に附屬するものにして、其の動詞の含める作用の影響の蒙る可き目標たる者を示す。
他動の目的は此れである。 >>775
本が賣られてゐる→「本を(何處で)賣つてゐるのか」
↓
本が賣られてゐる→「本を(何處で)賣られてゐるのか」 >>764
「使われています」以外でも、
「いくつもの企業で採用されています」
「ここの趣旨はあまり理解されていません」
は日常的な会話で使わないかな?
被害・受益以外の受け身だからってそんなに日常会話から縁遠いものだろうか?
「売られている」以外の欧文直訳体由来の「(ら)れる」は、
もうかなり日本語の中に定着しているんじゃないか >>767
原則は原則で、もう少し細かい注釈が必要だからといって、
生物/無生物で一旦分けることが無効というわけでもないだろう >>770
自分がよくわからないものは
結託して一つの意思で陰謀を巡らしていると思いこむタイプだろ、あんた >>773
意味なんて主観の産物、どう解釈したかなんてどうとでも言える、あんたみたいにね
言語学はまず形式を調べる。「雨はつらい」「雨で困る」「雨の日」ほら名詞だ >>773
ウナギ文は紛うことなき「主題-評言」文だよ
だからコプラ「だ」「です」が「主語-述語」文と違ってA=Bの形に収まらない
むしろウナギ文は「主題-評言」文の典型と言っていい
あと例文にいちいち「よ」を付けているところを見ると、
話し言葉では「よ」を付けないと「だ」が機能しないと思いこんでいるらしいぶん、
論理構造とモダリティの区別もついていない
「だ」の使用頻度を低める人がいるのは文体的特徴にすぎず、モダリティの問題でしかない
お勉強が中途半端すぎ >>782
関東人じゃないから実態が分からん
関西では口語で言い切りの「〜や」も頻繁に聞くが
テレビや映画を見る限り関東弁で「よ」もつかない言い切りの「〜だ」を会話でそれほど聞くとは想像しがたい
少なくともウナギ文に関して「俺はウナギだ!」という「よ」のつかない自然な会話例でも俺のために作ってくれよ >>783
「よ」は本来
「あなたが知らないことだと思うのでこの情報を伝えよう」という意味の終助詞であり、
同じく終助詞である「ね」が
「あなたもこの情報を知っている/同じように感じていると思う、その情報・感覚を共有したい」
という意味の終助詞であることとの対を成す
東京を含む言語圏は女性語式の言い方の影響が強く、
中年以下の若い世代に言い切りの「だ」だけで終わる言い方を避ける傾向が強いが、
それはとても感情的な文体解釈による要因にすぎず
「だ」自体の論理上の無効や不必要を意味しない
また関係がありそうな現象として、30代以下の若い世代には「よ」を引用の助詞らしきものとして使おうとする傾向がある
敬語を使うあらたまった場面でも「この空間がとても居心地いいですよということをアピールしています」
みたいな事を説明口調で言う人はよくいて、年輩者にはここで強めに発音される「よ」がなんだか失礼で邪魔に感じられる >>775
日本語では「が」と「を」の両用が古くからあったのでは?
>>781
それは語形・形式と意味とを混同している。
>>773ではそのため意味的には形容詞だと書いている。
形式的には名詞だが意味的には形容詞だといちいち書く必要があったのか。 天気予報を確認して「明日は雨だ」「そうか、雨なんだ」などとつぶやくことはある。
スケジュール表を確認して「明日は出張だ」とか。
いずれも「明日は**の日であるんだ」という意味で言っている。
これが対人上になると「明日は雨だよ」「明日は雨だぞ」「明日は雨よ」「明日は雨だね」「明日は雨だな」などとなるのが自然。
ちなみに、「明日は雨か」「そうか、雨なのか」とか言うこともある。「か」がつくけどこれは疑問文じゃない。質問をしているわけでも雨になることを疑っているわけでもない。
ところで、「今日は一段と綺麗だよ」(「今日の君は一段と綺麗だよ」)と言うときの「だ」は何だろうか?
学校文法では形容動詞の活用語尾ということになっている。
しかし実際には「綺麗よ」「綺麗ね」「元気かい?」と「だ」が省かれる例は珍しくない。
>>782
モダリティという概念はなかなか曖昧で掴みどころがない。
どういう意味で使っていらっしゃる?
「である」「であります」もモダリティであると? >>785
> 「この空間がとても居心地いいですよということをアピールしています」
これはべつに不自然に感じない。
てか、この「よ」を引用の助詞っぽいと解釈する理由がわからない。 >>789
文体的な制約も無視し、
伝達内容に対する話者の態度なんていう不要な情報もいちいち盛り込むからだよ
引用と見るや入れてくるのが従来の言い方と違いすぎる >>788
形容詞なら述語になるだけじゃなく修飾語としても被修飾語の性質を表せる
だが「雨の日」と言った所でそれは名詞が名詞を修飾した文でしかない
形容詞ならではの特徴って何だ?
>>787
形式的に名詞で意味は形容詞、そんな言葉は確かにある
英語ならfunみたいなやつ
「雨」が形容詞なら「とても雨だ」のように程度副詞の修飾を受けることもできるはずだが
そんな言い方をするのは破格だとわかっていて修辞的に使う例ぐらいで、慣用的ではない >>788
モダリティという概念を理解しないのは知識を持っていないあなたの問題
どういう意味もこういう意味も、言語学用語としての定義は変わらないし、曖昧でもない
せめて>>420に挙がっている本の一冊でも読んで勉強したらどうだろう
真ん中のがモダリティについて比較的くわしい
>>789
不自然だよ
言葉の乱れの一種
ここに「よ」が入るのは馴れ馴れしすぎ
あと>>785の「よ」と「ね」の対比をちゃんと読んでほしい
それらが「だ」「です」「である」とは根本的に機能が違うということがわかるだろうか >>785
終助詞「よ」と「ね」のご説明は非常にわかりやすくて納得します。 >>795
わかってもらえたこと、たぶん興味を持ってもらえたことがうれしいです ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています