ソシュールって過大評価されすぎじゃないか?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
言語学を構造主義と結びつけて哲学者の関心を惹きつけただけで大して新しい概念を生み出したわけでもない(そもそも構造主義自体が空虚)
通時と共時とかいう言葉が残るだけでソシュールの思想は現代の言語学には受け継がれてないし生成文法や認知言語学が流行りだすとすぐに時代遅れな概念として破棄された ソシュールは次のように考えた。
(1)シニフィアンとシニフィエは常にセットであるということ
(2)私たちは「記号の体系」の外に出ることはできないということ
(1)からいえることは、「タケシマ」という表現(シニフィアン)を聞くことであの島(シニフィエ)が想起されるということだ。
(2)からいえることは、「想起されるあの島」は、実際のあの島ではないということだ。私たちは「記号の体系」から独立した「実際の世界」を知ることはできない。
つまり、私たちが「タケシマ」という音声を聞いて想起するのはシニフィエでしかなく、実際の島ではないのである。 >>169>>170
「記号の表現面」
雑。ぜんぜん違う。間違っている。 >>172
どこが間違いで、正しくはどうなのかを書いてね。 「表現」って言っちゃったら、
音声と意味、意味するものと意味されるものとに
分けてとらえたのが台無しになっちゃうじゃないか
ゆるい、ゆるすぎだわ >>165
>「竹島」とか「独島」ってシニフィアンがあるけど実際には海に島が浮かんでるだけ。
「実際の島」と対立するのはシニフィアンじゃなくて「記号」。
だから、
「竹島」とか「独島」って記号があるけど実際には海に島が浮かんでるだけ。
とすべきだった。
シニフィアンと対立するのはその意味(シニフィエ)。
だからどうしてもシニフィアンという言葉を使いたいなら
「竹島」とか「独島」ってシニフィアンはその表象(シニフィエ)を想起させる
となる。 >>172->>175
ソシュールの『講義』では、シニフィアンとシニフィアンは、それぞれ記号表現、記号内容と呼ばれてないけど、後の言語学者たちはそう呼んだ。
そして今日、言語学の世界では「シニフィアン=記号表現」「シニフィエ=記号内容」ということで定着している。
いまパラパラ開いてみた西田龍雄編『言語学を学ぶ人のために』(1986)のpp.11と、ムーナン著『ソシュール』(1974)のpp.64でも確認できた。
なので「記号の表現面」で問題ないでしょう。 >>177訂正
誤)ソシュールの『講義』
正)ソシュールの弟子たちによる『講義』 ウィキペディアの日本語版の言語学の記事はデタラメ多すぎ
図書館行こう、本物の百科事典を読もう
ていうかこの際電子辞書の百科事典でもいいよ >>179
君、ちょっと格好悪いよw
wikiに間違いが多いのは確かだけど、
シニフィアンを記号表現と理解するのは、>>177にも書いたとおり言語学の世界において妥当であり常識になってるよ。 百科事典で「シニフィアン」を調べてみた
https://kotobank.jp/word/シニフィアン-164126
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
>言語学用語。「能記」などと訳される。言語記号の表現面 (音のイメージ,聴覚映像) をさすもので,
>それに対し言語の内容面 (意味,概念) をシニフィエ signifié「所記」という。
世界大百科事典
>言語記号は自らに外在する指向対象の標識ではなく,それ自体が〈記号表現〉(シニフィアンsignifiant)であると
>同時に〈記号内容〉(シニフィエsignifié)であり……
百科事典でも、シニフィアンは「記号の表現面」とか「記号表現」とされてるね。 「表現」だけだとまだ舌足らずだよ
「記号表現」でやっと足りる
それにしてもなぜ「形式」にたどり着かないんだろうねこいつは
記号の実際の機能を語る段になると、もうシニフィアンだのシニフィエは用済みなんだってことも覚えろよ
連呼するだけダサいんだよ 言語以外の絵画・音楽表現を記号と呼んではダメですか?
ヴィヴァルディは世界から四季の移ろいを分節して表現しました。
ゴッホは黄色の花を分節して表現しました。
世界から物事を切り取って表現されたものが誰かに何かを想起させるなら記号やシニフィアンとも呼べる気がするのです。 ほらわかっていない
記号とシニフィアンを同一視しているのが間違いだっての
記号自体がシニフィアンとシニフィエでできているんだから 丸山は言語だ言語だばっかりで深みが無い。
ソシュール同様信者が絶賛してるだけだわ。 ソシュールは当時の言語学のまとめとして教科書的に挙げられているだけで
文学的に崇拝されてるわけじゃないぞ
「絶賛」とか「信者」とか何もわかってないだろ
言語学の教科書ぐらい読めよ >>184
>言語以外の絵画・音楽表現を記号と呼んではダメですか?
言語(ラング)ではなくても絵画や音楽の表現は作者が(知覚的なものであれ想像的なものであれ)何らかの表象を
「抽象化・象徴化する能力及びその活動」=「ランガージュ」の結果として実現したものなので
記号というか言語記号(シーニュ)であると捉えても間違ってはいないと思います 物事が相対的にのみ決まるってシステム論は、当時からすれば画期的だったんじゃ? ソシュール通らしいみんなとしてはバイイってどうなの? >>189
実際文学的に崇拝してる奴らがいるから困るんだよな 崇拝しているって言ったってただ名前を挙げてマウントしたいだけだろ
構造主義についても何にも理解していない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています