「正しい日本語」で飯を食う連中を晒すスレ
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「正しい日本語」なる幻影を産み出し、日本語の健全な発展を阻害することで飯を食おうとしている不届き者どもを晒し者にするスレ テレビによく出てくる国語学者とやらは大抵これに該当するな
あとマナー講師全員 鼻濁音推進しているやつらは頭おかしいレベルだな。
鼻詰まり発音なんか美しくねえよ。 親方日の丸なんだよ
的を得る、敷居が高い、全然
何がきっかけで誤用論が盛り上がった?
文化庁のアンケートの結果発表がいい燃料になっている ら抜きは「-じゃん」同様、愛知県あたりを中心とした方言かな?
あのあたりに代々住んできた人にはら抜きは何の違和感もないと思う。
「-れる」は行為主の能力を指し、
「-られる」は対象物や環境の能力(可能条件)を指す、
という区別すら、微妙だが、存在していたりする。
「-られる」に受け身のニュアンスがあるせいか? 「食べれる?」(嫌いな食べ物じゃないよね?)
「食べられる?」(毒が入ってないよね?)
というニュアンスの違いがある。 中部方言ということなら長野・山梨・静岡あたりが主で
愛知は名古屋が大都市だから中心と言えないこともないんだろうけど
むしろなんだか端っこの印象があるなあ 林修だな
まああいつは国語の塾講だから仕方ないかもしらんが >>10
あるんだよ。愛知県人はこの二つを意味の上で微妙に区別する。
「着れる」は着る人が着る能力・スキルを持つという意味で、
「着られる」はその対象物がその性能・属性を持っている、
または、その人の体にフィットするようなサイズだ、という意味。 愛知県では県内ほぼ全域に渡って明治生まれの人の間で
「ら抜き(ar抜き)」がかなり普及していた。 「市場経済」と「統制経済」という言葉があるように
言語にも「市場言語」と「統制言語」という区別が設けられそうだ。 林修は「的を得る」が必ずしも間違いではないと公に言っているしある程度の分別はあるよ
出てきたのは正しい日本語ブームみたいなのがある程度落ち着いてからだし そりゃ仮にも教育者側の立場なんだから規範主義なのは当然だろ
確かクイズ系の番組だったと思うが、的を得るに触れただけでも革命的であり
同業者から見れば暴挙とも言える行為なんだろうな
まあテストではちゃんと的を射るって書けよ、くらいのことは言ってるんだろうが
そういや規範主義って言葉を延々勘違いして使ってた馬鹿が居たなwどうでもいいけど 雑学本とかビジネスマナー関係の連中だな害悪は
後者は正しい日本語みたいなのとはちょっと違うが
「了解」を事実上封印されたのもマナー馬鹿の仕業だな 規範主義というよりは統制主義なんだよ。
本来の規範というのは市場原理の中で自然に育ってくる自生的なもの。
学校教育の国語はその規範の流動性を排して上から一律に統制しようという
統計言語政策として考えるべき。 規範主義で良いんだよ
日本語の理論を無視した規範が有ったりしてそれが問題になるだけ
こういった現象はどの言語でも起こりうること 一番問題なのは
その規範を盾に日常会話でちょろっと出たような言葉にまで口煩く言う連中がいるってことかな
で反論すると口を揃えて言い訳だと言う
自分が正しく日本語を解釈できていないのを棚に上げてね
規範主義と記述主義という対義の関係にある言葉が有るのに
そこに統制主義なる言葉を持ち込んで混乱させる必要はあるまい
あえて統制主義と言うなら上に挙げた日本語の枠から外れたような連中を統制主義者とでも言えば良いのかも知れない 言語学板には規範主義的というか、頭が凝り固まった人が多いね。
従来の学説にしがみついて、べつの説が提案されると、それだけで許せないらしく、
眼の色を変えて「けしからん」とお説教をしたがる。 そもそも日本語を言語学的に解きほぐす試みせさえ拒絶反応が激しい。
国文法だけが正しいと信じきっている。 >>26
規範には流動性があるんだよ。それは社会学的にも常識。
その規範を上から一つに統制しようとする全体主義が統制主義。
規範主義のさらに上を行く政治的なイデオロギーだよ。 >>29
日本では「言語学」的な考え方が全く浸透していないからなあ
まともな学者以外で海外の情報ソースにアクセス出来るような人間がほとんどいないし 的を得るを正しいと訴えてた住人を正義の棍棒で殴ってたら
いつの間にか自分のほうが間違いだとされていた件でトラウマを負った住人が結構いるらしく
それ以来、言語学板で日本語などの言語の規範を語ろうとすると
ローカルルール違反だの何だのと難癖をつけられて荒らされるようになった気がする >>30
流動性あるじゃないか
現に的を得るだって以前は間違いだとされていなかったんだから
問題点は「従来の日本語の意味をよく考えずに変更してしまったこと」と
その変更を「よく考えずに未来永劫正しいと思っている人間の存在」な
流動性がないという思想は後者の人間のように危険な考え方だよ >>33
それに関しては全く的外れな推察ですぜ
まあ気のせいってことです ら抜きは間寛平がよく使ってるな
関西圏のどこかの訛りにあるんだろうか ら抜きは日本全国至るところでみられる普通の現象
たまたま規範文法に採用されなかっただけ
「できらん」というら入れ方言もある ら抜き言葉、英語で言うなら三単現のsを抜くような感覚なんだろうな
そういう言葉を使う者同士ではコミュニケーションに何の支障もない一方で
規範的な話者が聞くと激しく知性の欠如を感じる(ので避けられる)辺り 三単現のS抜きの話とはレベルが違うと思うけどなあ
激しく知性の欠如を感じるような人間なんてもはや50代以上の偏屈なおっさんおばさんだけでしょう 「的を得る」が正しいかどうかは「正鵠を得る」と関連付けて論じないとダメだろ。 純粋に論理的な正しさと慣習的な正しさがあって、
「水を飲みたい」のほうは論理的に正しく、「水が飲みたい」の法は慣習的に正しい。 むしろ「正しい」という表現こそ知性の欠落を感じるけどな >>45
うん。まあ「正しさ」は存在するけれど
「現在の」「フォーマルな共通語の基準で」等々と
はじめに限定しないと意味をなさないし議論が成り立たないよね
>>39 みたいな話が入ってくるときりがないし 「自発」という言葉は
もともとは「自然に、独りでに、無作為に」を意味したんだろうか?
学校文法でいう「られる」の自発という意味は、
われわれが今日使っている「自発的」という言葉の意味とは異なるように思える。
今日の意味では「自らの意思で進んで何かを行うこと」を自発的と言ったりする。
しかし学校文法でいう「自発」は「自分の意思によらず自然にそうなってしまうこと」
「外的または無意識か無作為な力に動かされてそうなってしまう」ような意味合いがある。
この本来の意味ならば「自発」ではなく「自然」と言ったほうが近い。
でないと、「られる」が「自発、受け身、畏怖」の意味を併せ持つというのを論理的に理解しにくい。 人びとは文法理論を教えられると、文法的先入観・文法的偏見・文法的バイアスに
囚われてしまうことがある。学者でさえも時としてそうなる。
文法はあくまでも理論モデルにすぎないのに、理論モデルのほうが正しくて現実の
ほうが間違っていると考えてしまうのだ。
言語学でもこういうことが起こる。ある文法理論が他言語から借用されたものだったり、
不完全なものだったりした場合、その不完全さを忘却してしまって現実に存在する
観察対象の言語が文法にうまく整合しないときに、理論モデルを疑うのではなく、
対象を疑ってしまうのだ。
自然科学でもしばしばそうした観察バイアスが働くことが知られているが、
言語学では特に起きやすい。 日本語の動詞も、時制は実際は「完了」「未完了」の対立なのに、「過去」「現在」「未来」の対立があるように勘違いされてるよな
英語教育の影響か。まあ国語学者はさすがに印欧語的な時制が日本語に当てはまらないとはわかってるかな?
とはいえ英語でも未来形は厳密には独立した活用形としては存在しない そもそも未来のことを直説法で表現することは本当は科学にさえできないはずだから
純粋な未来時制が存在しないことが論理的には正しい。
「列車が来る」その列車がこっちに向かっている様子がまだ見えていないが予期している状態。
「列車が来た」その列車がこっちに向かって近づいている様子が見えている状態。
「地震が来る」その揺れをまだ感じていないが、予期している状態。地震予知。
「地震が来た」その揺れを感じている状態。
「(僕は)君に会いに(ここに)来るよ」その意思がある状態。
「(僕は)君に会いに(ここに)来たよ」その意思を実現している状態。 「来る」のような動詞ではこの形は動作の未実現状態を指している。
そのため「来た」はそれに対立して動作の実現状態を指している。
「ある」や「いる」のような動詞ではこの形は未実現状態と実現状態の両方を指している。
じゃあ「あった」と「いた」は完全に過去のことかというとそうとも限らない。
探しているものを今ここで発見したときにも「あった!」とか「いた!」と言うことが多い。
もちろん同じ状態を「あるよ、ここにある」「いるよ、ここにいる」と表現することも可能。
これらの動詞は時制ばかりかアスペクトでも説明しにくい? 言語学も広い意味での社会科学だと思うけど、
社会科学の場合は自然科学一般と比べると
規範と社会的現実との関係が密接に絡まっているぶん、
事態はかなり複雑になる。
つまり、文法理論が実際に社会を動かしているからね。
経済学にも同様の問題がある。
経済学者の発言や理論が実際に経済を動かしている面がある。
ルーカス問題だね。社会現象としての言語にもある。 別に規範自体を否定はしないのだがそれを言語学の話題に絡めるのはやめて欲しい
あれはもはや政治や宗教の分野の話だ
言語学に侵食するにしてもせめて社会言語学の所掌にとどめておいてくれ 日本語を学習する過程において学習指導要領が大きなウェイトを占める以上
現状との乖離齟齬といった観点で規範を引用するのは有用だろ
「規範こそが正しい日本語だ」のような理論展開はすべきでないと思うが
「的を得る」なんて規範で誤用ということにされているから実用に障害が発生してるパターンだしな
「汚名挽回」なんかは規範とは無関係のところで発生したことだから絡めても意味ないだろうが 連投ですまんけど、規範が絡んでくるケースはそんなに多くない気がするな
大抵は声が大きいか肩書きが立派なだけの馬鹿の仕業
若しくはそれらの発言を誰かが曲解したのが一人歩きしたものが多いように思える
統計取った訳じゃないので印象論でしかないが 「正鵠を得るために射る」ことを「正鵠を得る」って言っていたんだろ。
「正鵠を射る」は後からできた表現だろ。 1. 言語現象は社会的あるいは市場的なものである。
よって言語学は社会市場で実際に流通する言語現象を観察し、そのデータを集め、
言語の構造、流通の構造、変化の構造、それらの社会的仕組みとその法則を解明しようと努める。
2. 語には意味とともに価値がある。
その一つが規範価値である。規範的価値付の主体がどこにあり、誰がどういう理由でそれに従っているか、
それらも言語の流通構造を左右する大きな因子である。
つまり、言語の流通は極めて政治的なものである。言語学はこれらも科学的に客観化し分析する。
言語の構造やその変化にこれらがどう作用しているかの解明に努める。 >>59
言語学者は常に観客、常に批評家でなければならないが
舞台に上がり込んで役者になって大衆や宗教家と一緒に演劇に参加してしまう者も多い 「清く正しい言語学」に固執するあまりスレタイを無視するパターン
一つの単語から始まるミクロな話でもマクロ視点なら言語の構造的な問題が顕在化したものだったりするし
そこまで神経質になる必要はないと思うがね >>60
批評家と客観家はまったく違うよ。一般にはそこに対立線が引かれるでしょ。
前者がイデオローグ、後者が科学者だと。
この話の趣旨は、言語学者が科学者であるつもりなら後者になるべきだってことでしょ。 しかし規範をやたら毛嫌いする奴多いよなw
思考停止して規範を盾にすることしかできないバカの一つ覚えな日本語警察がなにかっつうと発狂し出すから辟易するのは分からんでもないが 規範は言語政治学の問題だね。
つまり言語をどう統制していくか、標準化していくか、計画していくか、
そうすることで社会に言語を活かせるか、という方法学・政策学という分野だね。
言語学というよりは政治学のサブカテゴリーに属する。 規範単体で考えればそうなんだけど
常に新しいものや社会に対応するために変化しようとする力(記述主義)と
共通認識のためにある程度変化を止めようとする力(規範主義)と
せめぎ合いのようなものがあって初めて「言語」だからな
変化しようとする力を抑制するためには政治的な力が必要不可欠ってのも
程度問題はあるにしろまた言語の特性であり構造上の問題だしな
まあ一度言語規範のない世界に行って確認してみたいものだけどな
特に現代はラジオやテレビのような「垂れ流される情報を多数で同時に受け取る」形から
ネットのような「自分の意思で得たい情報だけを拾いに行く」形に変化して来てるんで
もしかすると2世代も違えば今のジェネレーションギャップとは比較にならない
外国語のような日本語に聞こえたりする可能性もあるな
なにしろ規範がないってことは学校単位教師単位で教える内容がバラバラってことだし
教育される側だって規範など無い前提で受ける訳だからな >>67
社会市場の中に流通し、個々の話者が自由に従う自生的な規範意識と、
言語学や政治学が上から押し付ける規範文法(理論の押し付け)とは分かたほうがいいと思う。
それは学問上の理論が社会的現実に働きかけて現実をその理論に合うように作り変えてしまう
という「予言の自己成就性」の問題で、それは政治学として客観化したほうがいい。 押し付けるという政治の部分を直接言っているのではなく
政治による押し付けが規範になり得るという言語の構造的な話な 国家単位で言語の使用を統一するための政治介入がある、という客観的事実が存在する。
現代における言語学において外せない点じゃね?
スラングや少数民族の言語は別として多くの言語は既に、仲間内で意思統一出来ればいいやって性質のものではないし。
「押し付け」などという悪意を感じる言葉の選択もどうかと思うしな。
政治学に分類されるから言語学には分類されない、みたいな明確な分類方法なんてものが言語学にあったか?
一つの論点について分類する学問のジャンルは単数でなければならない、なんてルールは聞いたことがない。
むしろしばしぱ重複するものだと考えているんだが、その考え方は間違いなのか?
間違いだと言うならその根拠を示してくれ。 >>71
言語を研究するときに政治要素を考慮すべきではないという高次元の話ではなくて
「正しい国語」という理念上の存在を大衆に教導すべきではないというもっと低次元な話だと思う
言語学的に望ましいのは言語に対する権力や権威の統制がどのように機能しているかを中立・客観的に記述することであり
何が正しくて何が誤っているかというような、宗教論争の内部に入り込んで論を戦わせるものではないと思う なるほど。
君の論調が「〜だと思う」だということは、それはあくまでも一意見であって、何ら客観的で強制通用力のある類のことではないと解釈した。
根拠がないなら無理に反論しなくても良いです。 「正しい日本語は間違っている」でオナニーをする連中を晒すスレ 「オナニー」のように過激で扇情的なワードを使う人間は自らの言説の価値を貶め
人に納得させることを放棄してるに等しい つまり、文法学者が作ったモデルが、現実の言語に押し付けられて、
現実の言語を政治的に変容させてしまう現象があるということ。
これが生じる可能性を科学的に客観化しなくては、科学ではなくなり、
イデオロギー的な運動になる。 >>71
「正しい日本語」というのは存在せず、そのようなイデオロギーが存在するということ。
これは純粋に政治学の問題であって言語学の問題ではない。
言語学が対象にするのは、言語が実際にどのような頻度で使われているかということ。
「あるべき言語=当為」と「実際にある言語」とを混同しては科学ではないということだよ。 長らく御愛用頂いた「敷居が高くなる原因は不義理」「一人では爆笑出来ない」ネタは2018年1月11日をもちまして取り扱いを終了させて頂きました
既に在庫の取引等も行っておりませんが、度々お問い合わせを頂きますのでここに再度お知らせいたします
長年の御愛顧まことにありがとうございました
185 :名無し :2018/06/15(金)04:59:14 ID:WAS
敷居が高いと爆笑
https://goiryoku.com/shikiigatakai/
http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/touch/20160526
「辞書が間違っていた」もしくは「まだ辞書に載ってなかっただけで、昔からその使い方もあった」とゆうパターンやなあ
というかなんでみんな辞書基準で語りたがるんやろ?あれ会社によって書いてる事違ったりしてくっそ適当なジャンルやけど 424 名無し象は鼻がウナギだ! 2018/06/16 05:02:14
50ななしのよっしん 2018/06/15(金) 19:13:01 ID: ALTSZz9sGO
もう一度、文化庁の報告をよく読もう
http://www.bunka.go....es_10/series_10.html
「失笑はこらえきれずに笑うという意味だが、笑いも出ない位呆れるという意味と勘違いしている人が多い」
「ではなぜそんな勘違いが生じたか」
「失笑という字は、笑いを失うとも読める」
「失笑を買うなどの形で、あきれて笑う時に使うことが多いので、あきれた時に使う言葉というイメージが出来た」
(あきれた時に失笑を使うのが誤用とは言ってない、むしろ色々な正しい使い方の中でそういう使い方をするケースが多いと言っている)
(失笑を買うという形でないとあきれた話に使えないとは一ミリも言ってない。そう解釈できる部分もない)
「『笑いを失うと読める字』+『あきれた話に使うイメージ』で、誤用の方の意味が出来た」
(あきれた話に使うのが間違いとは言ってない)
「失笑を愚かな言行に対する笑いと受け取って、冷笑や嘲笑のような意味で使う傾向もある」
(説明不足。確かに失笑は愚かな言行に対する笑いという意味ではないが、冷笑や嘲笑のような意味で使っても問題はない)
(こらえきれずに嘲笑してもこらえきれずに冷笑しても失笑なので…)
425 名無し象は鼻がウナギだ! 2018/06/16 05:43:58
http://✕;ipansion.com/✕S8qN
(カスペルスキー先生が怒るのでリンクを一部改変しています)
426 名無し象は鼻がウナギだ! 2018/06/16 07:06:52
そのリンクは5ちゃんねる言語学板への宣戦布告と受け取ってよろしいか 137 名無し象は鼻がウナギだ![sage] 2018/06/12(火) 03:05:48.05 ID:0
https://99bako.com/1656.html
言葉の救急箱からもう一つ、去年には既に「辞書が間違ってただけ」という情報がかなり出ていた爆笑の話
まあ騙されてたのはこの人だけじゃないんだけど去年後半の時点でこんなまとめ作ってるのは情報が遅い
30代以上の大人はみんな薄々気付いてると思うけど、「爆笑は大勢で笑わないと誤用」って話はネット時代になってからしばらくして急に広まり始めた
昔からみんなそんな使い方してないから普通の人はおかしいと思ってた
「ネットバカ」「情報収集にインターネットなんか使ってる情報弱者」にしか流行ってない話だからね 國語教育に関する質問主意書
昭和六十一年十二月四日提出
質問第二五号
國語教育に関する質問主意書
右の質問主意書を提出する。
昭和六十一年十二月四日
提出者 滝沢幸助
衆議院議長 原 健三郎 殿
國語教育に関する質問主意書
凡そ教育は國の存立の基本を培ふものであり、ことに國語教育こそはその基本である。世界の殆ど総ての國がこれに全力を尽してゐる所以である。
然るに我國においては、戦後の教育制度の改革に當つて、漢字の制限、假名遣ひの改變など、むしろ國語の傳統を中断する傾向があつたことは洵に残念なことと言ふべきである。
即ち、今にしてこの弊を改め、本來の國語を恢復する爲の教育を確立することは、國政の急務である。
よつて、其の方針について質問する。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a107025.htm 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 神奈川県知事と言う場合
神奈川県の知事と言うニュアンスですか?
それとも神奈川の県知事ですか? >>77
んじゃあ君は、学習指導要領に「本来の用法ではない」などとされた影響で、
「言語が実際にどのような頻度で使われているか」が変化するようなケースはどうやって論じるの? 正式には県知事という役職はない
知事が正式名称で管轄の都道府県名が付く >>86
だから、それは「イデオロギー効果」として客観化されなければならないものだと書いているじゃん。 なんらかのイデオロギーをもった社会集団が言語の市場流通に介入してそれを政治的にコントロールしようとし、
その政治闘争に成功した事例として論じられねばならないということだよ。 >>90
全くもってその通り
あくまで中立な立場で客観的に観測し記述するよう努めることが重要
どちらかの陣営に加担して神学論争の只中に入り込むのは言語学者としては愚の骨頂
我々は歴史の証人として下らない争いの行く末を見届けるのみ もっぱら私腹を肥やすために、既存の意味を改変・限定・否定するような風説を流布させている集団について
批判的に論評するくらいは許容してほしい だから、イデオロギーの妥当性を議論する政治学というのはありうるよ。
マイケル・サンデルさんが正義の妥当性を議論したようにね。
日本語はどうあるべきか、どうあったほうがどういう点で優れているか、人々の効用を高めるか、みたいな議論があってもいい。 例えば、俗に人工言語とか計画言語とか設計された言語と言われている言語は、それを設計する人に言語はこうあるべきだという当為(イデオロギー)があって、その理念に基づいて言語が設計され提案されていることがしばしばある。
そういう当為を自然言語に対しても施したいという意識が芽生えても不思議じゃない。 ちょっと違うんだよな
「看護婦ではなく看護師と呼ぼう」とか
「犬に餌をあげるとは言わない、犬に餌をやると言うべきだ」とかいう主張は理解できるしそれを静観しろというのも分かる
ただ「犬と言う言葉は本来fishのことだ、だからdogをイヌと呼ぶのは誤用だ」みたいな
明らかなデタラメについては否定・批判する権利くらいあるだろうという話 >>89
じゃあ何故>>71に反論した?
しかも「押し付け」という主観的な言葉の選択をしたのはおまえだよな。
まあ本人かどうかは分からんが。 >>91
因みに「押し付ける」なる言葉の選択をすることによって、
中立的でない、明確に政治とは反対側の立場に立ってものを言っているのは>>69な。
「押し付ける」が「押し付けられる側」から見た主観であることは言うまでもないよな。
でだ、俺が>>71でどちらかの側に立ってものを言ってるように見えるか?
見えるというなら訂正するが。 現代表記は明かにGHQ占領期に改惡された押附である。 >>99
イデオロギーだつて、言語學板にゐ乍ら現代表記の經緯を知らぬとは嘘だらう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています